1話「カンチョー山に行ってみるよ」
木枯らしが薄窓を揺らす秋の夕暮れ時、
くたびれた和室で年季の入った畳を踏みしめながら
俺は、部屋中に散乱した幼女向けの下着を見ていた。
「お前‥‥ここまで追い詰められてたんだな‥‥セキマツ」
視界には、同じく子供向けの衣類の他に、
ちゃぶ台には食べかけの駄菓子や、
まだたっぷりと中身の残ったウィスキーの瓶が映る。
「‥‥」
あまりに救いのない光景に、放心していたが
叩き付けられるように地面に放られた預金通帳を見つけので
それを拾い上げ内容をパラパラとめくる。
「‥‥?」
通帳の残高には、奴の人生の略図の様に、しけた数列がしばらく続いたが
ある日を境に、見たことも無いような異様な数字に跳ね上がり数週間後に完全に消えていた。
衣類の下敷きになった雑誌から
際どい衣装の女がこちらを見ている。
「これは‥‥‥俺の‥せいなのか‥セキマツ」
〜以下回想-(二ヶ月以上前、居酒屋「砂かけ婆」にて)〜
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「‥‥ガリタケ?」
そう呼ばれて、反射的に振り向いた先に居たのは、
油の染み付いた汚らしい格好の小太り。
血液がせっせとアルコールを脳に運搬しているからなのか
その男が誰なのか思い出せない。
だが、こいつが俺の知り合いなのは間違いがない。
こいつは俺のことを「ガリタケ」と呼んだ。
「‥‥‥よぉ‥‥久しぶり」
黙ったまま目を細める俺に、男はたじろいだが
右手にビール、左手に湯豆腐を持ち席を離れ
整えられていない、不清潔なあご髭を
肩でかきながら横の席に座ってきた。
その仕草でようやく記憶の引き出しが開く。
「お前‥セキマツか?」
「酷いなぁ‥俺はガリタケってすぐわかったのに」
「少し酔ってるんだ。悪いな」
「初めて見たけど、ここよく来るの?俺は常連」
「俺は‥ほら、職業柄あんまり‥‥」
「?‥‥あぁ‥ガリタケって教師だっけ?」
「まぁ‥今は‥‥まだな」
「ふーん‥そうだ!ガリタケさ、ピエロの話聞いた?
何時間か前に3メートルはありそうなノッポのピエロが和田区の商店街で事故起こしたって」
「いや‥知らないな‥なんでまたピエロ?」
「知らない。森上サーカスでも来てるんじゃない?
すぐに逃げたらしいけど問題になるんじゃないかな〜」
心底どうでもいい。
泥酔した俺の様子を見て、そんな空気の読めない事しか言えないコイツの
この無思慮な性格に、学生時代は酷くイラついた事を思い出した。
「そうだ‥‥お前‥」
学生時代というキーワードから、再び脳内のセキマツフォルダーが開き
今の状況に関する情報と捏ね合わせ希望的な発想に行き着いた俺は、
この抜けた醜男にダメ元で話を持ちかけようと試みる。
「どうした?」
「この話は、内密にして欲しいんだが大丈夫か?」
「お‥おう、どしたの?」
「大分郷で女子高生が他殺されたニュースあるだろ?」
「あー‥身元がわからないくらい酷い有様だったらしいね」
「あんな事件があったから、うちの小学校でも一斉下校があったんだが‥‥
うちの生徒が1人、行方不明なんだ」
「嘘!じゃあ、あの事件の犯人がこの町に!?」
「いや‥流石にそれは無いと思うが‥‥その子供、俺のクラスの生徒なんだよ」
「あ〜‥‥なるほど‥‥それでさっき「今はまだ」って言ったのね
災難だな〜ガリタケ」
こういう、たまに耳ざとい所もイラつく。
「それでな‥その子供、前から神登山に出入りしてるんだが
お前、あの山詳しかっただろ?」
「しんとうざん?ああ‥カンチョー山の事か!!‥そうだなぁ、昔はよく登ったな〜」
「‥‥40手前の大人が、そんな破廉恥な名前使うなよ」
「カンチョー山はカンチョー山だろ?それで、その子供の話は?その子って男の子?」
「ああ、男子だよ。それで‥俺の考えでは、その子供、家出の類いだと思うんだ
前々から、家庭環境のことでキシザワから相談を受けてたからピンと来てる」
「ふーん。キシザワん所の道場の子なのか‥‥」
「厳密には元らしいけどな。警察は隣町の繁華街やら公園なんかを当たっているけど
正直俺は、あいつは山の中に籠っているんじゃ無いかと思う。」
