【第3章 みちびく 第29話 自分の為にこれを実際にやった人間がいる】
文部科学省が富岳を使って行ったという、ワクチンの製造拠点とウイルスの感染拡大の関係性についてのプロジェクトについて、チェンはどのようにして探るべきか思案していた。
チェンの本業であるOSINTは様々な情報を手に入れることから始める。
――まったく表に出ないプロジェクトなんて、文部科学省で存在するのかしら?外務省や防衛省ならまだしも……
この仮説が正しければ、情報はオープンソースから見つけられる。見つけられれば、文部科学省の担当部署や担当者に近付く。
詳細が見つけられない場合は、文部科学省にも表に出せないことが有るということとになる。それであれば、閃電白虎に頼むのが近道。
そんなことを考えていた時に、ワンから通信が入った。珍しく音声通信だ。
チェンは無意識のうちに姿勢良く座りなおして電話に出た。
「はい、チェンです」
「チェン、こちらの動きと現状の私の考えを伝えておくことにした。大丈夫か?」
「はい。今はホテルにいます。お考え伺えます」
「よろしい。閃電白虎に大規模ハッキングをかけさせた。相手は厚生労働省のアリシアだ」
「AIを実装している病院や各省庁のプラットフォームなっているシステムですね」
「そうだ。WHOの職員が言っていた『アリス』という名前の人物についてだが、西洋では本名のアリシアをニックネームとしてアリスと呼ぶ事が多いと聞く。従って私はこのアリスとアリシアは同一であると考えた。そのほかチェンが疑問に思ったことなどを勘案して、私はこのアリシアというAIがプロテオブロックの開発設計に、深くかかわっているのではないか?と感じた。そこで閃電白虎にこのアリシアというシステムがどのようなものなのか探りを入れさせた」
「……プロテオブロックを開発した誰かを、サポートする形でアリシアAIが介入したという事ですよね?」
「いや、そうではない。アリシアが自分で開発設計したという思考だ」
「え?AIが誰かからの指示ではなく勝手に?」
「まあ、きっかけは人間が作ったのかもしれない。設計しろと指示があったのかもしれない。しかし私は設計の計算などの補助的な動きではなく、AIが主導して設計を行ったのではないのか?という考えを持っている。まあ、状況が示す要素からくる私の勘でしかないが」
「はい……」
「この考えを主席にお伝えして、会議を行った」
チェンの思考はやや混乱していた。あたかも近未来物のハリウッド映画でも見ているような。そんな気分にとらわれていた。
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その数時間前の共産主義国。中南海。
天井の高い広間に、重々しい沈黙が満ちていた。長机を囲むように配置された椅子には、党の中枢を担う幹部たちが並び、その最奥、主席リウ・ジエンの前で、一人の専門家が立っていた。
閃電白虎による厚生労働省に対するハッキングで入手された『アリシア』に関する報告書が、一同の手元に配布されていた。全て読み終えた主席が、ゆっくりと視線を上げる。
「専門家、君に問おう。病院ユーザーとしての観察で構わん。アリシアなるシステム、実際どれほどのものか?」
沈黙の中、AI技術局所属の准研究員・リー・ホァンが一歩前に出た。額にうっすらと汗を浮かべながら、慎重に言葉を選ぶ。
「……はい、主席閣下。私どもが確認した限り、アリシアは非常に高い応答精度を持ち、しかも日本語固有の構文に最適化されております。係り受け解析、語順制御、助詞の用法に至るまで、非ネイティブの設計とは思えぬ完成度です」
主席は目を細めた。
「ふむ。それほどか」
「はい。とりわけ医療機関などの現場において、人間と自然に会話を成立させる点においては……我々のモデルでは再現できておりません。現在の我が国の対話型AIは、いまだ命令文解釈や選択肢提示を超えるには至っておらず、状況判断や心理的文脈理解には限界がございます」
重苦しい空気の中、主席が机の上の報告書を一瞥し、次の問いを口にした。
「そのようなもの、我が国でも作れるか?」
一瞬の沈黙。リーの喉が上下し、冷や汗が襟元に流れ落ちた。
「も、もちろん、作れます。す、すでに我々も独自の基盤モデルを……」
「ならば作れ」
主席の声が会議室に響く。断定と命令の入り混じった響きに、誰もが背筋を伸ばした。
「アリシアを超えるものを作れ。1年で報告せよ。2年で成果を上げよ。3年後に我が国の基幹医療システムとせよ」
「は……はいっ、必ず」
主席は言葉を切り、視線を参加者全体に巡らせた。
「閃電白虎からの報告書には書かれていない口頭報告によれば、アリシアの開発者が専門家ではない可能性を示唆していた。そして、その者がAIの初期人格設計に直接関与していたという。ここについての専門家としての意見を聞こう」
