【第8章 はじまり 第73話 速度は空間があって意味があるもの】
「美咲ちゃん」
不機嫌そうな表情のまま美咲が顔を上げると、黒田病院の職員用休憩室の入り口のドアに、近藤真理雄が笑顔で立っていた。
「なぁに?次から次へと」
「おわ。機嫌悪そうだね。美咲ちゃんに話があったから、通してもらったんだけど」
美咲は残ったサンドイッチを口に放り込んだ。
「あんまり時間ないわよ?すぐに病室回りに戻らなきゃいけないから」
真理雄は笑顔で答えた。
「うん、1秒もかからないよ」
美咲は呆れる様な表情をした。
「1秒でできることなんて何もないじゃない。もう過ぎちゃったわよ……でもないのよね。気持ち悪いったらないわね。もう説明はいらない。上手くいかなかったの?翔子を誘拐させないのは簡単だとか言ってなかったっけ?私の記憶が正しければ、翔子は誘拐されて、悠太君が引きずり出されて、解放されて。でも結局私はGSOウイルスの感染患者の対応をしているのだから、悠太君がアリシアの姉妹を作って渡してしまった。で、結局人類存亡の危機が迫っていることになっているじゃないの」
「さすが美咲ちゃん。あり得ない位記憶が定着しちゃっているね。そしてうまくいかなくてゴメン。何回かトライしてみたんだけれど、相手の民兵の能力や準備が、僕が想像しているよりすごくてね。毎回同じように翔子ちゃんがさらわれて、悠太君が助けに行って、エキドナにアリシアの妹が渡ってしまって、GSOウイルスがまん延して、GSO-6という人類を滅亡させるウイルスが発生してしまうループから抜け出せなくなっている」
「何回かトライしてって、簡単に言うわよね。そのたびに翔子が怖い思いをして、悠太君も傷ついて苦しんで、NSSの人だって辛い思いを味わっているんでしょ?気分が良いものではないわよ?そこのところ理解しているの?」
「そうだよね。ゴメンね。何度か失敗しちゃっているから、アニマ同士のつながりも強くなってしまって、運命とか宿命とかいわれる流れへの巻きこみが、強くなってしまっているんだ。だから違う視点からアプローチする必要が出てきちゃったんだ。繰り返すたびに、何度も同じ道を踏み固めた登山道みたいに、歩く場所が同じになってきてしまってね」
「え?ちょっと混乱するなぁ。何度か繰り返しちゃったということは、つまり時間をかけてしまったと同義でしょ?だとするとエントロピーが増す。つまりどんどん乱雑さを増していくのではないの?つまりがん細胞が一つできました。これはみんなの身体に毎日、毎時間起こっている事実だけれど、これを抗体が処理できない場合、時間とともに体中にがん細胞が増えていき散らばっていく。これがエントロピー、つまり時間の経過でしょ?真理雄君が言っているのとは逆よね?」
「さすが美咲ちゃん。でも僕たちという存在が、何度も情報を伝達していくうちに、僕たちのつながりの一部が強くなっちゃうんだよね。それを人は運命とか言うんだけれど。何度も美咲ちゃんと悠太君が夫婦を繰り返すと、その二つのアニマ、つまり情報を伝達する僕たちの関係が強くなる。今更僕が何かをしても、美咲ちゃんと悠太君を切り離す事が困難になるんだよね」
「それは願ったりかなったりだけれど……以前こんな空間で……空間と呼んで正しいかは別として、真理雄君と話している時に、私がアニマとは時間なの?と聞いたときに、そうであるしそうでないと答えたと思うのだけれど、もう一度聞くわ。あなたたちは、そして私のアニマとやらは時間なの?」
「そうだね。人間風に言うとゼロヘルツの電磁波が正解なんだけれどね」
「ちょっと待ってよ。そんなこといまさら言い出したら、マクスウェルが草葉の陰で泣き出すわよ?ゼロヘルツだったら波じゃないから、そこから動かない電場とか磁場とかになる訳でしょ?そこから動けないから何も伝えられないじゃないの」
「前提として、ゼロヘルツの電磁波はエネルギーも電気も質量も持っていない。だから人間にはないのと同じ。それが僕たちアニマなんだ。情報を伝えるという存在。質量もエネルギーも持っているけれど、アリってさぁ、移動速度より早く情報を全体で共有できるんだよね。アリの巣から砂糖まで距離をアリが移動するには片道1分だったとする。つまり情報を巣に伝えて、その巣からアリが砂糖に到着するまでは早くても往復2分かかる。にもかかわらず、1分後にはその砂糖にアリが群がっている。アリの情報伝達の仕組みに僕たちは似ているかも。イメージで話すと、小さすぎて人間には見えないアリの情報網絨毯が敷かれていて、そのアリが伝言ゲームをする。砂糖を抱えられるアリがその情報を瞬時に把握して集まってくる。……人間に見えないものを説明するのって難しいね」
