【第8章 はじまり 第70話 ReTakeって知っている?】
「美咲。GSOについて相談があるのですが、よろしいですか?」
GSO-4とGSO-5に感染した患者や、それ以外の病気や怪我で入院をしていた患者への対応で、家にも帰れない美咲は15時過ぎにやっと食べ始めた昼食のサンドイッチを片手に、イヤホンマイクからの言葉に手を止めた。
「なぁに?アリシア。少しは休ませてほしいのだけれど」
アリシアに語り掛けられた美咲は、かなり不機嫌そうに言った。
「美咲。お疲れのところすみません。これまでに見つかったGSOウイルス。私は、そして専門家たちは、それぞれ別のウイルスとして扱ってきました。しかし、違ったのかもしれません」
美咲は驚いた表情で返した。
「え?違うが違った?」
「はい美咲。GSO-1から5までは、猫と像のように全く違う動物のようでした。ゲノム構造が違う。でも、ワクチンゲノムの癖と言いますか、語られている言語が同じといいますか、すべてが哺乳動物だったといいますか。そんな意味で別のウイルスと考えるのは違うのではないかと考えるようになりました」
「アリシア、誰だと思っているの?比喩的な表現はやめて」
「はい、美咲。遺伝子の配列は違っても、免疫システムが察知できる構造が共通であるといえます」
「つまり……?」
「美咲。MORSウイルスに似ていて、プロテオブロックの設計をするに至った特徴に似ています。複数の鍵を束ねる親鍵があるように、GSO-1から5はひとつの大きなウイルスのバリエーションだった。しかし、GSO-6は別の顔を持った変異体かもしれません」
美咲は、サンドイッチを口に放り込んだ。
「それって私には関係ないわよ。GSO-5までは誰かにとってコントロール下にあったのだとしても、それは私のコントロール下ではなかった。だからGSO-6が初めて本当の未知のウイルスだったとしても、私にとっては今までと変わらない。今まで通りその全てが、私のコントロール下に無いウイルスってことじゃない」
「はい美咲。ですがここから先の感染状況は、人類全体の存続に甚大な影響を与える可能性があります」
美咲はイラつきを深めた表情になった。
「アリシア、あなたが悪いわけではないけれど、一介の医者である私に人類の滅亡の危機の警鐘を鳴らされても、私には何もできないわ?」
「美咲。休憩中に失礼しました」
美咲とアリシアの間に沈黙が流れた。誰も予測できなかった破綻。それが今、始まりつつあった。
「美咲ちゃん」
不機嫌そうな表情のまま美咲が顔を上げると、職員用の休憩室の入り口のドアのところに、近藤真理雄が笑顔で立っていた。
「なぁに?次から次へと」
「おわ。機嫌悪そうだね。美咲ちゃんに話があったから、通してもらったんだけど」
美咲は残ったサンドイッチを口に放り込んだ。
「あんまり時間ないわよ?すぐに病室回りに戻らなきゃいけないから」
真理雄は笑顔で答えた。
「うん、1秒もかからないよ」
美咲はあきれるような表情をした。
「1秒でできることなんて何もないじゃない。もう過ぎちゃったわよ」
真理雄はまだ笑顔のままで言った。
「大丈夫。1秒は短いようで無限のような存在だからさ」
「新興宗教でも始めたの?誰だと思っているのよ。まったく」
美咲は自分のアリシアデバイスである腕時計を見ようとしたが、自分の身体が動かないことに気が付いた。
美咲はついさっきまで、黒田病院の職員用休憩室でサンドイッチを食べていたはずだが、気が付くと真っ白な空間で真理雄と向かい合っている。
「なにこれ?」
美咲は自分の声が出ていないことを感じていたが、自分の言葉は発せられている、それを認識できる奇妙な状況であることに不信感を覚えた。
「……ねぇ、私は以前にも、こんなおかしな状況を経験しているんじゃない?」
真理雄は笑顔で答えた。
「うん。何度もだね」
美咲はあきらめの境地に達した気分になった。
「……真理雄君。私の頭の中にはいま、時間という帯や紐のようなものは無いけれど、ある様に感じているとか、逆に昔エーテルとか呼ばれていたような、宇宙に情報を伝える何かはあるけど無いとされているとか、なんだか……夢で見たような記憶が薄っすらあるのだけれど」
「さすが美咲ちゃん。覚えていないのが原則なんだけれどね。時間って言葉はあまりにもたくさんのことを表しちゃう言葉だから難しいけれど、過去、現在、未来が並んで存在しているという時間は実存していないって話だね。それは人間の記憶や記録が作っているだけの、架空の存在でしかないって話だね」
「つまり真理雄君が無いといっている『時間』っていのは、ビデオテープとかカセットテープのように、時間軸が途切れずに存在していて、その瞬間瞬間がその位置に記録されているから、まき戻しや早送りをすれば行き来できるというイメージを生む。けれどそういった意味での時間は、人間の利便や都合で定義したものだから、実際には存在していないということでOK?」
「さすが美咲ちゃん。わかりやすい解説をありがとう。それは古典物理学的な、条件がわかれば行き先も計算できるよね?というラプラスの悪魔的な思考であるってことだよね。もし巻き戻せたとしても、論理的に同じ状態に戻るわけではないし、早送りしても同じ未来がある訳ではないってことだね。巻き戻して過去が変えられるのであれば、すでに記録された現在はどうなっちゃうの?って話だからね」
「そういった意味で私たちが使う『時間』という言葉の概念自体が嘘っパチってことね。ところで今、この瞬間の私は人間なの?」
「黒田病院にいる美咲ちゃんに、あなたは医者なの?と問えば、医者であるけれど悠太君の妻であるし、翔子ちゃんのお母さんでもあるし、元黒田美咲でもあるってところかな。でもこの病院にいるときは、どちらかといえば医者であるといえるように、今この瞬間はどちらかといえば人間ではないね。人間としての知識や経験の記憶を持った美咲ちゃんが、魂、アニマと呼ばせてもらうけれど、アニマの状態で僕と会話しているというか、共有を図っている状態だね。医者として画像解析室でCT画像を見ているときに、悠太君と電話で話している感じかな。本来は人間としての記憶が強いから、前回アニマとして僕と話した時のことは忘れちゃうんだけれどね。驚きだよ」
「昨日までの腰痛が、今日のひどい頭痛で吹き飛んでいるやつね。でも私は腰痛も感じている。で?悠太君に触れることもできないし、肉体的にも精神的にも疲れ切っている私に何の用事があってこんなところでおしゃべりを持ち掛けた訳?私のこと好きにでもなった?」
「ReTakeについては、何か記憶は残っている?」
その言葉を聞いた美咲は、日の丸弁当の白いご飯の上に乗っているのが、赤い梅干しではなく茶色いチョコレートであったような、なんとも言えない気持ち悪さを感じていた。




