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02 親バカと兄バカ




「ソフィー、お父様は今の時間って執務室にいるかしら」


 あれから一週間。お医者様からもう大丈夫でしょうという言葉をもらったあと、わたしは外出許可を求めに父であるオーギュストの執務室へと向かおうと、自室に待機していた侍女のソフィーへと声を掛けた。ソフィーは長くローランサン家に勤めている古株の侍女で、わたしが成人するまではわたし専属としての立場に就いてもらっている。


「今の時間であればオーギュスト様は執務室にいらっしゃるかと思いますが、まさかお嬢様、お外に出ようなんて考えておりませんよね?」

「……お医者様はもう大丈夫だと言っていたわ」

「そうであったとしましても。オーギュスト様はまだお屋敷の外には出さぬようにと申しておりましたよ」

「だって、暇なんだもの。家庭教師達もこちらに来るのは明後日からなんでしょう?」

「それならば、エメリーヌ様から先日お預かりしていた刺繍の続きなど如何でしょう」

「やだ」


 この国では、刺繍は女性の嗜みとして必須条件だった。贈り物としてハンカチやポケットチーフへの小物への刺繍から始まり、婚姻後は旦那となる相手のシャツやマントの家名の刺繍も女性が行うのだ。贈り物はともかく、シャツやマントなんて誰が縫っても一緒だと思ったけれど、一家を支える主人が他の縁の糸に連れていかれないよう、ひと針ひと針想いを込めて妻が縫うらしい。それは、浮気を意味するものではなく、人の魂を意味するのだとか。またここに戻ってこれるようにという願掛けのようなものらしい。ここ数十年は他領や他国との争いはないけれど、戦乱の時代は、せめて魂だけでも家族の元へ糸を辿って戻ってこれるようにと、そういった想いを込めて縫っていたらしい。刺繍なんて面倒なだけだと最初は思っていたが、その話を聞いてからは少しは真剣に取り組んでいる。おかげさまで文字を縫うのだけは大分上達したと、自分でも思っている。文字だけで、花や蝶などのモチーフはまだ上手く出来ないけれども。母親であるエメリーヌは難しいモチーフも難なくこなせることが出来るため、口には出さないがわたしはかなり尊敬している。以前にお母様凄いです、と口にした時は、貴方もこれぐらい出来なくてどうするのですかと、かなり沢山の課題を出されたので、あれから二度と言うものかと固く心に誓っている。


「文字はもう縫えるし、それ以外は今でなくてもいいと思わない?」

「わかりました。お嬢様がハンカチへの刺繍を完成させた暁には、このソフィーが必ずやオーギュスト様から外出の許可をいただいて参りましょう」


 わたしがハンカチ一枚への刺繍を完成させるとなると、そう簡単に終わらせることが出来ない。けれど、いつ貰えるか分からない外出許可を、少しの間だけ辛抱して刺繍を頑張ることが出来れば、あとはソフィーがうまいことやってくれるらしい。わたし自身で訴えに行くよりも、長くローランサン家に仕えているソフィーに動いてもらた方が、スムーズに物事が動く。それはここ最近で覚えたことだった。エメリーヌの手のひらではよくコロコロされるけれど、最近はソフィーの手のひらでもコロコロされているような気がする。わたしの天秤の傾きは一瞬だった。


「わかった。ソフィー、約束だからね」

「わたくしがお嬢様とのお約束を破ったことはございませんでしょう?」


 前回の続きです、と手渡されたハンカチはほぼ一枚の白い布だった。前回のわたし、もう少し頑張っていて欲しかったよ。机の上にはエメリーヌが作ったお手本となるハンカチが置かれているが、到底このように縫える自信はない。なにせ、前世のわたしは家庭科の被服のカテゴリーが潰滅的だったからね。苦手だったからといって、義務教育以降に家庭科にほぼ触れなかったことが潰滅的に拍車を掛けたと思っている。高校の授業はペーパーテストさえ点を取れば技術は問題なかったし、調理の方は好きだったから、そのあたりで被服関係の赤い点数をカバー出来た。けれど、今世はそんなことは言ってられない。苦手なんだといくら訴えても、逃れられるものではない。ペーパーテストなんてものはないから、カバーできるところもない。


