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大阪移徙

まだ史実準拠です。

徳川慶喜は朝廷での官位は内大臣である。その官位を返上するというのが「辞官」であり、徳川幕府の領地400万石を朝廷(制度上は公地公民)にお返しするが「納地」である。


 山内容堂の主張は簡単に言えば、約260年の長きにわたる天下泰平を開いた徳川氏の功績があるのに、排斥することは道理に合わない、慶喜公もこの場の朝議に招くべきであっる。一部の悪意ある公家(そして薩摩)は、幼い天皇をかかえ、この国の権勢を盗もうとしているのではないかということであった。これに対して岩倉卿(+薩摩の大久保)は、幕府が「辞官納地」に応じて誠意を見せた上でないと、信頼できない。ということであった。


新政府は作ったもののその経済基盤はなく、政権を維持していくためにも財政的な基盤が必要であった。慶喜は朝廷の経費は各藩が一定の割合で献上させることを考えていた。

 実際、幕府の石高は400万石であったが、実際の収入は200万石程度であり、200万石の献納を行えば、幕臣旗本の俸給も領地の運営もできなくなってしまうと慶喜は再考を求めたが、実際、朝廷にも幕府にも資金の問題があったのだ。


 12月10日に松平春嶽、徳川慶勝から朝廷の意向が伝えられると、その内容は伏見城内に籠る会津、桑名兵らに伝わり、謀略を巡らす薩摩と一戦を交えるべきであるとの議論が起こり、翌11日には、御所を警護する薩摩藩と、二条城を警護する会津、桑名藩は一触即発の状態になっていた。しかし、慶喜は御所を警護する薩摩軍との戦闘は「朝敵」とされてしまうため、軽挙妄動を静止した。そして使者としてやってきた松平春嶽に「朝敵の名を負って祖先を辱めるのは忍びえぬ。一旦大阪城に向かい、幕府軍を鎮撫する」旨を伝えた。春嶽は慶勝と相談し、「慶喜が大阪に移徙した後、衆心が落ち着いてから、再度上京し「辞官納地」を受ける。」という提案を翌12日慶喜に言上した。


 徳川慶喜は、勤王藩である水戸藩の出身である。

 将軍家の継承については、大きな謎がある。八代徳川吉宗が紀州から将軍に就いたあと、その長男家重、家重の子家治、そしてその子家基と継承していく将軍位が、家基の不審死で、一橋治済の子、家斉が将軍後継となり、その4年後将軍家治が、毒殺と思えるような不審死の後、徳川家斉が15歳で第11代将軍となり、一橋治済がその後見役として実権を握った。その後、家斉の子家慶、その子家定、そして治済の孫家茂と続いていた。つまり、11代以降一橋治済の血統に支配されていたのである。


 しかもその血脈に問題があったのであろうか。治済は13人の子の中で家斉以外に、一橋家を継いだ斉敦、田安家を継いだ斉匡が出たが、子作り将軍家斉の53人の子女のうち無事成人したのが28人、田安家を継いだ斉匡が29人の子女のうち無事成人したのが13人、そして家慶に至っては27人の子女中、無事成人したのは将軍となった虚弱な家定一人で、その家定は一人の子も持たず、家茂も20歳で亡くなっている。家康の御三家の制度も、吉宗の御三卿の制度も結局役に立たなかったのである。その一番の原因は水戸藩以外の御三家、御三卿を治済、家斉の血脈で独占したことではなかったのだろうか。その点、水戸藩は養子によって乗っ取られることはなかった。なぜなら、水戸藩主は永遠に副将軍であった。将軍位を継ぐのは紀伊、尾張、そして吉宗が定めた一橋、田安、清水の御三卿であって、水戸藩に養子による乗っ取りは行われなかったのである。

 そのようなわけで、慶喜には治済、家斉系の血は入っていなかったのである。そして慶喜の父、名君水戸斉昭の厳しい教育と、水戸学の影響化に育った慶喜にとって、勤王は常識であった。そして、朝敵とされることの意味をよくわかっていた。


 徳川慶喜にとって朝敵とされることだけは避けなければならなかった。

 いつ暴発するかわからない会津、桑名の兵もこのまま京に残していては、薩摩との間に争いが起こる。慶喜は会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬に同行を求め、会津、桑名藩の主力を引き連れ、12日の夕刻に大阪城に向かった。




 三岡八郎に今すぐ朝廷に出仕せよという命令が届いたのは、12月10日の朝であった。

 早速、出立しようと支度をして部屋を出ようと扉に手をかけた時であった。


「待って、今出ちゃダメよ。」

「ん、何だお前は、急いでいるんだって……。」

 扉に矢が突き立っていた。

「私は葛葉、あなた狙われているわよ。」

「監視している奴がいたんだ。」

そのとき、扉が急に開いた。そこには片目眼帯の男が立っていた。思わず三岡は腰の刀に手を当てたが、男は三岡の手を掴んで、にこりと笑った。

「大丈夫、その人は味方よ。」

「外の奴らはとりあえず倒した。」

「こ、殺したのか?」

「いや、気絶させて、木に縛っておいた。」

 三岡が見に行くと、佐幕派で知られている藩士の手のものであった。

「もしかして、これが原因なのか?」

「どうしたの?」

「いや春嶽公の手紙に何度も呼んでいるのに何をやっているんだって書いてあったんだ。」

「ま、ここで外部と通信できないようにしてたんだろうな。」

「じゃあ、この春嶽公からの書状は?」

「俺が運んだよ。」

「途中で野盗に襲われていたのを助けたの。」

「まあ、あれは野盗に扮した武士だな。」

「さ、京まで行きましょ。」

 三岡八郎は、見知らぬ二人を警護役に京へ向かうことになった。

片目眼帯の男、今回は名乗りませんw

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