【第5章 あざむく 第40話 スペシャリズム】
夕方19時過ぎの首相官邸の大会議室では、全閣僚と各省庁のトップの役人が参加した緊急極秘会議が開催されていた。
壁沿いの司会席には、向上紗耶香が立ってマイクを持っており、その隣には佐藤冴子が並んで立っていた。
「という訳でございまして、今事案の全体的な流れをご説明させていただきました。再度まとめさせていただきますと、本日15時から15分程度の厚生労働省サーバールーム、アリシアに対する波状攻撃後、防衛相の通信衛星経路へのハッキングが実行されました。我々といたしましては、今回の攻撃の質、量などから、脅威対象はエキドナであると考えております」
紗耶香は頭を下げ、マイクを隣にいる冴子に渡した。
「はい。外事課特殊戦術係、係長の佐藤でございます。NSSの攻撃対策係、分析係、我々特殊戦術係、そして過日実装いたしました、アリシアのサイバー攻撃対応システムであるFAシステムも、いずれも歯が立たない結果でございまして、FAシステムの判断によりアリシアのダウンを行ったという流れでございました。私どもNSSのみならず、防衛相の専門チーム、表向き存在しない戦闘班も総出で対応いたしましたが、勝負にもならない状態だったと言える結果でした。これだけの力を持っているのは、私が知っている限りエキドナ以外には考えられず、理由はわかりませんが、エキドナが日本をターゲッティングしたという事実を踏まえ、今後の対策を考える必要性を強く訴えさせていただきます」
厚生労働大臣である川滝太郎が手を上げた。
「今回は我々が所管するアリシアの防衛防御を担っていただきありがとうございました。ところで先ほどからお話しに出ている、エキドナとは一体どの国の組織なのですか?」
冴子が立ち上がった。
「エキドナとは、どこの国にも属しておりません。物理的にどこかの建物に集まっているという情報もありません。ただし、存在痕跡は数年前から世界各国で観測されておりまして、特定企業の虚偽データを暴露したり、政府、行政、役人や議員と呼ばれる職業に関する、汚職や不正と呼ばれるような事案についても、動画や画像や音声データを盗み出して暴露するなどの行動をしています」
冴子は自分のスマホを操作して、それぞれの席に備え付けてあるモニターに、映し出す画像を変えた。
「ここまでの正義の味方のような行動は、世界各国のニュースだけではなくワイドショーまでが放送していますので、見たことがある市民は多いと存じます。ここからはこちら側の人間にとっては常識と言われる情報なのですが、このエキドナは『コウシナカモト』というP2Pの基本設計や、暗号通貨の礎を築き、クラウド技術の原型提示までを行った人物と言いますか、団体と同一として知られています。ところがその実在性、人数、出自などは一切不明。何もわからないけれど、とにかくすごい結果を残しているのは確か。そんな存在です」
冴子は会議参加者に提示している画像を次の画像に切り替えた。
「そして問題は……彼らが『目的のある脅威対象』ではないということです。利益目的の犯罪組織ではありません。報復動機も、思想的主張も、今回の攻撃では確認できていません。我々NSSが認知している範囲では、厚労省にも防衛省にも、エキドナがこれまで糾弾してきたような『嘘』や『腐敗』は確認されていない。理由がないのです」
冴子は一呼吸おいて、会議室を見回した。
「これは、極めて危険な兆候です。動機が不明な攻撃、過去に前例がないレベルの技術力、国家機関ですら介入できない範囲での情報操作。おそらくこれは、エキドナの指導者が変わり、エキドナの存在意義が変わった。そう判断するのが最も自然と考えます。我々が手をこまねけば、次はもっと深い領域に入ってくるでしょう。既にアリシアは強制ダウンに追い込まれ、防衛相の衛星通信経路にも侵入されました。対象は我々の『中枢』です。従って、今回の件はNSS・防衛省・内閣官房・外務省合同の『デジタル国家安全対策本部』の設立を提案いたします」
冴子は少し笑って続けた。
「嫌なことを思い出してしまったのですが、MORSウイルス発見時と同じ言葉を申し上げなければなりません。分刻みでのタイムスケジュールが必要な案件でございます。今回もまた前例がない事態と言えます。……おそらく、エキドナの目的はすでに、こちらの想定外にあると予想します。早急に、国家としての次の手を準備して移行する必要があると言える状況です」
冴子は頭を下げて、マイクを紗耶香に渡した。
総理大臣が手を上げた。
「佐藤さん。確かに同じ言葉を言われた記憶があります。ですが今回の案件は、私達では全く何をどうしたら良いのかわからないというのが実情です。専門家にお任せする以外……専門家の方からの提案であっても、それがどのようなメリット、デメリットをもたらすかも、我々では全く想像できない状態と言えます。この国の政府総責任者として、お任せするとしか言いようがないと思うのですが」
冴子は大きくうなずいた。
「仰る通りだと理解します。今後の長期目線での話は置いておくとして、急ぎである今回の対応につきましては、至急立ち上げを行うデジタル国家安全対策本部で対応を協議実行する。このような流れで対応させていただいてよろしいでしょうか?」
集まった大臣や官僚は、互いに顔を見て、小さくうなずくくらいしかできない現実があった。
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そのころ。
共産主義国のとある情報拠点、閃電白虎の核心にあたる中枢サーバーでは、誰も気づかぬ侵入者がその足を踏み入れていた。
ファイアウォールの検知を回避する特殊プロトコル。ログ残留を起こさない仮想MACアドレスの切替。
それらが組み合わさった侵入は、あたかも『そこに最初から存在していた影』が、静かに引き出しを開けたようだった。
対象は限定的。
サーバー群の中でも、ワンの仮説を裏付けるために集め、まとめた『特異構造体アリシア』に関する一連の調査資料。
中には、美咲と悠太が交わした音声データ、プロテオブロックの設計概要の仮説図、富岳との演算連携ログなどが含まれていた。
エキドナのSEは無言だった。
一つひとつのファイルが、音もなくパケットに変換され、圧縮された状態で外部との分岐回線に流し込まれていく。
それはまるで、燃え上がる前に空気を奪い尽くす静かな真空のようだった。
アクセス検知ログのタイムスタンプは偽装され、改ざんされ、そもそも『来た形跡』すら残らない。
それは、ログという名の水面に石を落とさず、波紋だけを他の水面に転写したような侵入だった。
数分後、すべての目的ファイルがダウンロードされたとき、侵入者はたった一行のコードを残して姿を消した。
『return 0; // Nothing happened』
閃電白虎のセキュリティシステムは、異常なしと報告を続けていた。しかし、白虎の最も深い階層は、すでにエキドナと共有化されていた。
このとき、エキドナは核心に到達した。
・アリシア
・美咲という人間
・プロテオブロックという設計
そして、共産主義国の中枢に立つ主席を、世界の新秩序へと導く鍵。
それらを知るに足る情報は、すべて掌中に収められた。