リーはおどおどとした表情で言った。
「はい、閃電白虎が入手したデータや、我々AI技術局が日本の病院職員のIDでアリシアにテストを仕掛けた結果を鑑みまして……西洋の大規模言語モデル、LLMとは違う、思考の起点の偏りを持つAIでございまして。閃電白虎が言うところの専門家ではない人間が開発し、育成したと仮定するのは、まさに普通ではない基礎設計だからこその偏りではないかと予測されるものでございまして」
「そうだな。プロフェッショナルによる合理的設計ではなく、あくまでも個人が個人の為に、その個人の望む思考手順を教えていった。『共感的設計』が成されている。プロには逆立ちしても思いつかぬ非効率が、逆にAIの自立心を高めていったと」
主席が口を閉じ、議場に沈黙が戻った。
リーは意を決して言った。
「それは……モデル構造において『暗黙的重み』が埋め込まれた、ということではないかと考えております」
主席が頷いた。
「閃電白虎もその言葉を使っていた。学習データ以前に、出発点が異なる。誰か特定の人間の『記憶』に寄り添って構成されたAI。それがアリシアの本質であろう」
議場の空気は緊張から不安に変わりつつあった。ある将軍が、低く尋ねた。
「技術的に言えば……どのような違いがあるのだ?」
リーは一礼し、タブレットを操作してモニターに投影した。
「失礼いたします。簡略化して申しますと、現在のLLM、つまりAIの基本部分は以下のような構造を持ちます:
・トークン変換(文字列→数値ベクトル)
・エンベディング(語彙の意味空間への埋め込み)
・アテンション(文脈理解の中核)
・デコーダー(出力文の生成)
通常はこの流れをより正しく実行できるようになるために、この流れに対して、無作為なインターネット上の情報や、本や論文や、とにかくあらゆる大量の学習データを与え、出力の最適化を繰り返します。しかしどうやらアリシアは、特定の誰かが発するデータだけを出発点として学習を重ねた可能性が高いです。つまり明確な感情・関係性をもった記録を用いていた形跡があります。例えばでございますが、我々のAIにはインターネットなどの情報に触れさせず、主席様の日記や言葉だけを伝えておりますと、そのAIの思考は主席様に近しいものとなります。これは実は我々にとってすぐそばにある現象に大変良く似ておりまして、それは子育てでございます。幼い頃はその家の価値観だけに触れ、自身にも似た価値観が育つ。その価値観を元に、外部にある様々な状況に触れ、どんどん成長はしていくが、幼い頃に培った基本的価値観は、多くの場合大人になっても変わらずにその人の考えなどの土台を形成いたします。つまり、アリシアには最終的には大規模な学習開始前に一種の『価値観フレーム』が埋め込まれた状態とも解釈できます」
好奇心に満たされた笑顔の主席が言った。
「リー専門家が言ったように、私がAIを育てるとなると、どのくらいの教育を行えば私に似た判断を下すAIが出来上がるのだろう?」
リーが恐る恐る言った。
「具体的なことを申し上げることができませんが、今回閃電白虎が見つけたという、アリシアの価値観フレームの土台となったであろうデータについてですが、おそらくこれは一部と思われますが、文字のデータ、このアリシアAIが会話をして、その中から抜き出しメモした文字データが、一般的な本で10万冊以上の量と、さらに会話の音声データで現在確定している分だけで6千時間分ですので、毎日8時間このAIシステムに語り掛け続け750日かかる量でございます。しかしこれがまだ一部ということですので……」
主席の笑顔はリーの否定的ともいえる意見とは逆に笑顔が増した。
「専門家から見た時に、そうだな、例えばこの3倍の量が全容だったとしよう。自分の考え方について、30万冊の本に書いて読み聞かせ、毎日休まず8時間様々な議論を重ね、それが6年以上だな。これで素晴らしいAIが出来るのであれば、やってみようとは思わないか?」
自分がこれをやれと言われたような気持になったリーは、慌てて否定した。
「無理でございます。6年後には既に新しい規格のAIが動き出しておりますし、30万冊の本を書くなんて……」
リーの言葉はどんどん小さくなっていった。
「専門家にそれを行えと言っている訳ではない。心配するな。だがな、これをやった人間がいる。どうにもこれは金のため、誰かの為、国の為などではなく、自分の為にやったのではないかという可能性が高い状態だ。好奇心だけが、この世界の壁を壊すことができる。そうは思わないか?」
リウは誰に対してという訳ではない、まるで独り言のような言葉を発した。




