【第1章 きっかけ 第1話 そのむかし物だった男の憂い】
北京、中南海。共産主義国政府の中枢と言える場所であり、国家主席の居住と執務の場でもある。当然厳重な警備のもと、歴代の国家主席たちが暮らし、国の命運を決めてきたこの場所は、外部からは隔離された場所となっている。
大陸に位置するこの場所の夜風は乾燥していた。日本の青森やアメリカのニューヨーク、スペインのマドリードなどが同じ北緯40度にある都市だ。どの都市も冬は大変寒く、夏は半袖でも汗をかく暑さを持っている。
ゴビ砂漠の南端に位置したこの中南海では、冬の北風でも、夏の南風でも、乾燥した風が中南海に湿度はもたらさない。
主席の執務室のデスクには、氷がたっぷり入ったロックグラスが佇んでおり、リウ・ジエン(劉健)国家主席は自身が愛飲している高級とは言えない、庶民が飲んでいる白酒を氷の上に注いだ。
「……北の村で母は凍え死んだ。泥や枯れた植物の葉や茎、その根を食べて命をつないでいた頃を、私は今でも忘れない。飢えと恐怖が故に、人が人を裏切り、家族の絆すら剥がれ落ちた。極限の飢えは、人の尊厳を蝕む。親が子を売り、老人は見捨てられる。あの冬、人は『血』すら重荷になった。私は、あれを二度と繰り返させないと誓いたい」
彼はロックグラスを傾けた。『カラン』という透き通る音と共に、白酒の香りが静寂の執務室に広がる。
「我々は、かつて分断され、奪われ、飢えさせられた。華僑となった者たちは、命からがら海を渡り、異国で働き、差別され、それでも血を守った。国籍を変え、華人となった者たちの中にも、本当の意味で祖国を想い続ける者がいる。恐怖ではなく、愛だ。世界の誰よりも誇り高く、誰よりも傷つきやすい『愛』だ」
彼はふと、机上の一冊の本に目を落とす。 それは、ユダヤの民に関する歴史書だった。
「ユダヤ人は、我々より恵まれていたのだろうか? 彼らは教育を受ける機会を持ち、金融に通じ、知恵を培った。だが彼らは、我々以上に恵まれなかった。信仰によって殺された。異質な文化として焼かれた。彼らには彼らの神がいた。だが我々には……その場所に広がる『現実』しかなかった」
彼はロックグラスを置いた。
「私は長男ではなかった。家には金がなく、私は遠くの親戚に売られた。呼び名は存在したが、実際には『物』だった。それでも私は、私を売った私の家族も、私を買ったあの親戚たちのことも恨む訳がない。手放す以外に私の命をつなぐことができなかった。私の命をつないでくれた彼らにも余裕があった訳ではない。私は今も生きているし、彼らが支払った金で、私の小さな弟たちの命を繋いでやることができた。感謝以外に何があると言うのだろうか?」
『カラン』と氷がズレ落ちる音がした。
「世界は共産主義を『悪』とする。だが私は、自由の名の下に他人を踏みつけ、独り占めすることを正義とする資本主義より、皆で分かち合い、皆で立ち上がる思想を信じている。共産主義とは、本来『文化』だ。個が利得に走らなければ、美しい調和の学びと問いだ」
彼は静かに笑う。
「私は時に人を脅す。それが人の力を引き出し、多くの幸せを紡ぎ出すのであれば、私は喜んで嫌われよう。天安門事件も、文化大革命も、指導者がとった道についてを否定はしない。だが、私はあんな方法を取らずに済むように、常に手前で動く。もっと早く動く。激情ではない。のんびりしていれば、間に合わなくなれば、民衆が蹂躙されるだけになる。国内でのイザコザであろうが、国外から侵略であろうが、我々の大地で、我々の血を流させることは私が許さない」
ロックグラスに新たな白酒を注ぎながら、彼は続けた。
「もし誰かの犠牲が必要だというなら、それが私であっても構わない。我々は集まっていなければならない。我々は弱い人種だ。だから団結が必要なのだ。個で争えば、我々は西洋に勝てない。だが個を捨てて、団として群れで動けば蹂躙されずに済む。個として強かったクロマニヨンは、個として弱かったが故に団となった我々ホモサピエンスに駆逐された」
彼の視線が遠くを見つめた。
「私は……日本人が好きではない。たしかに、礼節と秩序、技術への敬意はある。だが、それだけではない。彼らは転倒を知らない。あるいは、転倒を知らないふりをして生きてきた民族だ。 自分たちの国は特別で、世界から尊敬される存在だと……まるでそれが当然のように語る。だが、我々から見れば、日本の二千年など、我々の四千年近くにわたる歴史の河の一雫にすぎない。王朝が変わり、文化が崩れ、そしてまた興る。その繰り返しのなかで、我々は多くの価値観を吸収し、呑み込み、乗り越えてきた。 一系統の天皇が象徴として続いている日本と違い、我々は多様性そのものが『国家の体質』になっている。これは、誇っていいことだと私は思っている。……恥ずかしい過去もある。アヘンで骨抜きにされた。列強に侵略され、分断され、無力を思い知らされた。それは今でも我が血に刻まれている。だが、なぜ日本はそうならなかった?なぜ列強に手を出されることなく、列強の側に立ち、アジアを蹂躙する側に回れたのか?経済的には、今や我々の方が上だ。それでも、日本人の一部は、どこかで我々を見下す。そう感じる瞬間がある。それが、私の中に刺さったまま抜けない棘のように残っている」
眉間にしわを深く寄せたリウ主席は、ロックグラスに残った白酒を一気に飲み干した。
「だが、ニホンミツバチは尊敬している。巣を襲うスズメバチに対する行動が素晴らしい。個としては、数秒でかみ殺されてしまうスズメバチの周りに集まり『球体』となって、スズメバチを温めて殺す『熱殺蜂球』という戦法。前回の戦いで傷を負った者や、年老いた者がスズメバチにかみ殺されやすい、球体の中心部に率先して入り命を差し出し、皆でスズメバチを殺して団を守る。あれは美しい。とても美しい思考だ。我々の蘭、キンリョウヘン(金陵辺)は、ニホンミツバチを強く引き寄せるらしい。……我々が持つ『何か』が、日本人にとっても希望になるなら、悪くない」
そして彼は、ふと静かに呟いた。
「だが今の日本人は、アメリカの犬ではないか。白人の真似をすることが正義だとでも言いたいのか?自ら考えることを放棄した民族に、未来はあるか?」
そのとき、廊下から足音が響いた。 部屋の扉が、控えめにノックされる。
だが、彼は扉の方を見ず、声を出して問いかけた。
「西洋はキリストのために死ぬ。中東はアッラーのために死ぬ。日本は天皇のために死ぬ。……なぜ、我々はそうではないのだ?」
ドアが開かれ、部屋の入り口付近でノックをした男が静かに答えた。
「それは、我々が『恵まれていなかった』からです。明日生きることすらままならなければ、人は神よりも水を選びます。神を思う余裕など……我々にはなかった。ただ、それだけです」
主席は、残されたロックグラスの氷を見つめながら、静かに頷いた。そして、グラスを唇に運び……ひとすじの涙を、頬にこぼした。
「人民が、我々の血が、これ以上見下され蔑まされることは、あってはならない……」
ロックグラスの氷が、乾いた音を鳴らした。