【第2章 すすむ 第13話 断片を拾って形造る料理愛好家】
チェンが所属する人民解放軍情報部では、任務のために突然何の連絡もなく居なくなり、半年、一年後に何事もなかったように戻ってくることは当然のようにある。
しかしチェンが身を置く文化交流情報処という部門では、そういうことは見たことがない。この部門の任務は、派手な潜入や破壊工作とはまるで違う。
OSINT。これは公開されている情報から、国家の未来に影響を与える兆しを拾い出す。新聞の見出し、大学の研究発表、XやFacebookなどのSNSのトレンド、YouTubeの動画……。すべてがパズルのピース。
それを地道に、誰にも気づかれずに拾い上げる。それがこの部門の、チェンの普段の仕事だ。
したがって突然メンバーがいなくなるようなことはない。プロテオブロック設計者の調査を任されている以上、自分が正解と考える行動を選び続けていく事に慣れなくては。そんな風に考えたチェンは、翌日いつものように情報部の第三部第十局に向かった。
プロテオブロックの設計者調査に関しては、権限を与えられての行動となるが、昨日までやっていた業務に関する権限は与えられてない以上、疎かにするのは間違っていると判断した。
チェンは昨日までやっていた業務のまとめを行い、特殊任務依頼が入ったことを自分の上司であるソウ(曹)に報告し、同僚に引継ぎを行った。
チェンはとりあえず4週間程度と伝えていた。
官舎に戻ったチェンは、ワンから指示された『閃電白虎』と連絡を取るための、スマホアプリを起動した。
見た目は共産主義国内で最も使われているチャットSNSである『WoChat』と同じだが、そもそも接続されているサーバーが違う。そしてよく見ると『WoChat+』と小さな文字で『+』が追加されている。
しかし閃電白虎専用サーバー経由で、通常のWoChatにも接続されるため、一般人とのやり取りにも使える。
チェンは『WoChat+』から、『料理愛好会』(烹饪爱好者俱乐部)となっている、閃電白虎とのやり取りに使うルームに書き込んだ。
「プロテオブロックの製造を担ったとされる、日本国内の製薬工場を運営する製薬会社のあらゆるサーバーおよび個別パソコンの中の『治験申請』や『新薬シミュレーション』などのタイトルが付くファイルについて、WHOがプロテオブロックの発表以前12か月の範囲で追加された情報を抜き出してほしい」
チェンが送信ボタンをタップすると、チャット画面へ5秒間表示された。その後一度メッセージが消えて、表示内容が変わった。
「中華鍋を製造を担ったとされる、日本国内の製造工場を運営する厨房器具会社のWEB情報、カタログ情報の中の『最新専用鍋』や『試作品』などの情報について、調理師協会が中華鍋の新しい使い方情報発表の12か月前の範囲で追加された情報をまとめて知りたい」
チェンは思わず笑いだした。
「……私はいつから、調理大好きっ子になったのかしら?」
チェンは昨夜のうちに準備しておいた、大きなカバンを持って空港へと向かった。
色々考えたチェンは、結局自身の立ち位置を前回同様『商社の人間』として、共産主義国内の製薬会社が、日本の製薬会社と共同開発をしたいという依頼を受けて調査に来たという形をとることにした。
初めに政府の人間として動き出せば、そこから民間レベルに立ち位置を移すのは難しいが、商社の人間として動き始め、うまくいかない時には政府の人間であるとした方が、自身が使えるカードが多くなると判断した結果である。
いつものように大田区蒲田にホテルを取っておいたチェンは、成田空港から蒲田に向かう電車の中で、エミにSNSを送った。
「全く、会社が手配する飛行機は羽田じゃなくて成田で嫌になる。面倒。今回は多分一か月近く日本に滞在すると思う。スケジュールはまだ未定だけど、落ち着いたら連絡するね」
「 ( ´艸`) 」
――仕事中ってところかしらね。
エミからの返事を見たチェンは、少し笑ってうなずいた。
ホテルにチェックインしたチェンのスマホが鳴った。確認するとWoChat+のメッセージ通知だ。
「中華鍋の情報のまとめURL」
チェンはそのURLをタップすると、専用のブラウザが起動してテキストデータが表示された。
「チェン同士。今回の調査依頼については着手しておりますが、似た調査は既に複数回実行済みであります。事前に2週間前に完了した調査内容をお送りいたします。今回ご依頼いただいた分については4日程度お待ちください」
チェンはペットボトルのミルクティーのキャップをひねり開けて、口に流し込みながらデータを読み進めた。
――
外交部依頼:特定製薬会社の研究文書タイトルリスト(抜粋・カテゴリ:未分離/計算毒性評価)
[β-ラクタム耐性設計骨格に関する標的候補(v2)]
[エンハンサー構造の代替シード評価(JBA-145)]
[薬効予測モデル(社内)→東薬協連携モデルへの変換手順]
[申請予定:M2A系化合物に関する初期in silico毒性予測]
[治験申請として、薬効評価テストの申請文章(仮)]
>富岳シミュレートにより臨床試験の短縮を許可するものである
>パラメータ:t_half, AUC, cytokine反応推定含む
[成分コードZ-TRK54改訂履歴:特許公開に備えた表記調整]
[施設外クラウド連携許可手続きログ(拒否済)]
[新薬設計プロジェクトB7/内部中止メモ]
――
チェンはリスト最上段の[β-ラクタム耐性設計骨格に関する標的候補(v2)]という文章から目を通し始めた。
「本試案では、PBP3およびAmpC誘導因子への結合親和を低減させる骨格置換系列として、非対称型アリール環を有する2級アミン誘導体を導入する。これにより既存βLase阻害機構との交差耐性を回避する可能性が示唆される。初期スクリーニングではMIC50減衰が非線形傾向を示したが、統計的有意差は確保されていない。――」
チェンはスクロールを止めて、額に手を当てた。
「さすがに……難しくって眠たくなるわね」
チェンはスマホで検索を行い、文章を理解しながらしばらく読み進めた。
「PBP3やAmpCは最近の抗生物質耐性に関する蛋白質ってことね。要するに既存の抗生物質が効かなくなってきた菌に効く、新しい抗生物質の候補を探っている……つまり抗生物質の研究の文章だから、これは最後まで読む前に除外できるかな?」
チェンはもう一口ミルクティーを口に含み、次の文章を読み始めた。
――私に医療に関する知識があれば、もう少し理解速度を上げられるけれど……医師である美咲さんならすぐにチェックが終わるんだろうな……美咲さんにレクチャー受けながらだったら、眠くなんてならないのにな……
チェンは専門用語の羅列を前に、現実から逃げるような妄想をしながら読み進めていった。