慶応3年11月15日ー16日未明
なるべく史実準拠で話は進みます。
襲撃者は暗殺の成功を確信して出て行った。
「中岡、手は利くか、わしはだめじゃ、脳がやられちょる」
龍馬の意識は遠くなっていく……。
「……ちいと困ったのう。今、死ぬわけにはいかんぜよ……」
慶応3年11月15日(1867年12月10日)午後八時頃
龍馬は河原町蛸薬師の醤油商近江屋の二階にいた。
中岡と話すことはたくさんあった。
慶応3年10月14日(1867年11月9日)、大政奉還はなったが、武力倒幕を叫ぶ薩長の過激派、幕府がなくなったことに納得いかない幕臣たち、「薩土密約」に基づき続々と上京してくる土佐藩士たち、徳川家の影響力を維持したい将軍慶喜と側近達。
倒幕はなったが、徳川家とその領地、政治体制はそのままという新政権へのプランもない状況で、京は幕府側、薩長、上京しつつある土佐主戦派、京都守護職下にある新撰組、見廻組ら諸隊、武力倒幕に暗躍する勤王浪士と混沌を極めていた。
龍馬は新たな政体のグランドプランがない薩長に「『新政府綱領八義』」を示し、新政権の経済安定に三岡八郎(由利公正)を福井からスカウトしたばかりであった。
幕府、薩長双方の情報を得ることが出来る龍馬からすると、蝦夷地を担保にフランスのナポレオン三世からの軍事援助を得つつある幕府と、イギリスと緊密になっていく薩長との内戦となると、戦いは長期化する。そして長引くほど国力は低下し、国土は荒廃する。 それは龍馬が知る植民地化された国々がたどった道であった。
だからこそ軍事的衝突を避け、挙国一致の体制で、早期に列強に対抗できる政権を作る必要があった。そのための大政奉還、国内で争っている場合ではない。
あくまでも武力倒幕にこだわるに薩長の独走を押さえるため、龍馬が運んだ最新鋭のライフル銃1000丁を備えた乾退助率いる土佐勤王党の同志たちを上京させ、「御親兵」として新政府軍に組み込む必要があった。
そしてその土佐藩兵を武力倒幕の戦力にして、土佐藩の発言力を付けたい「薩長土」の枠組みにこだわる中岡の説得。中岡は放っておくと陸援隊士を率いて、やっと納得させた乾らまで率いて幕府軍に突撃する可能性もあった。
そのほかにも長崎での海援隊士の問題や、まだくすぶる紀州藩との海難問題。細かいことまで含めると、どれだけ時間があっても足りなかった。
なのに……。
死ぬわけにはいかんぜよ……。
隔日更新予定です。
前章までの世界線と少しずれた展開となります。