「うーん。夜中は冷えるよ?流石に子供1人では無理でしょ?」
「‥‥最近の教育現場はな、父兄の意見を慮る様な動きを求められている
そのうち立場が逆転しそうな勢いだ。そんな中、学校の判断で一斉下校させたにも関わらず
子供が行方不明になってみろ、担任の俺はどんなレッテルを貼られるか解ったもんじゃ無い
製錬所務めのお前じゃわからないか?」
「そんな言い方するなよ‥俺だって毎日キツイよ」
「‥すまん。少し苛立ってたよ」
セキマツは、何か思う所があるのか
目の前の霧を払う様に、ため息を吐き出しては
右手のビールをゴクゴクと飲み干した。
「俺、今日交代明け。明日は非番なんだ
いいよ。カンチョー山に行ってみるよ」
「え?」
「そういう話でしょ?つまり俺に言いたいのはさ」
「あ‥ああ。まぁ‥でもいいのか?」
「‥ここは狭い町だ。噂なんか立てられると困るもんな。
それに、安心して叩ける人間をみんないつも求めてる」
「‥‥悪いな」
「ここの飲み代で貸し借りなしな〜」
「ははっ‥そりゃそうなるよな」
まるで学生時代に戻った様なやり取りに心が救われる。
それから、セキマツは、鬱憤が溜まっていたのか堤防を崩した様に長く語った。
父親が他界してから、母親が弱り十年以上入院していて
ほぼその入院費を稼いでいる状態のこと。
異性との接点がなく、家庭を持つ事が難しいこと。
職場では年功序列の恩恵から溢れ、今で程の良い小間使いの様な扱いを受けていること。
それらの愚痴を聞く中で、俺は思う。
正直、セキマツは昔と比べてみる影も無い。
小中学生の頃、セキマツはムードメーカーで
俺たちのグループでは、一番にバカをやる奴で
いつもみんなを笑わせていた。
こいつが落ちこぼれたのは、多分高校の時。
父親の言葉を鵜呑みに専門科目を履修する為、1人工業高校に入ったセキマツは
都会の学校になじめず、高校を中退、それからずっと地元の製錬所で働いている。
皆が大学を出て、就職し、役職に就き、各々家庭を持つ中で
1人取り残された様に生きているこいつの事を、俺は侮蔑している。
つまらない壁に躓き、それを超えられないまま生きてきたこいつを
人生の落後者として見下し気にも留めない。
俺がこの店に普段出入りしないのは、職業柄と言ったが
本心じゃない、本当は年相応じゃ無いからだ。
いつもは、身なりを整え、市街地のそれなりのバーに行き
色のある夜を味わう。
小汚い作業着で、1人で恥じらいもなく
安酒をかき込んでいる奴には無縁な世界だろう。
教育において、こういった考え方こそ侮蔑すべきであると説いてる身だが、
これは事実に対する評価だ。
だが、今日、ここでこいつに会った事には二つ程感謝したい。
一つは、俺の窮地を脱するきっかけを手にした事。
もう一つは、失墜が何を意味するか勉強できた事。
決してこうはなりたく無いと、強く思う良い機会
君は素晴らしい反面教師だ。
見習いたいとは思わないが‥‥
だが、居酒屋の帰り道、途中で別れ
街灯も疎らな、暗い帰路に着こうとするセキマツの寂しい背中に対し
どうしようもない悲愴感を覚えた俺は、カバンの中にある、とある物を思い出す。
「セキマツ、これ持ってけ」
「ん?なにこれ?エロ本?」
「風俗誌だ。これの付箋の所の店だが、知り合いの店舗で
VIP会員扱いの無料券を持ってる。同じ場所に挟んでいるから行ってこい」
「え?‥いや‥‥俺はいいよ‥こういうの怖いし」
「馬鹿!これで自信をつけろって言ってるんだよ!
そうやって殻に閉じ篭ってるからいつまでたっても‥‥」
つい、本心を口走りそうになってしまい、
黙ってセキマツの手にそれを握らせてから背を向けた。
「例の件、良い知らせを待ってる。
第三日比ノ小の沢添で呼び出してくれ」
「‥解ったよ。ガリタケ」
「それと、そのガリタケって呼び方やめろ。
もうガキじゃ無いんだ。正直、侮辱されてる気分になる」
「あっ‥おうごめん。武則」
それから家に着き、泥の様に眠り
朝起きてから、酔っていたとは言え
なんと無意味な事をしたのかと自己嫌悪に陥った。
無論、セキマツからの連絡はなく生徒もついに見つからなかった。
教員会議で落とし所を探した結果、校長は他校へ飛ばされ、俺は学年代表を降ろされた。