幕末の鬼退治
史実と同じ展開です。
文久2年(1862年)、安政の大獄以来失脚していた慶喜は将軍後見役となり、一橋家を再相続した。文久の改革が行われたのだ。
一橋派の父である水戸斉昭、島津斉彬は既に亡くなり、兄斉彬の遺志を継いだ島津久光が、薩摩兵を率いて上京し、朝廷に幕政改革の建白書を提出した。薩摩藩主となった息子、島津茂久の父という立場だけで無位無官の久光が公卿に働きかけ、孝明天皇から勅許を得ることに成功したのであった。そして、朝廷は勅使として大原重徳を派遣することになり、島津久光はそれを護衛して、堂々と江戸に上京し、幕府に朝廷からの勅命として改革を受け入れさせたのであった。
その改革の内容は大老を廃し、将軍後見職として一橋慶喜、政事総裁職として松平春嶽、京都守護職として松平容保を任命。軍制改革、参勤交代の緩和(形骸化)などを定めたものであった。
異界で入り込んできた別の世界線の記憶は、現在の慶喜にとって眩しすぎた。黒船来航を圧倒的に有利な展開で乗り越え、近代技術強国となり、イギリス、オランダを同盟国として、ロシアと対等に交渉、フランスを二度も撃退。この世では尊王攘夷の神輿に乗っている孝明天皇も異国の文物に関心が深く、イギリス、オランダ、ロシア、タイと王室外交を行っている。今や尊王攘夷の急先鋒となった長州も、そして薩摩も「日本」という国のために力を尽くしていた。そして少年期に過ごしたロンドンの街並み、全てがこの世界では夢物語であった。
そして、将軍位辞退、平和裏の幕府の解体、二院制の実現そこに至る所で記憶は途絶えていた。初めて吉宗の廟に参った時にみた幻がそこにはあった。
慶喜はこのように進む歴史もあったのだと思うしかなかった。慶喜はこの理想世界に現実を近づけるにはあまりにも現実世界は混乱を極めていた。吉宗の時代から百五十年近くの年月をかけて、吉宗-田沼意次ー松平定信と受け継がれてきた改革が行われた世界とは違い過ぎた。あの世界には参議や諸侯、公家、皇族にも海外事情を知るものが多く、近代政治論にも経済学にも通じているものが多かった。政事総裁職となった松平春嶽は開明的な男であるが、イギリスで政体論を学んできた英才である理想世界の春嶽とは大違いであった。薩摩も日本の南の守りの要ではなく、幕府の政策に干渉してくる存在であった。
慶喜は理想世界と、同じ人物でも、この世界では通ってきた教育と経験で大きくその政治思想が変わっていることが分かってきた。しかし、この日本が一丸となって現在の国難に立ち向かわないと、国内が異国に浸食されて行くであろうことは容易に予想がついた。
急進派の諸藩が攘夷を始め、幕臣や親藩が暴走して内戦になったら、今の日本に異国の侵攻を止める力はない。
その事態に対抗するには「日本」として中央集権化を行う必要があった。そのためにはこれまでの幕府の方針を改め、「公武合体派」が進める「公議政体」も受け入れていく必要があった。そこから段階的に議会制度に発展させていく、吉宗たちが行った百五十年をこの数年で成し遂げる必要があった。
「仲良く、楽しく」
慶喜は理想世界にあって。この世界にないもの。この吉宗が残した言葉。この言葉は異界では家康公も言っていた。綱吉公が吉宗に行った言葉らしい。
理想世界ではこの言葉はロンドンの大学構内にも掲示されていた。この言葉の影響はなかったのか。取り寄せていたこの世界のイギリスの学術書は、イギリスで学んだ記憶にあるものと内容が微妙に異なっていた。
「慶喜様、イギリスから本が届いておりまする。」
江戸城内にある一橋屋敷に横浜に届いた本をもって一人の男が訪ねてきた。
「Hi John Mung. How are You?]
「How are You.Mr.Yoshi」
通訳として幕臣に取り立てられた中浜万次郎は度々、一橋邸を訪れていた。日本語は土佐弁の訛りが酷く、英語の方が自由に話せた万次郎にとって、このお殿様は唯一英語で会話ができる存在であった。理想世界での記憶が流入して以来、慶喜は以前から取り寄せていた原書を読み、新しいものを更に来航するイギリス船に届けさせていた。万次郎はその通訳という名目で一橋屋敷に出入りしていたが、慶喜が何不自由なく英語が使いこなせることは二人の秘密であった。
アメリカの政治制度について学んでいた万次郎と政体論や、国際情勢について情報交換をしていることを知るものも少なかった。万次郎はアメリカ航海を成功させた咸臨丸艦長、勝麟太郎や大久保一翁を紹介し、また松平春嶽を通して横井小楠も加わり、公議政体を実現するための方策を議論していった。慶喜の理想である二院制の議会政体に移行していく、そのための公議政体であった。「文久の改革」で将軍後見職となった一橋慶喜は、勝麟太郎を軍艦奉行並に、大久保一翁を御側御用取次任命し、海軍の改革も進めた。
そして、京都守護職に会津藩主松平容保を任命したのであった。
「桜田門外の変」は幕府の大老を惨殺し、幕府の政策を変えた。
この事実は、英雄願望を持つ諸藩の若者を勇気づけた。悪人を切ることで英雄となるのである。無名の若者が奸賊を切ることで、「勤王の志士」になれる。彼らにとって「尊王攘夷」という言葉は正義であった。そして、それに逆らうものは悪である。悪を切ることが勤王になる。それで、京の町には続々と英雄願望を持つ若者が押し寄せた、そして毎日のように「尊王攘夷」の旗の下、「天誅」という「鬼退治」が行われた。そして「尊王攘夷」の指導者が藩単位で朝廷や京の町を支配しつつあった。指導者が「奸賊」と指定する人物は悪であり退治されるのである。
そして京の治安維持のため、浪士隊が送られる。浪士隊も尊王である。帝のいる京の治安を乱すものは悪である。その悪を退治するのである。
血は血を呼び、死は怨恨を残す。敵討ちは敵討ちを呼び、この狂乱状態を鎮静化させないと、公議政体どころではなかったのだ。
幕末の「鬼退治」ブームは収まりそうになかった。
「鬼」は誰でも成り得る。「鬼」は無数に存在したのだ。
鬼退治はこのシリーズの共通のテーマです。




