徳川慶喜1
おじいさんのありがた~い おはなし。
徳川慶喜は、御三家の一つ水戸藩主徳川斉昭の七男として誕生した。
家康は水戸藩に特殊な役割を与えていた。副将軍と朝廷との交渉役である。
日本の歴史を考えた時、朝廷との関係を良好に保つべき必要がある。しかし、尊重しすぎると幕府の政治に「帝のご意思」を盾に公家が口を出してくるようになる。そこで、幕府としては「禁中並公家諸法度」を出し、厳しく統制監視する一方、副将軍の水戸には、勤王を勧めたのであった。
この傾向を強めたのが水戸光圀であった。「大日本史」という歴史書の編纂を通じて、各天皇の陵墓を確定し、整備するなど朝廷を尊重する事業を行い、水戸学と呼ばれる勤王の学問を起こしていた。その徳川光圀以来「朝廷と幕府にもし争いが起きた場合、幕府に背いても朝廷に弓を引いてはならない」という家訓の下、慶喜は育った。
光圀の遺訓のもと、慶喜は生後7か月で江戸屋敷から水戸に移され、父斉昭が開学した藩校弘道館で学問と武術を学んだ。弘道館の初代教授頭取である会沢正志斎は慶喜の才覚が非凡なものであることを見抜き、父斉昭も他家に養子に出さずに手元で育てようと考えていた。しかし、水戸の英才の評判は幕府にも伝わり、後継に不安のある十二代将軍徳川家慶は、慶喜を一橋治済の血統が途切れた一橋家の世継として指名した。この時代、御三卿である一橋家の当主となるということは、将軍候補となることを意味していた。家慶は自らの27人の子のうち唯一成人した家定も病弱の上障害持ちで将軍として後継にするには不安があったのである。家慶は何度も一橋屋敷を訪問し、慶喜を後継に指名しようと画策した。しかし、老中安倍正弘の反対で直子の家定が後継となったのであった。
黒船来航後、老中安倍正弘は広く諸侯、旗本、庶民の有識者に意見を求めた。将軍家慶が亡くなり、病弱の家定が将軍になると、その継嗣問題も起こり、旧来の幕府組織では対応のしようがなくなったのである。玄関先で銃を片手に友好を求めるアメリカの態度は、その現場を知らない者達には幕府の弱腰ぶりが批判され、現場を目にした者達はその圧倒的な戦力差に屈辱感を感じていた。
海防参与として招聘された水戸斉昭もその戦力差に屈辱感を感じた者の一人であった。
斉昭は、大砲74門を鋳造し幕府に献上し、更に大型船の建造を始めた。その上でペリー暗殺を含む強硬な攘夷論を提言した。もちろん斉昭自身は、西洋の文物との差や、海外の情勢から開国もやむなしと考えていたが、尊王水戸学の総本山、水戸藩主として攘夷論に立つしかなかったのである。
現場を知らない朝廷にもたらされたのは幕府の弱腰ぶりであった。武権を預かる幕府の弱腰外交は公家に幕府の政治に口を出すきっかけをあたえた。家康が避けたかった「帝の御意思」を振りかざされることになったのである。
更にこれまで幕府を弱体化させてきた「朱子学」もここで悪い影響をもたらした。「華夷秩序」である。夷狄は実力で排除するべきである。帝の御意志である。
そう、「尊王攘夷」の思想が水戸を起点に広がっていったのである。
ここで問題となるのは「開国」か「鎖国継続」かであるはずだが、アメリカの砲艦外交は、「開国」か「攘夷」かという対立軸を作ってしまったのである。
尊王の総本山を自負する水戸藩としては、「帝のご意思に反する」開国を認めるわけにはいかなくなった。
更に将軍継嗣問題が話を複雑にする。老中安倍正弘が諸侯に意見を求めたことで、幕政から遠ざけられていた親藩である斉昭、福井松平春嶽、尾張徳川慶勝だけでなく、薩摩島津斉彬、宇和島伊達宗城、土佐山内容堂らが賢明な慶喜を次期将軍にと運動を始め、旧来の譜代大名を中心とした幕閣と対立を深めていた。
慶喜本人は将軍継嗣となることには乗り気ではなかった。賢明な慶喜は一橋家に入って以来、一橋治済以来の治済の血脈が成人まで育たない、一橋家自体が4代斉礼以降直系が途切れ、8代まで治済の孫、曾孫が養子に入り全てが早逝していることを知った。将軍家も治済の子家斉、その子家慶で今にも亡くなりそうな家定でその血脈が切れてしまう。
自分の対抗馬として担がれている幼い慶福は治済の曾孫、家斉の孫である。どうも徳川はその歴史的役目を終わろうとしているのかもしれない。自分が再興するか、終わらせるかどちらになるかの命運を背負わせられることになることが容易に予想されたのである。
慶喜は父に「骨が折れるので将軍に成って失敗するより最初から将軍に成らない方が大いに良い」という主旨の手紙を送っている。
それから年月が経ち、慶喜は将軍になることになったのである。
もちろん、家茂が亡くなった後、徳川の命脈は尽きたのだという感覚はあった。そして、自分も尊王水戸藩の出身で、もちろん尊王である。開国して海外の文物を取り入れることにも賛成だ。しかし、徳川家の宗主という立場と一橋慶喜という個人は明らかに矛盾していた。薩摩も長州も一橋慶喜個人ではなく、徳川将軍としての立場、極端な話、徳川将軍の首が取れればいいのである。つまり、徳川幕府の象徴としての将軍であれば誰でもいいのである。その火中の栗を誰が拾うのか。愚昧な将軍が将軍位を継ぐことになったら、この国は長い内戦となり、諸外国の干渉を受けることになる。
そう、慶喜は徳川幕府を終わらせるために将軍となったのであった。
「わしゃ、将軍様と直接話してみたかったんじゃ。」
「そうか『大阪城無血開城』は起こらんかったんじゃな。」
光圀は「大日本史ー幕末維新編」を見ている。
「それ龍馬さんの見せどころだったのに……。」
ムーンはマンガ偉人伝「坂本龍馬」を読んでいる。
薩摩は自ら担いだ慶喜を攻めたんだな。




