往来の視線
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おやおや、あれ分譲マンションの看板ですよね?
立て看板じゃなく、人が持っているあたり、最近に開始されたものでしょうか?
小さいころは、あの看板を持っている係のバイト、ぼんやりとあこがれたものですよ。ただその場で何時間も過ごしてお金がもらえるなんて、楽なんじゃないかと。
しかし、学生になってからは好きなことじゃないと、長続きしないなとも感じるようになりました。好きで仕事やっているならいいですけれど、お金欲しさだけで、あんな辛い時間を過ごすことは……ちょっとしんどいかもですね。
私の近所に住んでいたお兄さんも、好きではないにせよやっている仕事があったみたいで。私もちょっとそれにまつわる話があるんです。
先輩も耳に入れてみませんか?
バイトをするとしたら、先輩は家の近くと遠く、どちらを選びますか?
私は断然、遠くがいいですね。見知った顔に出会いたくないですし。仕事先で友達に会って、「へえ、ここでバイトしてるんだ」みたいに知られたくないんです。
裏でその子が、どこでどうつながっているか、わかりませんしね。うっかり、仲悪い子の耳へ入ったときには、何をされることやら。
だったら隣の町なり市なりで、仕事は仕事できっちりスイッチできる場所がいいですね。
その私がわけあって、隣町まで自転車で用足しに出かけた帰りのこと。
家までの帰り道で、とある車屋さんの前を通る必要がありました。中古の車を専門で売っていて、未舗装の地面に値札付きの車が数台並んでいます。事務所らしき建物が併設されていなかったら、駐車場と大差ない見た目だったでしょうね。
その駐車場の入り口わきに、帽子を被ったお猿さんのオブジェがあるんです。
入り口を示す立て看板に腕を乗せる格好で寄りかかり、お客さんを誘う体勢。少し看板が歩道へはみ出だし気味なのと、曲がり角にお店があるせいで、慣れていないうちには驚いてしまうんですよね。
さすがに何度か驚かされた私は、わずかに外側へ膨らみながら、店の前を通過しようとします。
しかし、その直前。
カタカタとお猿さんが震えたんです。「地震かな」と、思わず私は自転車を止め、その場に足をついてしまいました。
地面からの震えは、少し待ってもありません。
横に走る車道は、ちょうど車通りがはけてしまい、遠くでわずかにタイヤとエンジンの音がするばかり。
なんら、揺れる要素がないはずのこの空間。なおも揺れるお猿さんと、目を見張る私。
かぽりと、その頭が取れたかと思うと、件のお兄さんが顔をのぞかせたんです。
これまでてっきり、オブジェの一種だと思い続けていた私には、ちょっとしたショッキングでしたね。
お兄さんはというと、「よっ」と声を出すや、もぞもぞと肩のあたりを動かし、比較的余裕のある首周りの穴から、腕を出します。看板に寄りかかっている腕の体勢ですから、こうして出すよりないのでしょう。
手に握るのはドリンクゼリー。どうやら、あの腕の部分にはいくらか余裕があるらしく、指の先っぽに置きっぱなしにしているとのことでした。
少し自主休憩というお兄さん。知りあいの私が通りがかったのを幸いに、ちょっと頭部分だけ脱いだようです。
その時は仕事の邪魔も悪いと思い、せいぜい数分程度のあいさつとおしゃべりでしたが、後で聞いたところによると、あそこのバイトはなかなか割がいいのだと話してくれました。
いつか、道路わきにパイプ椅子を置き、通りがかる車のカウントをしている人を思い出しました。実はお兄さんのしているバイトもそれに似たようなものなのですが、数を数える必要はなく、ひたすら車の行き来を目で追ってほしい、とのことでした。
「途中のトイレ休憩で、ちょろっと抜け出すのは認められている。
けれど、あの着ぐるみの中でどう計測しているのか、きちんと目で追えているのかを数えているみたいでさ。車通りが多くても、しっかり目を動かしていないと減給されるんだ。
なんともおかしな話だよな」
お兄さんはそれから一週間ほどバイトをしたそうなんです。
それから時は移り、私も通う学校の関係で、毎日のように件の車屋さんの前を通ることになりました。
その日は文化祭帰り。友達との打ち上げもあって、すっかり遅い時間になってしまいました。明かりをつけて、ひとり自転車を漕いでいく私の前に、あのお猿さんが姿を見せます。
昼間に比べるとまばらですが、いまは車通りはそこそこ。車たちの行きかうヘッドライトにテールランプたちが、何度も何度もお猿さんの動かぬ瞳を彩り……。
いえ、違いました。
てっきりレンズをはめ込まれ、それに光が反射しているように見えたお猿さんのまなこ。
そこにはいずれのランプとも違う、青色の灯がともっていたんです。それが、車が右へ左へ通り過ぎるたび、それを追って左右へ幾度も動いていました。
――はは、どうせお兄さんのバイトみたいに、中の人が動かしているんでしょう?
その私の考えを嘲るように、一台の車が通り過ぎるとともに、お猿さんが前のめりに倒れたんです。
かの車は、エンジンをいじっているのか、他の車よりも速く、そして大きく音を響かせ、店の前を通過していったんです。私さえ風を感じるほどに。
そして倒れ込んだお猿さんの首が、ぽろりと取れました。
中には誰もいません。何度か歩道で跳ねた首ですが、やがてあの車の通り過ぎていった方へ、風もないのにひとりでに転がっていってしまったんです。
それこそ、あの車に追い付きそうなほど、猛然としたスピードで。
その日を境に、あのお店でお猿さんが立つことはなくなり、シンプルな立て看板だけになったんですよ。