「ところで、これは完成したらどうしたら良いと思う?」

「オーギュスト様か、エメリーヌ様に贈るのが宜しいかと。もしくは、お見舞いの便りをくださったクラウディオ殿下へのお返しになさるとか」

「手紙で御礼を伝えるつもりだったんだけど……」

「手紙だけよりも、プラスがあった方がより喜んでいただけるかと」

「どうしようかなあ」


 文字を入れることだけなら、問題ないレベルになってきたとは言え、さすがに家族以外に贈れる程の技量でモチーフは刺繍出来ない。それに王族に刺繍入りのハンカチを贈るとなれば練習作品を贈るわけにもいかず、デザインを一から見直しての取り組みが必要になる。しかし、それだけ出来る自信はわたしには一切ない。モチーフで贈れないとなるとイニシャルでの刺繍がオーソドックスになるけれど、恋人でも婚約者でもない他人である殿下に、そんな贈り物をするわけにはいかない。


「あ、クレイへ心配掛けてごめんねのハンカチってことでどうかしら!」

「そうですね、クレイなら喜んで受け取ってもらえると思いますよ」

「よし、そうと決まれば!」


 クレイはローランサン領内の上位貴族出身の騎士だ。騎士を多く排出する家出身ということもあり、まだ若手だがとても腕が立つ。わたしが彼に懐いていることもあって、ローランサン家の中ではわたしの護衛に就くことが多かった。ネモ事件の日も例外なく、わたしの側にはクレイの姿もあった。自身によく懐く子供が目の前で倒れたとなれば、ある意味トラウマものだったに違いない。記憶に残るクレイの焦った顔を思い出して、わたしはいつもありがとうの気持ちも込めて、針を刺し始めた。


 どれくらいそうしていたのだろうか。ソフィーに名を呼ばれて顔を上げれば、少しだけ窓の外が暗くなっていた。続きは明日にしましょうとハンカチと針を取り上げられる。机上のお手本に比べればわたしのステッチはガタガタとしている部分が多いが、いつもより真剣に刺した分、少しは見られるようになっている。と、思いたい。少しぐらいは。


「今日ぐらいのペースであれば、あと三日もすればクレイにお渡しできると思いますよ」

「本当? でも明後日からは先生達が来るから時間は無いと思うのだけれど」

「体調を見ながらの授業になるということでしたので、明後日からの授業はいつもの半分のお時間とのことです。ですので、空いた時間でこちらに取り掛かれるかと」

「ソフィーがそう言うのならそうなのかもね。三日で渡せるように頑張る。早ければ早いだけ、外に出れるのも早まるし!」


 今日はオーギュストの仕事が早く終わった関係で、いつもより早めの夕食となるようだった。倒れてから一週間は自室での食事だったから、家族揃っての食事は今と前の記憶が混ざってからは初めてだ。トイレと風呂以外は部屋での安静を余儀なくされていたため、食事をとるための部屋に行くのもなんだか久しぶりに感じる。記憶の中にある屋敷内の構造を思い出しながらソフィーの後をついて階段を下りていく。この屋敷はローランサン領を治めるローランサン家が居住する場所なだけあってかなり広い。一般的にローランサン城とも呼ばれており、領地を治める業務の殆どがこの城の中で執り行われているらしい。領主の居住スペースは城の奥の方になるが、ここは限られた人間しか入れないように設定魔術が幾重にも掛かっていると、いつだったか忘れたけれど、ソフィーに教えてもらったことがあった。


 いくつもの扉を通り過ぎて、漸く家族専用の食堂の間へと辿り着いた。お客様を招く時は専用の客室の間があるけれど、家族のみの場合は少し小さめな部屋にて食事をとる。失礼しますと告げて扉を開けば、エメリーヌとアルフレッドが揃っていた。一番下の弟はまだ小さいため、ここで食事を取らずに別室で乳母が食べさせている。


