【第7章 つなぐ 第65話 馬鹿は悪より質が悪い】
中南海でも最も深部にある地下階層に位置し、出入りできる者は国家主席を含むごくわずかな者に限られている会議室。
いまその空間に入ってきたのは、見慣れぬ顔だった。ツァイ・シェン。経験も実績も無いに等しい男が、突如として主席特別秘書官という重職を背負って現れたのだ。
ここに集まっている政府高官最高幹部達が、その事実を知らされたのはつい昨日の夜、リウ主席からの突然のビデオメッセージによって、この最優先極秘会議の開催が告げられた。
何もかもが異例であり、異常ともいえるこの数日間。リウ主席が絶対の信頼を置いていた、政府高官幹部達からも、信任されていた主席筆頭警護官であるワンが、中央規律検査委員会の査問下に置かれ、つまり拘禁拘束されている現状。だが、それ以上に異様なのは、会議室に入ってきたツァイのその態度だった。
ツァイは全くためらうことなく、国家主席の椅子へと向かい、当然のように腰を下ろした。椅子の背に深くもたれかかると、机の上に腕を置き、その左手首には金色に輝くスイス製の王冠マークの高級時計。その輝きに気づいた何人かの高官が、目を細めた。
主席であるリウの左腕に巻かれていたのは、『ファイブスター』という共産主義国製の歴史ある腕時計だった。黒い革ベルトに、共産主義国の色である赤い文字盤の腕時計を、リウは誇らしげに身に着けていた。
さらに異様なのは、ツァイの背後に立つ男の姿だった。
黒いスーツを纏い、髪をきっちり撫でつけたオールバックの男が、まるで護衛官のように一歩後ろに立っていた。主席警護官であったワンですら、この会議室内には踏み込むことはなかったが、その男の視線は常に室内の全員を無表情に見渡し、この特別な空間に身を置いていた。
その異様な光景に、ついに一人の高官が声を上げた。
「ツァイ秘書官。我々の慣例に照らせば、その席は主席の席だ。そしてこの部屋はボディーガードの分際が立ち入ることは許されない。秘書官が座る席ではないし、その男が入れる場所ではない。これは礼儀や秩序の問題だ」
ツァイは話の途中で目を細めた。まるで、自分が侮辱されたかのような表情だった。
「ほぉ……礼儀?秩序?つまり私がこの場にいること自体が間違いだと、そう言いたいのですか?」
語尾に軽く笑いをにじませながら、ツァイは椅子の肘掛けに指をカツカツと当てた。
その瞬間、オールバックの男が一歩前に出てツァイの耳元に囁いた。その声は他の誰にも聞き取れなかったが、次の瞬間、ツァイは椅子から少し前屈みになり、怒声を上げた。
「お前は今日付けで罷免だ!いまから地方左遷を命じる。今すぐここから出て行け!」
会議室内がざわついた。
「この席は主席の意志で、私が座るよう命じられたものだ。私に異を唱えることは、主席に異を唱えるに等しい!いや、それだけでは済まされない。私と主席、二人に逆らったことになる。つまり、罪は倍以上だ!」
彼の目には歪んだ自負と興奮が映っていた。
ツァイ・シェンは満足げに椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。彼の目には、もう誰の姿も映っていなかった。ただ自分だけが、国家と運命の中心にいるという万能感に浸っていた。
「諸君。私がいまこうしてこの席に座っているのは、主席の意志によるものだ。主席は未来を見据えて、私を唯一の代理者、預言者とした。この国の舵を取るのは、いまこの私だ。ならば、いまこそ確認しておこう」
ツァイは、机を挟んだ向こう側にいる高官たちをひとりずつ見回した。その目には、権力の味を知ってしまった者特有の、ねっとりとした欲望が滲んでいた。
「私に忠誠を誓う者は、今この場で手足を地につけ、頭を垂れよ。それが、この国の新たな秩序に従うという証明だ。さあ、どうした?私は待っているぞ?」
高官たちは一瞬、耳を疑った。
それは冗談なのか、それとも本心なのか。
一人、二人と目を見合わせる。そして、その沈黙を破ったのは、ツァイではなくリウ国家主席の前の主席時代から、長年共産主義国に仕えてきた一人の高官だった。
