上野寛永寺
パラレルワールド全開
慶喜が一橋家に養子に入った頃の話である。
新藩主就任の挨拶としてとして祖廟のある寛永寺に墓参を行った。一橋家藩祖宗尹と二代治済を始めとする歴代藩主、それから一橋家から出た将軍家斉。案内の老僧の話では家斉は生前、徳川家基への墓参を欠かさなかったという。家基と言えば本来11代将軍となる予定だった10代家治の子。慶喜はこの家治、家基親子の死について疑念を持っていた。家斉が墓参を欠かさなかった理由は罪の意識だったのであろうか。慶喜はここに眠る歴代将軍家綱、綱吉、吉宗、家治、家定の霊廟を巡ることにした。豪奢な家綱、綱吉の霊廟をでて、簡素な石造りの吉宗の墓に手を合わせたその時であった。
「この度、徳川家は将軍職を辞退。廃止することとしました。」
14代家茂が亡くなり、治済-家斉系の血脈がほぼ断絶した徳川家は、既に形骸化していた将軍職を辞退することを宣言した。
既に各藩からの代表者である参議とそれを承認する機関であった諸侯会議も形を変えつつあった。この時点で既に幕府という組織はほぼ原形をとどめない形になっており、慶喜も有力な参議院議員として革新的な政策の数々を立案していた。徳川家の将軍辞退は特に問題もなく受け入れられ、議題は本題に向かっていた。今回の参議院の争点となっているのは「衆議院」の創設と、朝廷の遷都問題であった。
有力な二院制論者である一橋慶喜は、現在参議とされている各藩の代表者がどうしても各藩の利益代表となっている現実を憂いていた。党派を作ることは禁じられてはいたが、有力な藩同士が歩調を合わせ、通過した法案を有力な藩主がいる諸侯会議で承認されてしまう問題を避けるため、諸侯会議の権力を限定することと、民意を反映する衆議院の創設を提案していた。イギリス留学が長かった慶喜はイギリス型の二院制がアメリカやフランスにも導入されていることから、この制度を日本にも取り込むべきだと考えていた。
松平定信が島津重徳と始めた「革命を経ない日本の封建制度の改革」は黒船来航という国難を無事切り抜けることに成功していた。近代的科学立国日本を作り上げることに成功していたのだ。しかし、制度的な欠陥はまだ残っていた。その欠陥を突いて参議院議長、老中阿部正弘の死去と共に大老に就任した井伊直弼は、議会を解散し、諸侯会議を構成する水戸斉昭、島津斉彬、松平春嶽、山内容堂らを謹慎とした上で、廃止する話も出ていた将軍職を紀伊の幼い慶福とし、旧来の幕府の制度に戻してしまったのである。
更に、反対する各藩の参議も軽格のものは捕えられ、藩主格のものは謹慎させられた。慶喜も謹慎となり一橋家も当主不在とされてしまった。安政の大獄はこの世界でも発生したのであった。
そして、この事態に最も怒りを表明したのが朝廷であった。
黒船来航の年から朝廷からも参議を派遣するようになり、海外留学経験のある岩倉具視卿がその任に当たっていた。朝廷でも海外留学者が増え、イギリス型の「国王は君臨すれども統治せず」という考え方が広まり、英明な睦仁親王のイギリス留学が予定されていた。
それらがすべて破棄され、「禁中並公家諸法度」の時代に戻されたのである。
そして水戸藩に密勅が下った。
歴史通り、桜田門外の変も起こったのであった。
この時以来、諸侯会議と参議院が再開され、行政府となる幕府の改革が始まった。実質上の幕府の解体が行われる中、「民選議院設立建白書」が出されたのであった。土佐の坂本龍馬らが発議した建白書は各藩の下級藩士や、既に藩を越えて日本という国を考え始めた若者たちに熱狂的に支持されていた。ただし、議院内閣制や政党については各藩で意見が割れていた。政党が公益を第一に考えるのかという、アメリカやイギリスでの問題を知るものも多かったのである。参議でもあった吉田松陰は、「やまとごごろ」に従って、私利藩利を考えない議院とするべきであると、自ら松下村塾で議員となすべく長州の優秀な若者の教育を始め、吉宗時代以降藩教育に力を入れていた薩摩藩も優秀なものたちに政治を学ばせた。大江戸大学を頂点とする国内の教育制度はすでに豊富な人材を用意していたのである。
幕末維新の騒乱は、学問の上で行われることとなっていた。
そのような中での徳川将軍家の消失は大きな混乱を招くことなく、行政府と議会制度の改革として進んでいった。慶喜の「大政奉還宣言」はそのような中で混乱なく行われたのであった。
「上様、次へ参りますぞ。」
慶喜は案内の老僧に声を掛けられ、はっと現実に帰った。
ー今のは、何だったんだ。知った顔が多くいたが、変な夢を見たものだ。ー
慶喜は吉宗の廟から、同じく簡素な家治の廟へ向かい、同じように手を合わせた。
「待って、飲まないで!」
家基はそう叫ぶと、手に持ったコップを取り落とし、昏倒した。
慌てて豊千代が吐き出し、コップに注いだばかりの家治はそれを投げ捨てた。
「家基!!!」
「上様、どうしました?」
慶喜は今見た情景に思わず、息をのんだ。
「こ、これは……。」
慶喜には今見た人物が何者であるか理解できた。毒らしきものを飲んだのが徳川家基、そして吐き出したのが徳川家斉、そして投げ捨てたのが徳川家治。家治は史実を伝えようとしたのだろうか……。
第10章の世界の続きですね。




