【第1章 きっかけ 第2話 ミシン目が指し示す日本】
「そろそろお戻りになり、身体をお休め下さい。リウ主席」
執務室の入り口に姿勢正しく、しかし威圧感なく後ろ手に回しているワン・チェン(王誠)が言った。彼は中南海の警護を行う中央警衛局(CGB)の主席直属警護官である。CIAやMI6のような任務を担っている、人民解放軍情報部の出身だ。
リウ主席は視線を動かさずに言った。
「ワン。私に尻を蹴られた高官幹部たちの動きはどうなっている?」
ワンは表情を変えずに返した。
「世界一路構想の再開に向け、3年以内の情報収集のご指示をされた過日の会議後、各幹部は精力的に活動されております。主席のご所見通り、5年以内には全世界の過半数の国々は、我々の共同体となることでしょう」
「具体的には?」
「私の古巣である人民解放軍情報部と国家安全部の諜報員、華僑連絡局のネットワークや民間工作支援課による、華人ネットワークの情報網で、金銭の動き、物流からWHOが開発製造したとされているウイルス無効化薬『プロテオブロック』の出所の調査を実施しております」
「成果は?」
「世界が世界一路構想促進起爆剤……いえ、MORSウイルスによるパンデミック状態でしたので、金銭の動きも物流も、すべてがイレギュラー状態でありました。よって異常を特定するのは困難なようです」
抑揚のない口調でワンは答えた。それを受けたリウ主席は、視線をゆっくりとワンに移した。
「お前に案はないのか?」
ワンは淀みなく答える。
「主席。今回のプロテオブロックについてですが、医療知識のない私であっても、興味を持つ特徴がございます。それはその容器です」
リウ主席は『カブトムシ』を見つけた子どものような、ニヤッとした表情を見せた。
「プロテオブロックの包装シートの裏面には、薬剤を取り出すための小さなミシン目が施されています。一見、ありふれた設計なのですが、実際に注意深く観察してみると、その構造に特徴がありました。これは日本が製薬に関係しているヒントになるかと」
リウ主席は眉をひそめ、わずかに首を傾げた。
「特徴とは?」
ワンは静かに頷き、ゆっくりと説明を始めた。
「一般的に、世界各国の薬剤包装は効率性を重視し、錠剤をおもて面から、つまり透明なプラスチックの上から、薬がアルミ包装シートを押し破るように、力で押し出して取り出します。しかし、このプロテオブロックの平らな部分のアルミ包装シートには、指で軽く引くだけで簡単に切れる特殊なミシン目が施されています。これは極めて小さな違いですが、指の力が弱い高齢者や子どもでも容易に取り出せるよう配慮された、非常に繊細なユーザーインターフェースです」
リウ主席はじっとワンの話に耳を傾けながら尋ねた。
「それがなぜ日本を示唆する?」
ワンは落ち着いたまま、続けた。
「この繊細なミシン目ノッチ技術は、世界の製薬会社では一般的に採用されていません。量産効率やコストの問題から、多くの国では採用しないのです。しかし、日本国内ではこのようなミシン目を施した包装が一定数存在し、日本の製薬業界に特化した技術でもあります」
リウ主席は静かな目で、ワンを見つめ返した。
「登録された日本の特許技術なのか?」
「断言はできませんが、可能性は高いかと。日本人は製品自体と同等に、箱やパッケージを重視する民族です。通信販売などで、製品の箱をクッション材で包み、さらに輸送用の段ボール箱に入れる。その輸送用の段ボール箱に傷があるだけで、返品を要求する事があるという、不思議な民族です。つまりパッケージに対して繊細です。このミシン目を施したシートタイプのPTP包装についても、日本特有の価値観から生まれている技術であるといえます。製造や設計の段階で、日本人が直接または間接的に関わっている可能性を示唆しています」
リウ主席はしばらく考えを巡らせ、やがてゆっくりと頷いた。
「プロテオブロックが日本製とまでは言えなくとも、日本がこの薬に何らかの形で関与している可能性が高いと?」
「はい、主席。少なくとも私の推測では、日本にヒントがあると考えます」
リウ主席はロックグラスを手に取り、考えるようにゆっくりと氷を揺らした。
「……お前が信頼している者に、日本を探らせろ。極秘裏にだ。私とお前、お前が信頼している者。3人だけの秘密でだ」
相変わらず子どものような、好奇心に満ちた笑顔のままで、リウ主席は言った。
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白地に赤いラインが入り、赤い尾翼に大鵬金翼鳥の金色の翼が躍る、海南航空のボーイング737MAX型機は、北京首都国際空港から日本の成田空港に向かっていた。
窓側の座席にはチェン・ロウ(陳柔)という20代後半の、日本語が堪能な共産主義国の女性が座っている。
彼女は人民解放軍情報部の下部組織である、海外文化戦略・対外認知工作処に所属しており、主席警護官であるワンが情報部時代に『調べる』という事を教え育てた、有能な女性である。
──本来、もっと静かに進むはずだった。
世界一路構想。私たちが夢見た『新たな道』は、誰も血を流さず、誰も声を荒げることなく、ただ世界の仕組みを『整えていく』計画だった。
物流、医療、情報、通貨、教育。あらゆる基盤を一体化させ、各国が自発的に「この道に従えば安定と利益が得られる」と思うように設計された、理論上は最も穏当な『統一』だった。
──だが、世界は簡単には変わらない。
世界の人々を搾取して、際限なく自分の利得を得ようとする人間がいる。各国を司る立場にいる人間の多くはそうだ。
そこで、我々は『促進装置』を用意した。
MORSウイルス。人工的に設計されたこのウイルスは、世界を混乱させることで、旧体制の脆さを露呈させるための、いわば『試金石』だった。
感染力や重症化率を段階的に変化させ、変異という形で拡大していくようにプログラムされた構造。搾取されている人間をできる限り傷つけないように、感染力が高く重症化率はそれほど高くはないアルファ株。病院などが閉鎖に追い込まれない為に、重症化率をさらに抑えたベータ株。他国の指導者たちに覚悟を決めさせるため、重症化率を再度高めに設定したガンマ株。感染力も重症化率も一気に高い水準にした最終的なデルタ株。混乱と恐怖を長引かせ、古い枠組みを崩壊させるよう意図された、あらかじめ仕込まれた設計だった。
しかし予想外のことが起きた。
ウイルス無効化薬『プロテオブロック』が現れた。
発表ではWHOが開発、製造したということになっている。だが我々の情報網のどこを探しても、WHOがそのような薬を短期間で開発できた記録も痕跡も存在しない。
そもそもデルタ株への変異前に、デルタ株を抑制する薬を作るなど、医科学的にあり得ない。
それはあまりにも『静かに』あまりにも『正確に』完成されていた。
──我々は事前にデルタ株まで成長したウイルスを持っていた。だからデルタ株に対応できるワクチンを事前に製造できていた。全世界の人々にいきわたる、十分な量のワクチンを。
しかし世界のウイルスが、デルタ株に変異する前に、デルタ株を無効化できる薬が流通した事実に驚愕した。
我々のデルタ株の遺伝子情報が漏れたのか?それとも、そう……誰かが『まだ存在していない変異株』すら予測していたのか?
我々の『設計』を上回った者がいる?
それは、人なのか?国家なのか?組織なのか?
ただ一つわかっているのは、『日本』がこの鍵の一端を握っているということ。
私は今回、久しぶりに生まれ育った日本に向かう。
この静かな裏切りがどこから始まり、誰によってもたらされたのか……
知る必要がある。
チェンは背もたれに身体をうずめた。