「昔ありそうってなって、やっぱりなかったってなった『エーテル』みたいね?」
「そうなんだ。無いとされちゃったし、人間が考えるそれとはそもそも違うんだけれど、存在としては同じことだね。波のように流れ動くことも、密度もない。あるのは情報だけなんだけれど、僕らはその専門家だから言語化を必要としない。だからそれを言語化して波に乗せる必要はないんだ。説明が難しいね」
「まとめると……情報とは私たちが知っている、2進数や10進数や言語に変換を必要としないものである。例えば写真ね。見たものをそのままの形で伝えあうことができるあなたたち。でも電磁波の速度、つまり光の速度は超えないのよね?それなのに宇宙の果ての情報も瞬時に共有しあえる理由はなぜかしら?」
「光の速度を超えないのに宇宙の果ての情報を知っているのはなぜ?というのは、前提として空間がある場合なんだよね。ここはイメージできない部分だろうね。すごい伸縮率を持ったゴムひもが入っているジャージのズボンがあるとする。そのままだとウエスト10センチの人用。でもウエスト80センチの人も履くことができる。無かった空間が発生している状態だね。実際にはゴムの密度が変わっているけれどね。距離の問題は空間の問題だから、この程度しか説明できないけれど……伝わるかな?」
「つまり私たちが不変と思っている空間は、あなたたちにとっては伸び縮み自由なものである。東京とブラジルサンパウロをお隣にもできるってこと?」
「地球という物質の上にある、東京とサンパウロの距離は僕らでも縮ませられないけれど、地球と宇宙の果てであればお隣さんにすることができるね」
「物質を小さくすることはできないけれど、物質が無ければ縮められるってこと?」
「何もない空間は何もないからね、そこにはそう、ルールが無い?そもそもが宇宙の果てなんてないからね。空間ベースの人間には、何とも理解できないよね」
「アンドロメダを目指した銀河鉄道999の哲郎とメーテルが泣くわね。ってことはよ?500光年くらい離れている、さそり座アンタレスの方が、大阪より近いってこと?」
「近いという概念自体がもう、空間ベースなんだけれどね。近いを情報の伝達にかかる時間とするのであれば、そういう言い方もまあできるかな」
「毎回真理雄君とこの環境で話をしていると、一つの同じ帰結を迎えるわね。人間ができることは私にできない訳がないと思って生きてきたけれど、人間には理解できないことは私にも理解できないわ」
「そうだね。人間には理解できないことだね。観測できないものは無いのと同じだからね。シュレディンガーの猫だね。嫌みったらしく例えてみたところで、わからないものはわからない。としか言いようがないよね」
「で?次はどうするつもりなの?」
「翔子ちゃんを誘拐する現場で止めるのは難しいようだから、そもそもエキドナに手を出させない方針でやってみるよ」
「エキドナという団体を生み出さないという意味?エキドナという団体に行動させないという意味?」
「なるべくしてなっているから、生み出させないのは簡単ではないと思うんだ。だから次に翔子ちゃんの誘拐を防げなかった場合には、共産主義国側に頑張ってもらって、エキドナが余計な行動をしない道を探ってみるよ」
「皆が傷つくのは気持ちが良いものでは無いからね。協力できないけれど、頑張ってね」
黒田病院の職員休憩室には疲れ切った医療従事者たちが、しゃべる事もなくただ食器同士がぶつかり合う、こすれあうような音だけが小さく響いていた。
時折入り混じるため息やあくびの音と共に。
「で?何の用なの?黒田病院も崩壊寸前だし、私は悠太君にも翔子にも会えなくって、余裕がないんだけれど」
「うん。悠太君から美咲ちゃんが帰ってこれなくて心配だって聞いたから。近くに来たから寄ってみただけ。余裕はなさそうだったけれど、美人はそれでも美人だったって伝えておくよ」
「太陽は東から登るとか言われても、全然嬉しくないわよ」
美咲はコーヒーを一気に口に放り込んでから言った。




