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大政委任

史実準拠です。

 島津久光は困惑していた。兄の望みであった諸侯会議による幕政改革、公武合体による外様大名の幕政参加、それらを目指しての上京、江戸行きであったのに、結果的に攘夷の先兵を果たしてしまった。


 タウンゼント・ハリスという稀代の詐欺師によって、既に破綻していた幕府の財政は壊滅的な打撃を受け、国内は激しいインフレーションに見舞われた。日本国内では金銀の交換レートが1:4であったのに対して、メキシコで発見された大規模銀山の影響もあったアメリカ国内では金銀の交換レートが1:20~30近くあったのだ。そのため日本の金が激しい勢いで流出した。アメリカ船の商人や船員だけでなく、ハリス自身もそれで巨額な利益を得ていた。激しい金の流出から、交換比率の差に気が付いた幕府が、交換比率の是正を要求すると、その実施期限を先延ばしにし、ハリス自身が期限直前まで、更に多くの金を日本から奪い取ったのであった。更に関税に無知な幕閣相手に不平等条約である「日米修好通商条約」を結ばせることにも成功していた。


 その影響を最も受けたのは幕府以外の全ての藩と庶民であった。幕府は関税を低く抑えられていながらも貿易の利益を得ることには成功していた。そのため少しずつ幕府の財政は改善されていた。それに対して激しいインフレーションで自前で収益を得ることが出来ない諸藩の財政は悪化の一方であった。南西諸島からの砂糖の利益がある薩摩や、交通量の増えた関門海峡で交易商売を行っている長州藩など独自の収益ルートを持つ藩以外は、幕府に吸収されるのも時間の問題であった。既に主要な藩の藩主には徳川の血が入っているものが多いのだ。


 島津久光の改革の一番の目的は、貿易の幕府独占に風穴を開けることであった。「日米修好通商条約」で開港する港が増えれば、更に幕府との経済格差は大きくなる。幕閣の一部は幕府による中央集権化を進めることを企図しており、神戸開港はその勢いを強めることになる。その点で久光は神戸開港に反対であった。

 天皇の勅許や攘夷などという、過激派浪士の言動は、そのために利用しているつもりであった。しかし、「生麦事件」はその過激派浪士たちを勢いづけて、「攘夷」という到底実行不可能な方向に幕府を持っていこうとしている。


 薩摩はペリー艦隊に抵抗らしい抵抗もできずに支配下にあった琉球の港を占拠され、拠点を作られてしまったという苦い過去があった。その時点から、既に攘夷は絵空事であることを知っていた。そして鹿児島湾に砲台を作る一方で、西洋式の軍制や、反射炉など着々と軍備を整えていた。同様な動きを取っていたのはフェートン号事件で煮え湯を飲まされた佐賀藩ぐらいであった。佐賀藩は名君鍋島直正の下、反射炉を持ち、西洋砲の開発、蒸気船の建造など、幕末最強の軍事力を作り上げようとしていた。そしてその技術が母方の従弟である島津斉彬の時代に提供されていたのである。


 事態は、朝廷の攘夷派公家に食い込んだ長州藩士、水戸や土佐浪士の思惑通りに進み、朝廷は幕府に攘夷決行を迫るため、将軍家茂に上洛を要求してきた。


 文久3年2月、慶喜は家茂に先駆け、将軍の名代として松平春嶽と共に朝廷側と攘夷について協議をするため上洛していた。二人は観念だけで動く攘夷派浪士たちに操られた公家衆に苦戦していた。


「あいつら本気で攘夷ができると思っているのか。」

「蒸気船に乗ったこともない公家ですからね。」

「日本だけでイギリス、フランス、オランダ、アメリカ相手に戦えると本気で思っているから、どうしようもない。」

「あの過激派を何とかしないと、日本が滅びますよ。」

「それに京だ、神戸だと近くしか見ていない。」

「そうでした。勝安房の弟子に面白い奴がいまして」

「安房の弟子か。」

「なんでも浪士たちを集めて、蝦夷に送ると言っているそうなんですよ。」

「ロシアか。わかっている奴もいるではないか。」

「神戸に海軍塾作ると言って奔走してますよ。」

「それはもしかして……。」

「そう、龍馬ですよ。」

「ん~、この世界では会っていないんだよなぁ。」

「あの男は、今後の鍵になる男ですから、大切にいたしませんと」

「そうだな、脱藩の罪だけでも許してもらうように容堂に伝えておかないとな。」


 2月21日、慶喜は関白・鷹司輔煕らに対して重大な提案を行った。

「幕府としては、攘夷実行を含めた国政全般を従来通り幕府にお任せいただくか、さもなくば、政権を朝廷にお返し、攘夷を含めた対処は朝廷にお任せするか。いづれかにお決めください。」と、事実上の白紙委任か大政奉還かの二者択一を迫ったのである

 しかし、朝廷からの返答は全く無責任な回答であった。

「政権は今まで通り、幕府にお任せする。しかし、国事について朝廷が諸藩に直接命令を下すこともあることをお忘れなきよう。」

「なんですと、それはどういうことでしょうか。」

「攘夷の実行、お任せしましたぞ。」

 同日、松平春嶽は政治総裁職の辞任を表明した。


 3月7日、将軍徳川家茂は御所に参内し、5月10日の攘夷決行を約束させられた上、孝明天皇に対して、前代未聞の大政委任の勅への謝辞を述べさせられた。攘夷派の策略にうまくのせられた慶喜たちは、何とか源義家ゆかりの石清水八幡宮で攘夷の命を受けることだけは避けたが、このことで、江戸に戻る慶喜一行は浪士たちに襲撃され、朝廷は家茂の江戸帰還を三ヵ月の間許可しなかった。許可が必要なほど力関係が逆転していたのであった。

歴史の流れを変えるには遅すぎるのか。

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