政変前夜
おじいさんのありがた~い おはなし。
姉小路公望が殺害されて以来、長州の暴走は止まらなかった。
関与が疑われた薩摩藩は、九門警備から外され、御所への藩士の往来も禁じられた。
長州藩は5月10日馬関海峡でのアメリカ商船への無通告砲撃以来、続けたフランス、オランダ艦船への砲撃に対する6月1日アメリカ、6月5日フランスの報復攻撃があっても砲撃をやめず、周辺諸藩に続くことを強要していた。
馬韓海峡の対岸、小倉藩に対しては数度にわたり、挟撃用の土地の借用を申し込み、断られると6月18日奇兵隊が海峡を渡り用地を占拠した。同18日、長州藩主、毛利慶親は石清水行幸・攘夷親征勅命の工作、違勅の幕吏・大名は長州一手でも討伐すべきことなど命じた。
この攘夷親征案を献策し、積極的に行動していたのが急進派の真木和泉であった。
6月25日、和泉は攘夷派公家衆に働きかけ、京都守護職、会津藩主松平容保に関東下向を命じる勅命を出させた。攘夷親征の妨げとなる会津藩を追い払うための謀略であった。
今日も龍馬は岩倉邸を訪れていた。
岩倉邸は数名の薩摩藩士が交代で警護していた。今日は京の政情を報告するため高崎正風が訪れていた。
「長州の暴走は止まらんのか。」
「会津を京から出しちゃいかんじゃろ。」
「それが、帝も憂いておりまして、密勅を出したとのうわさでございます。」
「これは、帝をお救いする手を考えねばならんじゃろうな。」
「容保殿も勅命に対して返答を行って居りません。」
「薩摩はどうなっちょるんじゃ。」
「鹿児島湾でイギリス軍艦とにらみ合っているようです。」
「龍馬、帝をお救いする手はないのか。」
「桂さんとは面識はあるんじゃが、なかなか会ってくれんのじゃ。」
「真木ではないのか?」
「あの人は話を聞いてくれん、まだ桂さんの方が話ができるんじゃ。」
「近衛さんたちに公家衆や、御所を固める因州・備前・阿波・米沢各藩にも手は回しているのですが、天誅を怖れて何もできない始末です。特に姉小路殿が殺害されてからは公家衆の中には参内しないものも出ているようです。」
「とりあえず、高崎殿は、会津と福井とは連絡を密にしておくようにな。」
岩倉は、洛北の岩倉村に蟄居しながら、この高崎らによって京の様子をほぼ正確につかんでいた。
「それで、土佐の動きが面白いことになっています。」
「容堂殿が帰国したようじゃな。」
「それで勤王党の幹部3名が切腹させられたようです。」
6月8日、土佐前藩主、山内容堂は、青蓮院宮に令旨を請い、藩の政治を勤王に変えようを工作した土佐勤皇党幹部、平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太の3名に切腹を命じた。
「それで、武市さんはどうなんじゃ。」
「武市瑞山はまだ京で長州過激派と共闘しているようです。」
「寅は?」
「吉村虎太郎は長州が匿っているそうです。」
「うううん、あいつら死ぬぞ。蝦夷に逃がしてやりたいんじゃが…。」
「龍馬は、長州はうまくいかないと思っているのか。」
「無理じゃろ。というかこのままでは帝の命も危ない。」
「うむ。帝のお命はお守りせねば、異国の兵の前に立たせるつもりなのか。」
「岩倉さんは帝と連絡を取っておるんか?」
「いや、直接にはとっておらん。ただ…。」
そう言うと、岩倉は文机の書状を押し戴いた。
「これは内緒だぞ。陛下の相談役である中川宮から書状が届く。」
「中川宮って、青蓮院宮のことじゃな。」
「そう、今は還俗して中川宮じゃ。土佐勤皇党も偽勅の相手を間違えたな。宮も帝も急激な攘夷には反対じゃ。特に長州派の公家の横暴には手を焼いておるそうじゃ。」
7月5日、攘夷親征案に対し、近衛忠熙・近衛忠房父子、右大臣二条斉敬、内大臣徳大寺公純が、諸大名を召集し、衆議の上で決定すべきであると具申し、御所を守護する攘夷派の因州藩を始め、備前、阿波、米沢藩もそれに同調した。朝議が攘夷親征に否定的な状況になりつつあった7月12日、長州藩家老益田右衛門介らが兵を率いて入京し、御所の周辺を固め、攘夷親征に反対する公家や諸藩を威嚇した。これに対して帝は近衛親子や二条右大臣、徳大寺内大臣を通じて、島津久光に上洛を求める宣達書を出した。これは建前上、攘夷親征に同行するためとして、三条実美や真木和泉も同意せざるを得なかった。
