【第4章 うごく 第31話 信じるということ】
しばらくのあいだ泣いていたチェンは、少し落ち着きを取り戻し、何かしら自分の中で覚悟を決めたような表情を見せた。翔子は安心したようにリビングに戻り、動物の写真集を読み始めていた。
「美咲さん。私は美咲さんに嘘をつきたくない。けれど本当のことが言えない立場にいます」
美咲は分かりやすく三回大きくうなずいた。それを見たチェンは、少しだけ安心したような表情になって話を続けた。
「私の今回の訪日は、WHOが配布したプロテオブロックという薬について、どこの誰が設計をしたのかを調査する事が本当の目的です」
プロテオブロックという言葉を聞いて、何も反応しない美咲に対して、驚いた表情を見せた悠太がいた。
「プロテオブロックを設計したのは、もしかするとアリシアという名前のAIなのではないか?そんな可能性を見出しました。調査を進めるにあたって、私の上司がある音声ファイルを入手したとそれを送ってきました」
チェンは自分のスマホをテーブルの上に乗せ、音声再生アプリを開いた。
「前後状況と、先日鎌倉で美咲さんから聞いたお話がつながってしまって……怖くてこの音声ファイルを聞くことが出来ません。もしアリシアを作ったのが美咲さんだとしたら、私が想像もできないようなご迷惑をかけるかもしれない。もうどうしようもなくなって、美咲さんに相談しにきま――」
美咲はチェンが最後まで話し終わるのを待たずに、その音声ファイルの再生ボタンを押した。
音声ファイルは間違いなく美咲の声で、美咲から悠太へのメッセージであり、悠太の声で語られる、悠太から美咲へのメッセージだった。
「嫌ぁねぇ。ちょっと、恥ずかしいじゃない。これって悠太君が大学入ったばっかり位の時よね。ピザにはまり倒していた頃よね」
深刻な表情を浮かべるチェンを横目に、両手で顔を隠して赤くなっている美咲がいる。
悠太も恥ずかしそうな表情で、首を縦に振っていた。
美咲は圧倒的で揺るがない笑顔と声でチェンに言葉を渡した。
「チェンさん。未だ状況はつかめていないけれど、アリシアは私と悠太君が作ったAIで間違いないわよ。悠太君のお父さんが働いている、今は悠太君も働いているけれど、エリシオン社に権利を譲ったの。プロテオブロックの設計者を私は知っているけれど、私がチェンさんに言えるのは、私と悠太君がアリシアを作ったんだよってところまで。プロテオブロックは私が設計した訳ではないから、自分には関係ない話は私からは言えない。これがすべてよ」
「簡単に言わないでください。私はこの後どうすればよいのですか?」
「あなたはあなたが成すべきことをするまでよ。上司にアリシアの設計者は分かったよって伝える。でもプロテオブロックの設計者は聞き出せなかったよって伝える。今現在チェンさんができることはそこまで。そこから先は、チェンさんがコントロールできない流れが動き出す。チェンさんは冷静にその流れに乗ったり、飛んだり、伏せたりしながら、なるようになるところまで進むだけよ」
チェンは今までの緊張が一気にほぐれ、身体の力が抜けていくのを感じた。
「ねえ、チェンさん。あなたの上司はそんなに信用置けない人物なの?」
チェンはさらに心の力が抜けていくのを感じた。ワンがこれまで自分に対して送ってきた、たくさんの言葉を再読しても、自分が恐れる何かにはつながらないと確信できた。
「……いえ」
「じゃあ正直に伝えなさい。あなたがなぜプロテオブロックの設計者を探しているのかはわからないけれど、アリシアを作ったのは私達であることは間違いない。それを知ったということを、上司に伝える場所まで進まなければ、次の一歩は踏み出せないのよ」
「……私は日本にいると、ここが一番好きと思ってしまうし、共産主義国に居れば、ここが一番大切と思ってしまいます。ダブルスタンダードですよね……」
「ダブルスタンダードって案外、この世の理なんじゃない?そうねぇ……例えば私ね、費用対効果とかコストパフォーマンスとか、バカが使う言葉だと思っているのよね。だって、お金という数字で判断できるのであれば、小学生でもできること。この国の教育に関わる問題だとも思うけれど、お金を集める事が最終目的のように教育してしまっているってことよね。お金なんて国が担保している商品券でしかないのにね。でもよ?そんな私が時に、こっちのお店の方が安いからとか、こっちの商品の方が安いからとかで選択をすることがあるの。私ってバカなのか?といえばそうではない。タイミング、背景、条件、主因、動機……無意識にたくさんの要素で判断しているだけじゃない?それに対する反論を述べたいときに、楽してそれが悪い判断だと言いたいときに使うのが、ダブルスタンダードって言葉なだけだと思うのだけれど。だからなに?ってことじゃないの?違うかしら?」
腫れた目で、少し笑顔を取り戻したチェン。
「共産主義国内で過ごしている私は、世界の人類の幸せのためにとった行動が、世界の人類の明るい未来のためならば、正しい、仕方ないと私が許容したやり方が、場合によって美咲さんを傷つけるかもしれないなんて、考えもせずにいた。でも日本に来て美咲さんと話していると、その行動ややり方はあまりにもリスキーだったと、それを認めていた自分が嫌になる」
「チェンさんはバタフライエフェクトって言葉を知っている?」
「はい……」
「いまチェンさんが言ったような、わかりやすい事だと落ち込んだりもするけれど、悠太君がさっきコーヒーを入れたのをきっかけに、世界のどこかの温かい家族が崩壊したかもしれない。これはわかりにくいことだから、悠太君も私も全然落ち込んでいないわよね。チェンさんは頭が良いからね、リンク力が高くて、一つの『事』が色々なことにつながってしまう。だから心配になるし苦しくもなる。他の人が気が付かない小さなことでもね。でもね、それもこれも大きな運命とか宿命とか言う名前の川のような流れだとしたら、チェンさんには影響を及ぼせないことだらけなのよ。頭が良いと気が付いちゃうから、あの時自分がもっとこうしていたらとか、あの時自分が違う言葉をかけていればとか、自分のせいにしちゃうところがあるんだけれどね、自分に大きな運命とか宿命の川の流れを変える力があるなんて考える方が、どうかしているわよ。そんなの思い上がりだと思わない?自分を過大評価しすぎ。自分が気が付いてしまった小さなことはそれとして、自分は自分が出来る『事』だけをやっていくことに集中するしかないんじゃない?」
悠太が眉間にしわを寄せて言った。
「美咲ちゃん。僕が淹れたコーヒーのせいで、どこのどんな幸せな家族が崩壊したって言うの?」
「それは私にもわからないわよ」
美咲は悠太の顔をまっすぐに見つめて、満面の笑顔で言った。
「それに美咲ちゃん。美咲ちゃんがそんな運命とか宿命とか言うだなんて、ちょっとビックリ」
今度は美咲が眉間にしわを寄せて言った。
「そうね……自分でもびっくりだわ」
二人は見合ったまま、笑い始めた。
それを見ていたチェンは、気が付くと心の重さがとても軽くなっていた。




