2話「息抜きに渡した風俗誌」
〜以下回想-(約一ヶ月前、深澤西洋剣術道場にて)〜
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「そう言えば、君は最近、セキマツと会ったか?」
出された茶を啜る傍で吐かれたキシザワの言葉に、
鬱蒼とした気分を思い出しては無性に唾を吐きたくなる。
「さぁな。どうだろう?会ったかもな」
「君は、昔から分かりやすく嘘をつくが
ワザとやっているのか?」
「‥ちょっとした悪ノリだろ?相変わらず真面目だなキシザワは」
「フフ‥‥キシザワか。やはり懐かしいあだ名だ。
唐突に会いに来てどうしたかと思ったが、
思い出話でもしに来たのかい?ガリタケ」
そう言って意地の悪そうに行った後に
キシザワは口元を隠し、線の細い顔で上品に笑い始める。
こうして見ると、年相応にくたびれた俺と比べて
相変わらず年齢を感じさせない端正な顔をしている。
武術を会得した恩恵なのか、40歳手前にして
視線が固まるほどに魅力的なプロポーション。
その色気にふと初恋の相手が
キシザワだった事を思い出して
少し悔しい気持ちになる。
「それで‥‥なんでまたセキマツの事を?」
「うん。人づてにちょっと色々良くない噂を聞いてね。
少し気になっていたんだが‥‥この間、突然に私を訪ねて来たんだよ。
色々と取り留めもない話をして帰って行ったんだが‥どうにも引っかかってね。
君が最後に会った時、彼はどうだった?」
「セキマツの様子か‥」
変も何も、いつものセキマツからして語れるほどよく知らない。
あの日は、お互い酔いの回った状況での会話だったから
胸を張って言える事じゃないが、特筆しておかしな部分は無いように思えた。
キシザワに言うのは憚られる事だが
特別印象に残っているのは、あのしみったれた人生への
息抜きにと渡した風俗誌の事ぐらいだ。
「酒の席でばったり会っただけさ。
あいつも俺も酔っていたけど、別段変と言う事はなかったな。
それで‥‥その「良く無い噂」っていうのはなんだ?あいつの母親のことか?」
「うーん。その‥あまり声に出して言いたく無い事なんだが‥
その‥‥ちょっと耳を貸して」
「?」
あの整った顔が、耳元に近づき
艶やかな長い黒髪から甘い香りが漂う。
「あの‥‥エ‥エッチな女の人が出入りしてるみたいなんだ」
「‥‥はぁ?」
「べ‥別に私が見たわけじゃないからね‥‥
言い回しも噂そのままで‥‥」
「なんだそのエッチな女って‥‥
ルパン三世の不二子ちゃんみたいな?」
「茶化すなよ‥わかるだろう?
所謂、夜の仕事を生業にしている女性の事さ」
「まぁ‥‥そういう事だろうな
お前はどこでそんな話を仕入れてくるんだ?」
「仕入れてくるとは言い方が悪いな?
月に一回の早朝清掃で噂になっていたのさ。
他にも最近羽振りが良くなったとか、女性物のアクセサリーを購入していたとか‥‥
こういう他人のプライベートを覗き見る様な風習は好ましく思わないが
同級生のよしみというか‥‥単純に心配なんだ」
「良いんじゃないか?それこそ、あいつがそれで満足しているんなら
他人がとやかくいう事じゃ無いだろう?」
「君は、セキマツのお母様と面識は?」
「いや無い。あいつの口から聞いて、病気を患っていて
入院費用が馬鹿にかかるって事だけは知ってる」
「私は、何度か郷土料理会で会った事があるが、
彼女が患っているのは、相当な難病だよ。
医療費だけでも相当な額になるはずだ。
そんな生活を強いられているセキマツに、金銭の余裕があるとは思えない
何か引き返せない様な事に巻き込まれてい無ければ良いのだが」
その話を聞いて、俺の脳内で短絡的なストーリーが構成される。
ガス抜きの為に俺が渡した風俗店への切符を持ったセキマツが
市街地の風俗街に消え、一夜の営みで出会った女に
極限のフラストレーションを解放され、女につけ込まれ
依存的に行為を求め始め、趣向品の我慢から、生活費の削減に至り
遂には手を付けてはいけない資金に手を付けてまで
女との関係を維持しようとし‥‥最後には破綻してしまう。
現代悲劇のよくあるパターンだ。
わずかな罪悪感が、背中にこびり付いたが
この歳になるまでに理論癖のついた思考が、それを払拭してくれた。
「なぁ深澤師範さんよ、その清廉な考えには脱帽するし
俺も家庭の事情については気の毒だと思う。
でもな、今のあの状況を招いたのはあいつ自身の弱さが原因だ。
真っ当に生きてりゃ、そんなどうしようもない騙され方はしない。
もしも、本当に騙されちまってるんなら、問題は状況じゃ無くて
セキマツ自身の性格の方だ」
俺は、自分自身の罪悪感に言い訳をしながらも
きちんとロジックのある言葉でキシザワを諭す。
「また随分と堂々と正論を突きつけるのだな?沢添先生様は」
キシザワは、少し含みのある嫌味な言い回しで返してくる。
どうやら俺のロジカルな言葉が負に落ちない様だ。
「そりゃ堂々としているさ。正しいことを言っているんだからな」
「なるほど、つまり君は正論を言っている自分は正しいと
そう言いたいわけだね?」
「まぁ‥そうだな」
「私はそうは思わない。別に君自身の倫理観に対してケチをつける気は無いが
正論が正しいという考え方には賛同できないよ。
多様に変化する人間間の営みに置いて、必ずしも正しいものなどあるだろうか?
正論も所詮は、答案へのアプローチのひとつに過ぎないと思う」
「別に意見の賛同が欲しいわけじゃない。
要は、他人が手出ししても根本的な部分は解決しないと言いたいんだ
それともキシザワが面倒を見てやるか?」
「なぁ、沢添。そう形式張って責任の在処を探るのは、昔から君の悪い癖だよ
世間が定義した価値観の外にこそ大事なものがあると思うね、私は。
君がここに来たのも、そういう体制に嫌気がさしたからじゃ無いのか?」
この平行線で交わらない感覚で思い出した。
キシザワのこういう感覚的でロジックのない物の考え方が理解できず
俺の初恋は破れたのだ。
全く根拠を見付けられないのに説得力のある彼女の倫理観に
俺は憧れ、好意を抱き‥‥そして恐れて逃げ出した。
「‥‥すまない。少し言い過ぎだな私は‥‥
こういう話をする為に来たんじゃ無いだろうに。
これは私の悪い癖だ。君も大変だったんだろう?
生徒さん、早く見つかると良いな」
「俺も‥歳を食ってもそうやって素直に謝れる大人になりたかったよ」
道場の庭で枯葉をひらつかせる桜の木を見れば、
青春という言葉が追憶の彼方にあるものだと知る。
結局、俺もキシザワもそれ以上セキマツの話をする事はなく
取り留めもない話をダラダラと続けた後、俺は帰路に着いた。
この日から数週間後になる翌年の1月中旬に、
キシザワからセキマツの母親が亡くなったと知らされた。