「この国は共産主義であって独裁国家ではない。お前の目にどう映っていたのかは知らないが、リウ主席も先代の主席も、独裁者ではなく我々集団の最終的な責任を負う者でしかなかった。お前が何をどうはき違えたにしても、共産主義国の政府要人が、いち個人に対して膝をつく事はできないんだよ。我々が共産主義を貫く根源だ。お前に理解できるとも思えんがな……」
淡々としたその言葉には、長年国家を背負ってきた者だけが持つ静かな矜持が宿っていた。
ツァイの顔色がみるみるうちに紅潮する。
「……出て行け!貴様はもうこの国家に必要ない!」
立ち上がって怒鳴ったツァイの声が、密閉された会議室に反響する。
「あれはクビだ!いや、処罰だ!国家への反逆だ、裏切りだ、なんだと思っている!」
その様子を、オールバックの男は微動だにせず見守っていた。どこか、飼い主が吠える小型犬を観察するような冷ややかな目で。
ツァイの命令に従い、警備に当たる兵士たちが扉の外で動き出す音が、会議室内にかすかに伝わる。出て行こうとする高官たちの背筋が、一瞬、緊張で固くなった。
だが、数名は床に手足をつくことなく、ツァイに背を向けて会議室を出ていった。
「出て行けば、もう戻る場所はないぞ!お前たちは国家の裏切り者として扱われる!」
ツァイの声が裏返った。
「お前たちは今日限りで公職を剥奪、資産は凍結、監視対象だ!二度と太陽の下を歩けると思うな!」
叫ぶ彼の背中に、再びオールバックの男が一歩寄って耳元で何かを囁いた。
ツァイの顔が一瞬で変わる。怒りと興奮の表情が消え、まるで自分の立ち位置を思い出すかのように、スッと椅子に腰を落ち着けた。
そして言った。
「……ふん、私も実際に諸君たちに床に手足を付けと命じた訳ではない。新しい次の時代の流れに対応できるかどうかを試したかっただけだ。ではここに残った諸君とで、未来の話をしようではないか」
室内の空気が少しだけ緩んだ様相を見せた。小さなため息が聞こえた。
先ほどまで同席していた歴戦の高官たちが去り、そこに残るのは、正義を正義と声高にするには頼りない、判断と決断の速度と強さに頼りない、そんな高官たちだった。
ツァイ・シェンは、その顔ぶれを見回すと満足げにうなずき、主席の椅子にさらに深く腰掛けた。
革張りの肘掛けに手をかけ、昂る胸をなで下ろすように指先で撫でる。天井の照明が、彼の手首に巻かれた派手すぎるほどの高級腕時計に反射し、会議室の天井に虹のような輪郭を描いた。
それはエキドナの目が、この場の全てを見ているという、黙示のような光だった。
「諸君」
ツァイは机に両肘を置き、まるで教壇に立つ教師のような声色で言い始めた。
「かつて我が国が掲げた『世界一路構想』は、WHOに全責任を擦り付けた形で、日本が設計製造したプロテオブロックという抗ウイルス薬によって、一時中断を余儀なくされた。しかしだ。私と主席は互いの高い知性を総動員し、誰にも邪魔等されぬ、世界一路構想の第二幕の筋書きを完成させた。我々は次なる幕を上げる準備が整った」
ざわつきそうになる空気を、背後のオールバックの男の目線ひとつがピシャリと締める。
ツァイの声は、ここで一段と低くなった。
「これから始まるのは、秩序と淘汰の時代だ。地球に必要なのは、自由でも民主でもない。制御だ。バカで知性の低い人間どもを、私のような高い知能を持つ人間が管理する時代だ。命の意味すら、我らが定義し直す時代なのだ」
最後に、満面の笑みをたたえて言った。
「それでは……私と主席が構想した第二幕を、始めようではないか」
その笑顔は、どこか虚ろで、しかし確信に満ちていた。まるで、映画やフィクション物語のスーパーヒーローになりきる子どものように。
小型犬のように甲高く吠えながら、自らが猛獣のつもりでいる、そんな滑稽で危うい笑みだった。
背後のオールバックの男は、何も言わなかった。ただ一歩、ツァイの右後方に歩をずらし、会議室の出入り口に背を向け、静かに腕を組んだ。
その行動が、これから始まるもののすべてを象徴しているように見えた。




