コヴェント・ガーデンの花売り娘
龍馬ロンドンへ
「ん~、それは微妙な問題ですね。」
アメリカ合衆国イギリス大使ジェームス・ブキャナンは、大きな執務机で腕を組んだ。 ブキャナンは、ペリー来航の際、ビアーズ大統領の脅迫文にも似た開国要求書を変更するために、新進気鋭のエイブラハム・リンカーン下院議員と共に急遽日本を訪問し、事無きを得た。その際に日本という国に深い興味と敬意を抱き、その後起こった条約勅許騒動の解決に岩倉と共に奔走したのであった。それ以来、アメリカ側との交渉の窓口はここイギリス大使館で行われていた。
「帰国以来、リンカーン君が結成した共和党が勢力を広げていまして」
「おお、あの時吉宗公と話していたリンカーンじゃ。」
物珍しそうに館内の調度を眺めていた龍馬が、ブキャナンの言葉からリンカーンという言葉を聞き取り、思わず反応した。
「ん?ミスター岩倉、その下男は」
「この男は坂本龍馬。ここで学んでアメリカにわたってもらう予定だ。」
「オー、リョーマ!キャプテンウインから聞いてますよ。」
「キャプテン、ウイン?……勝利……、おお勝先生じゃ。」
来日時にブキャナンに流暢な英語で話しかけてきた男は「キャプテンウィン」と名乗ってきた。まさかあの幕府艦隊を率いる軍艦奉行であると気づかないまま二人は意気投合して、ブキャナンはアメリカの政治事情をかなり深いところまで話してしまっていた。その時、勝は自分の門人で坂本龍馬という面白い男がいる。そのうちアメリカに送るから面倒を見てやってくれと言われていたのであった。
「やっぱり、奴隷はまずいかのう。」
「売り買いをしたということがスキャンダルになりかねんのだよ。」
「ブキャナンさんは反対派なのか?」
「いや、私は奴隷州と反対派の対立で、党や国内に争いが起こることが心配なんだ。」
「『ヨシムネ』州の扱いはどうなっておるんじゃ。」
「それも対立している。ネーティブは白人の受け入れを認めたが、奴隷にはもちろん反対している。しかし周辺が南部の奴隷州に近くて、逃亡奴隷が逃げ込んでいてな。『ヨシムネ』を武力占拠すべきだという強硬派も出ているんだ。」
「カンザス・ネブラスカじゃったか。」
「その件でリンカーン君が今大論争をしていて多くの支持を集めているんだ。」
「おい龍馬、お前いつの間に…?」
龍馬は、渡欧の前にアメリカの事情を勝麟太郎以外にも多くの関係者から聞いて回っていた。何故か皆龍馬を相手にすると口が軽くなるのである。「源内参号」の中でも中浜万次郎と情報を交換していた。見るからにぼーっと話を聞いているのかいないのかという態度で要点を把握しているのであった。
「で、ブキャナンはいつ大統領になるんじゃ。」
「それなんだ。今は両派の対立を抑えつつ支持を取りつけなければならないのだ。」
「奴隷は反対なのか?」
「私個人が賛成とか反対という問題ではないんだ。」
「国内が割れるのを避けるということじゃな。」
「南部の農業の構造が変化すれば、自然と奴隷の需要は減るはずなんだ。私は日本の農業を見て確信したんだ。」
「それまで、爆発しないように調整するんじゃな。」
「国内が割れると、フランスやイギリスの介入を呼ぶ。せっかく肩を並べるようになったのにまた独立戦争の昔に逆戻りだ。」
「なるほどのう。日本も朝廷と幕府という問題もあるし、他人事じゃないのう。」
「おい龍馬、それでわしが腐心しておるんじゃ。」
「慶喜さんが将軍になれば解決するじゃろ。あの人はきっとそのつもりじゃ。」
「それで、その以蔵という男は、わたしを迎えに来るアメリカの船で連れられてきた日本の漂流民ということにしましょう。」
「漂流民?」
「アメリカの捕鯨船に救助された漂流民。そんな話がありましたよね。」
「ああ、万次郎さんだ。」
「いや、日本人の以蔵が大西洋で漂流するのは無理があるんじゃないか。」
「スペインの奴隷船から逃げ出したということにしますか。」
「やっぱり奴隷じゃないか。」
「アメリカの船でなければスキャンダルにはなりません。救出した船長はヒーローになれます。」
「政治は複雑じゃのう。リンカーンさんはどうなんじゃ。」
「民主党のダグラスが、論争で潰されたからなそのうち出てくるだろうな。」
「ブキャナンさんはアメリカに帰るんですか。」
岩倉卿はブキャナンをアメリカの船が迎えに来るという話に反応した。
「ダグラスが自滅したのでな、私が民主党の大統領候補になると思うよ。ただ、アメリカにいると北部と南部の争いに巻き込めれるからな。すぐ戻って来て、選挙戦まではこっちにいるよ。」
「おい、龍馬。いいものを見せてやろう。」
岩倉卿はアメリカ大使館からの帰り、岩倉はウエストミンスター寺院に近いコヴェント・ガーデンの一角の劇場に龍馬を連れて行った。今日は「ハムレット」の公演があるのだそうだ。
「そこの兄さん、花買ってよ。」
劇場の近くには若い花売り娘が、花の入った籠を手に二人に近づいてくる。
「花買って、こりゃ岩倉さん、俊輔さんの国際交流かのう。」
「龍馬、相手にするな、無視じゃ、無視!」
「いや、この娘は美形じゃのう。おお、買う買う!」
「りょ、龍馬!!」
龍馬は既に着崩れている今朝着たばかりの洋装のあちこちを捜している。
「おお、あったあった。How much?じゃ」
女は手に持った花を全て手渡すと龍馬の手の中にある銀貨を奪い取った。
「さて、どこに行くんじゃ?」
「はあ?私は帰るわよ。」
「おお、おまんの家に行くんか。」
「なんで、あんたが私の家に来るのよ。」
「まさか、花だけなんか?別の花は売らんのか?」
バシーッ!
「私は花売りのイライザよ。花しか売らないわ。」
その時初めて龍馬は平手打ちをした若い女をじっと見つめた。いかにも下町の娘の恰好はしているが、かなりの美形である。
「こりゃ、たまらんぜよ。わしゃ龍馬じゃ。」
そういうと龍馬は両手いっぱいに花を抱えたまま岩倉卿を追いかけた。
このやり取りを一人の男がノートを片手に必死にメモしていた。
「Why Can't The English? 」
ヒギンズ教授は嘆いていた。
The Rain In Spain