しかし、16日には久光上洛に反対する過激攘夷派が暴発する恐れがあると、長州派の公家衆の意見が通って、中止と決まり、その上、18日に長州藩は正式に攘夷親征案を申し入れた。
「帝は『毎々朕が申出候義を、押返し』とお怒りでした。」
「それで、朝議はどうなったのか?」
「鷹司関白殿が、因幡、備前、阿波、米沢の四藩に諮問しましたが…。」
「反対したんか?」
「いや、攘夷は衆議によって行うべきで、当面は幕府の攘夷の成否を見守るようと。」
「結論を先延ばしにしたんか。」
「そりゃ、反対したら何をされるか、わからんからな。」
因幡藩主、池田慶徳は一橋慶喜の実兄、備前藩主、池田茂政は慶喜の弟であった。そのため、京都政局の様子は逐一、慶喜に伝えられた。慶喜は二人の兄弟には尊王攘夷派として、情報の提供と共に長州の暴走を抑えるようにと密命を下していた。
関白、鷹司輔煕は長州関白と陰口をたたかれるほど、長州と深く結びついていた。そのため、朝議は徐々に長州有利に動いていた。
幕府は、7月8日に長州藩に対し無許可砲撃を慎むように通告し、16日幕府軍艦「朝陽丸」で旗本の中根市之丞らを派遣し、無断での外国船砲撃や小倉藩領侵入について長州藩を詰問した。ところが逆に長州藩は、アメリカ軍との交戦で失った長州艦の代用として「朝陽丸」の提供を要求し、8月9日には「朝陽丸」を拿捕。さらに、8月19日-20日には拘束していた中根市之丞らを暗殺した、
この間、8月4日の朝議で、長州の攘夷実行に非協力的であったとして、小倉藩の処分案を内決した。譜代大名である小倉藩主小笠原忠幹の官位と所領15万石を没収するという大名の改易を朝廷が行うという暴挙を知ると、因州・備前・阿波・米沢の攘夷派4侯は強く反発し、池田茂政は密かに兄慶喜に密使を送った。
江戸の慶喜の元へは京の政情が次々と届けられていた。その上、越前からは挙藩上洛計画が中止になった知らせが届いていた。
「殿、これでは幕藩体制が形骸化してしまいます。」
大久保一翁は、小倉藩の処分を朝廷が幕府の頭越しに内決したという知らせに憤慨していた。慶喜の元には、大久保と勝麟太郎が呼ばれていた。将軍後見職を辞任した慶喜は、幕閣に左右されずに独自のルートで事態の解決に動いていた。
「帝は攘夷親征を本気でやろうとしているのか。」
「それが、どうもそうじゃなさそうなんですよね。」
そう言うと、勝は龍馬から送られた手紙を見せた。
「こ、これは?」
「帝が島津久光公に送った密勅だそうですね。」
「この手紙はどうやって?」
「うちの塾頭の坂本龍馬というものが岩倉卿から見せられたそうです。」
「ということは、攘夷親征は帝の御意志ではないということなんですね。長州か。」
慶喜から回された龍馬からの手紙を読みながら、大久保は憤慨している。
「龍馬の話だと、岩倉卿は中川宮と連絡が取れているそうです。ただ薩摩は、薩英戦争の後始末もあって、上洛は時間がかかりそうだということでした。」
「茂政からの書状だと、島津久光への上洛勅命を、長州派が取りやめにさせたそうだ。」
「会津を京から離そうとしたり、長州は幕府に成り代わるつもりですな。」
その時、慶喜の居室に用人が書状を届けてきた。
「殿、池田慶徳殿から書状が届いております。」
「兄上から……。」
慶喜は書状を開封し、しばらく繰り返し読んでいた。
「何かありましたか?」
「長州派が、神武天皇陵、春日大社に帝を連れ出そうとしているらしいのだ。」
「将軍様も呼ばれるのですか。」
「いやそうではない。そこで挙兵して横浜に向かう計画らしいのだ。」
「攘夷親征を強行するつもりなんですね。」
「兄上の話だと、詔が出されるのは時間の問題らしい。」
「帝は?」
「見るからにやつれているらしい。」
「帝を助け出しましょうか。」
「勝よ。そんなこと出来るのか?」
「とりあえず、龍馬に連絡を取って岩倉卿を動かしましょう。」
大和行幸は行われるのか?