「リズマリア、もう大丈夫なのか?」


 いつものように自分の席へと着席すると、すぐに隣から声が掛かった。オーギュストから受け継いだ、青の澄んだ瞳が心配そうにこちらを見ている。


「ええ、もうすっかり。御心配をお掛けしてしまったようでごめんなさいアル兄様」

「熱が下がらないと聞いた時は本当にびっくりしたよ。だからあれ程落ちているものは食べるなと言っただろう」

「お兄様、ネモの実は落ちていません。生えているのです」

「どちらも一緒だ」

「いいえ、アルフレッドお兄様。生えているのです」


 少しだけ潔癖なアルフレッドは、野生のものをそのまま口に入れることを絶対にしない。必ず洗浄しないことには落ち着かないのだと言っていた。


「貴方達、そこまでにしておきなさい。オーギュストが来たわ」


 エメリーヌに止められた直後、待たせたな、という言葉と共にオーギュストが部屋へと入ってきた。


「そうか、今日からはリズマリアもこちらか。どうだ、調子はもう戻ったか?」

「はい、お父様。わたくしもうこの通り、すっかり良くなりました!」


 だから外出許可をください、という意味を込めてオーギュストを見つめるも、そうか良かったな、と笑いながらお酒の入ったグラスに口を付けるだけだった。分かっていて気付かないふりをしているオーギュストはやっぱり手強い。エメリーヌ、アルフレッドと順番に給仕が入り、わたしの前にも皿が置かれていく。ゲームの中では特に設定は描かれていなかったものの、この国は欧州に近いと思う。記憶にある限り、食卓に米類の皿が置かれたことは一度もなく、パンが殆どだった。今日も机の上にはパンが置かれている。このローランサン領では、前世でフランスパンと呼ばれていたバゲットタイプのパンが主流だ。ローランサンの名をもじって、ローランパンと呼ばれている。領地によってパンのタイプは違うらしいけれど、他領へ赴くことが殆どないわたしには、食べる機会なんて無かった。お母様がローランサン家へ嫁いできた時に連れてきた料理人が、故郷のパンですと言ってたまに作って出してくれるぐらいだ。そちらはどちらかというと食パンに似ているかもしれない。ローランパンよりも柔らかくて、わたしはそっちの方が好きだった。そういえばパンの名前は聞いたことなかったから、今度出してくれた時に聞いてみようと思う。


「リズマリア、今日は刺繍をしたとソフィーから聞いたのだけど、進められたかしら?」


 具沢山キノコのスープを飲んでいると、エメリーヌから心臓に痛い質問が飛んできた。エメリーヌはわたしの淑女計画をなんとしてでも遂行したいらしく、ことあるごとに計画を練っている。スプーンの上に乗ったキノコが、ドキッとしたわたしを見て笑っているように見えた。キノコに罪は無いけど恨めしい。後で一思いに食べてやる!


「一応、少しだけ……」

「刺繍はそう簡単に上達するものではないから、ひと針ひと針と頑張りなさいね」

「が、頑張ります」

「ところで」

「……?」

「完成したリズマリアのハンカチはクレイに渡すとソフィーから聞いたのだけど、実際のところどうなのかしら」


 先程までの優しい笑みとは打って変わり、エメリーヌの背後に黒いオーラが漂っているような、凄みのある笑みに切り替わった。隣りから、ひっ、と小さな声が聞こえてくる。美人が凄むと怖い。本当に怖い。わたし何か、間違ったことを言った!?


「えっと、その予定でしたが……ダメ、でしたか?」

「リズマリアが誰にハンカチを渡そうと、それは貴女のものなのだから、貴女の自由よ。けれど、その理由を聞いてもいいかしら」

「目の前で倒れてしまって、とても心配を掛けたからお詫びを兼ねて、お渡ししたくて。それに、護衛なのにわたしを倒れさせたと影で色々言われたらしいから、ごめんなさいも伝えたくて」


 熱から意識が戻ったあと、クレイは安心したように小さく笑ってくれた。あまり表情が表に出ない彼の焦った顔は、とても胸に痛く、そのお詫びを兼ねていつもありがとうの気持ちを伝えたかったのである。


「あの子のあんなに取り乱した姿、わたくしも初めて見たわ。リズマリア、渡す時はきちんとありがとうの言葉も伝えるのよ」

「分かりました」

「オーギュスト、貴方も何か言いたいことがあったのではなくて?」


 エメリーヌは視線ひとつでオーギュストへと話を流した。流し目が優雅で、とても美しい。私もいつか、エメリーヌのような大人の女性になりたいものである。そわそわとしていたオーギュストは、ごほんとひとつ空咳をしてからこちらに向き直った。


「リズマリア」

「はい」

「わたしはリズマリアを伸び伸びと育てたいと思っている」

「はい」

「リズマリアの意思を尊重したいとも思っている」

「はい」

「だが! イニシャルはまだ早い! 絶対に早い! それだけは絶対ダメだ!」

「はあ……」


 オーギュストの親バカは、熱で倒れる前と変わらず、今日も絶好調のようでした。ええ、知っていましたとも。いつもこの調子だし。親バカさえなければ、とても良い領主なんだけどなぁ。領民にもとても慕われているし。


「リズマリア」

「……アル兄様?」

「俺もイニシャルは反対だ!」

「あっ、ハイ」


 アルフレッドの兄バカも、今日も絶好調のようでした。


「今のハンカチが終わったら、次はお父様とアル兄様にイニシャルを入れたハンカチを贈りますね」

「リズマリア、わたくしにもよ」

「お母様……」


 嗚呼、これは暫くは森に行けないのではないか。そう感じたわたしであったが、あながちそれは間違っていないのであった。




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