10 執務室の二人
「困っている人間を見捨てられないのはエイナー家の遺伝ですね。」
ポツリとこぼしたノアールの言葉にヴァレリアの形の整った眉がピクリと動く。
「何か言ったかしら?ノアール。」
「いいえ、何でもございません。」
小麦の分配先のリストの束を差し出しながらノアールはヴァレリアを見つめる。
パラパラとリストを見比べながらサラサラと指示を書き込んでいく。
ふいに書き込む手が止まり、美しい顔がノアールを見つめ返す。
「………お前には悪いことをしたと思っているわ。」
「?何のことでしょうか。」
ヴァレリアからの突然の謝罪に表情筋をまったく動かすことなく小首をかしげる。
ノアールにはヴァレリアに感謝こそすれ謝罪される心当たりがまったく無いから。
「………怒っているなら怒ってもいいわよ。
本来なら辺境伯領に帰れるはずだったのに、急にこんな事に巻き込まれたんですもの。
しかも姫様と愚弟の婚姻を強行しておいて、本人は半年間ろくに政務に携わらず丸投げ。
愚弟が未熟な分、お前の負担は大きかったでしょう。
愚痴くらいなら聞いてあげてもよくてよ!」
謝っているとはとても思えない不遜な物言いに力強い目だったが、
これがヴァレリアの精一杯の謝罪だとノアールは知っている。
「ああ…。」
ヴァレリアは確かにこの半年、領主の城に戻ってくることはほとんどなかった。
だがそれは、侯爵領の治安の為に日夜飛び回っていたからだとわかっている。
それでも執務を丸投げしていた事に多少負い目を感じているらしい。
つい口元が緩みそうになる。
ヴァレリアの突拍子のない行動は今に始まったことではない。
でもそれには必ずいつも意味があった。
半年前の出来事も、驚きはしたが、そうせざるをえない事情があるのだと直ぐに納得したしノアールとしては何ら不満などなかった。
姉弟そろってノアールが辺境伯領へ帰りたがっていると思っているようだが、元々ノアールは帰るつもりはなく子爵領に骨をうずめる覚悟でいたのだ。
子爵領が侯爵領に代わっただけのこと。
「ヴァレリア様がお気になさる事などこざいません。私は今の生活にも満足しておりますゆえ。」
「………本当に?」
ノアールの真意を見抜こうとでもいうように紺碧の瞳が細められる。
「はい。」
ノアールが何の含みもなく淡々と返事をすると、美しい青空を映し取ったような瞳が安堵でゆるんで見えた。
並外れて頭の回転が速く、行動力もずば抜けているヴァレリアからすれば、説明する必要などない当たり前の事でも、凡人からすれば突拍子もなく自分勝手な行動にみえてしまうことが多々ある。
ヴァレリアもその事は気づいてはいるようだが、説明が後手に回るのは否めない。
どうやらヴァレリアはヴァレリアなりに自身が振り回してしまったと思うノアールのことを気にかけてくれていたようだ。
「そう、ならいいわ!まぁ文句を言われたところでどうしようもないのだし、私自身はまったく後悔していないもの。」
なんたる言いぐさだと流石のノアールも苦笑したくなったが、きっと真実最善の選択だったのだろう。
「………ノアールには、一応すこし話しておいた方がいいかしらね。」
ヴァレリアは完全に仕事の手を止め、執務机に肩肘をのせ頬杖をついた。
「半年前、あの様な形でフォルティナ様を愚弟の花嫁にお迎えすることを強行したのは、そうでもせねば王妃によって娼館に落とされてしまったからよ。」
「娼館に?………ですがそれは…………」
あり得るのだろうか?いくら疎まれている姫とはいえ、そのような事をすれば王家の威信に関わる。
しかしヴァレリアが言うことなので言葉を飲み込む。
「もちろん表向きは遠国へ輿入れするという体裁をとっていたけれども、実際は評判の良くない他国の娼館へ売り渡す算段だったわ。」
「………………。」
ノアールもフォルティナ姫の噂や評判は聞き及んでいた。
王家、特に王妃に疎まれているということも知っている。
だがしかし、王家として娘を娼館に売るなど事実が発覚した場合のリスクを考えると何故?と首を傾げざるを得ない。
「お前、魔王軍との戦時中、王家が辺境からの再三の支援要請を無視し続けていた事は知っているわね。」
「はい、もちろんでございます。エイナー子爵様のご支援があった事も。」
ヴァレリアは鷹揚に頷いた。
「そう、どれほど物資の支援を要求しても王家から支援はなかった。代わりに王家がよこしたのは軍資金だったわ。それも知っているわね?」
「はい、軍資金は送るので物資は自分達で調達せよとの命であったと聞き及んでおります。」
「ええそうよ、でもね、それは王家が自分達で調達出来なかったからその様に命じたのよ。」
「しかし戦時中とはいえ王都であれば様々な商団や商店がございましょう?国内で調達出来ないとしても王家であれば他国から輸入することも可能だったはずですが、……………まさか。」
ノアールの目が驚きに見開かれる。
「あら、お前の驚いた顔なんて久しぶりに見たわね。ふふふ」
ヴァレリアの眉間の皺が消え、秀麗な顔には満開の花が咲きこぼれるような美しい笑みが浮かぶ。
「お戯れを、ヴァレリア様、それでは………まさか。」
ヴァレリアは美しい笑みを浮かべたまま、執務机の引き出しから数枚の紙幣を摘み上げる、それと同時に紙幣はボッと炎をあげて燃え尽きた。
「ただの紙屑なんて、なんの価値もないでしょう?」
ノアールは言葉もなく燃えて塵となった紙幣を見つめた。
「つまり貨幣価値が暴落していると?」
貨幣価値とはその国の国力ともいえる。
「この国の産業は豊かな穀倉地帯からとれる小麦などの農作物、それから畜産業で成り立っている。
広大な土地を有していても鉱物資源に乏しいこの国では食糧を輸出する事でそれを補ってきた。
魔王軍の侵攻が国有数の穀倉地帯であるここ侯爵領であったのだから、それがどれほどの国家的危機であったのかなんて誰だってわかるのに、この国の王家はこの地が魔王軍の占領下に落ちるまで動かなかった。
そしてこの地が占領下に落ち周辺の辺境領までもが戦火に巻き込まれて小麦の生産が出来なくなり輸出はおろか国内での消費量を賄えなくなって来てようやく気づいた。
事態が厳しくなった事に気づいた王家がまず最初にやった事は、貨幣の生産量を増やし他国から食糧や物資を大量に買うことだったわ。それを戦地に送ったのならまだいい、王家は王都や有力な中央貴族が治める王都周辺へ物資を流し続けて、何の問題も起きていないように見せかけ続けた。
生産力も無いというのに他国から物資を購入する為に紙幣を増産し続ければどうなるか。わかるわね。」
「………………………。」
「ねえノアール、お前が他国の商人だったらどう?そんな国の紙幣にどれほどの価値をつける?
そんな国の紙幣に対して何を売ってあげる?そんな国の紙幣を手に入れたって買えるものもないのに。」
貨幣価値とはその国への信頼でもある。
紙幣の発行過多でハイパーインフレが起これば急激な物価高騰と貨幣価値の暴落を産みおとす。
「王家は貴族に他国との貿易を禁止し、独占し、情報を操作することでこの事実をひた隠しにしているの。この紙幣には価値があると国民に信じ込ませるために。
いまこの紙幣に価値があると信じているのは王都と王都周辺か、王家におもねる貴族領くらいなものね。 」
「…………………いつから、そのような事になっていたのでしょうか?」
「少なくとも3年前には。」
ヴァレリアは 更に笑顔を深めてノアールを見つめた。
「お前、フォルティナ様がこの3年ずっと辺境伯領でお住まいだった事は知っていて?」
「王女殿下が?しかし王女殿下は当時まだ13歳でございましょう?
辺境伯領は魔王軍との最前線だった場所、王家への不満も高まっていた危険な地です。」
いくら何でも……と言いかけてヴァレリアの目に灯る仄暗い光に息を呑む。
「王族の一員として戦地を鼓舞せよとの命で、軍資金と共に辺境伯領に送られて来たそうよ。スケープゴート(生贄)として。」
「…………………………………。」
「貴族家は貴族の義務として必ず一人戦場に赴かなければならない。お前も知っているとは思うけど我がエイナー子爵家からは私が参戦していたわ。
私はそこで姫様に出会った。
初めてお会いした時は使用人の娘なのかと思うほど酷い格好だったわ。
クロイ辺境伯様は賢明にもフォルティナ様の素性を隠していらしたから、私が気づけたのは本当に偶然だったわ。」
確かに父ならば、たとえ王家に怨みがあろうとも13才の少女を死地に追いやるような真似はすまい。
むしろ王家の非情な仕打ちに憤ったことだろう。
ノアールは武人然とした父親の顔を思い浮かべた。
「フォルティナ様を戦地に送ろうと提案したのは王妃だった。」
いくら憎い女の娘だとしても13才の少女を戦地に送るなど度が過ぎている。
「娼館に売り飛ばそうと画策していたのも、王妃だったわ。」
ヴァレリアの殺気が凄味を増していく。
「そして今も尚、フォルティナ様を陥れようとあの女は暗躍している。」
ヴァレリアから発せられる、ビリビリとひりつくような殺気のこもった魔力が執務室に充満し、ノアールの頬をうつ。
「今すぐ捻り潰してやりたい!」
「…………………………なるほど。」
状況を把握し、驚きから瞬で落ち着きを取り戻したノアールは続けた。
「しかし、王女殿下はそれを望まれなかったと……。」
フッと魔力が霧散する。
「はぁ、そういう事よ!」
それ故に勇者の褒美にダルシオンとの婚姻を求め、この辺境の侯爵領に逃したのだ。
こちらからは手出しはしない。
王家がこのまま滅ぶのか、それとも再生する事が出来るのかそれはわからないが…。
「ねえ、ノアール、お前は有能な執事でしょう?」
「………そう在りたいと願っております。」
残念ながら、この国の現状もしっかり把握できていなかった、まだまだ未熟な執事だが。
「あの二人を、これから先も支えてあげてくれないかしら………?」
ノアールの目が再び驚きで見開かれる。
「辺境伯領に帰るなとは言わない。……そうね3年、この地が落ち着きを取り戻し、ダルシオンが一人前になるまででいい。
せめて3年、愚弟を支えてやってくれないかしら。」
懇願するような、不安気な瞳のヴァレリアをノアールは初めて見た。
自分はとうの昔に覚悟を決めているのに。
傲岸不遜で敵にはめっぽう強い癖に、身内には変なところで弱い。ノアールは笑いたくなった。
『本当に不器用ですねぇ。貴女は。』心でつぶやく。
「私はこの身が尽きるまで、貴方方のお傍を離れるつもりはございませんよ。」
頬の筋肉が緩み、口元が緩やかに弧を描き、眼鏡の奥の瞳が優しげに細められる。
「………………お前の笑顔……凄い破壊力ね。怖いわ。」
「?」
「はぁ、ならいいわ。
とりあえず今わたしが有能な執事に望むことは、美味しい紅茶を入れて持って来る事よ。
小麦の分配先のピックアップと優先順位は決まったわ。一段落したからティータイムにしましょう。」
見れば先ほど渡した書類がいつの間にか出来上がっている。
「かしこまりました。………ところで1つだけお聞きしても?」
「何かしら?」
「先ほどの貨幣のお話し………………………子爵様はご存知だったのでしょうか?」
「私がその事を伝えないとでも?」
本当に苦笑してしまう。恩返しのつもりで頑張ってきたつもりではあるが、これでは国内で販路を開拓していたことは無駄であったようだ。
今思えば子爵様が無償支援していたのもそれが理由のひとつでもあったのだろう。
「……精進いたします。」
まずは美味しい紅茶を淹れるところから始めるべく、執務室を後にした。




