01 プロローグ
週末更新です。
次回1/19内に01話更新予定です
原因が何だったかと問われるとハッキリしない。落ちているものを口にしてはいけないということは、一般常識の一つとしてきちんと把握しているが、わたしにとって森に生えている植物はそれの範囲外となる。落ちているのではなく生えているのだと兄に言えば、それは屁理屈だと叱られてしまったけれど、新しく手に取った植物の味や効能を知る知的好奇心にはいつも負けてしまう。だってどんなものなのか気になってしまうんだもの。しょうがない。気になるものを放置しては人間生きていけないじゃない? しょうがないよね。森に生息している薬草などの植物に興味を持ったのはいつの頃だったか今となってはもう覚えていないけれど、気がついたらわたしの興味対象は屋敷の中ではなく、その外にあった。レースのリボンや凝った刺繍も綺麗で好きだけれど、それよりも薬草や毒草の知識を増やすことの方が好きだった。だからあの時のことも、結局はわたし自身の知的好奇心が招いた結果だったのではないかと、今ではそう思ってはいる。
十歳になってしばらく経った頃、わたしは手に入ったばかりの薬草大全を片手に、自由時間が出来る度に護衛と共に屋敷近くの森へと赴いていた。本に載っている薬草を見付けては手に取り、匂いを嗅ぎ、味を見る。前々からおねだりしていた本を、十歳の誕生日プレゼントとしてやっと手に入れることが出来たのだ。だからこそ、わたしは少し浮かれていたのかもしれない。本の中に書いてある植物と、目の前にある植物が一致することが面白くて、ことある度に森へと遊びに行っていた。
あの事件が起きた日、その日のわたしの目当てはネモの蔓だった。ネモの葉と実は集中力を高める薬草の一種として名を馳せている。実よりも葉を煎じた方が効能は良いが、森の中では煎じることは出来ないし、そもそも煎じること自体、年齢を理由にお父様から禁止されているわたしでは到底無理な話だ。それならば、ありのままを食べるしかないじゃない、というのがわたしの理論だったけれど、野生のものを口にすること自体に護衛達は良い顔をしなかった。お兄様にも極論だと叱られるし、まあ、その気持ちも分からなくはないけれど。あの事件の日、その日もいつものように護衛の視線に知らん振りをして、わたしはネモの蔓へと手を伸ばした。大木に絡みつくネモの蔓から赤い実を一粒だけ採り、小指の爪ほどの小さなそれを口に含む。途端に、口のなかいっぱいにベリー系独特の果汁の甘酸っぱさがじゅわあっと広がっていく。予想以上の酸っぱさに目を細めながら、わたしは薬草大全のネモのページを開いた。側に控えていた護衛からペンとインク壺を受け取り、本の余白ページに見つけた場所や味などの所感を書き加えていく。こうして、わたしだけの薬草大全が出来上がるのだ。書き加えながら、何故か妙に目の端に引っ掛かった大全の一文を、わたしは視界に入れ直した。
— ネモは集中力を高めることに意識されがちだが、忘れていたことを思い出すことにも一役買う薬草である —
忘れていたことを思い出す、その一文を文字として認識した瞬間にわたしはとてつもなく大きな頭痛に襲われた。ギリギリと頭を鎖で締め付けられているような感覚で、息が出来ない。喉から声にならない声が、ひゅうひゅうと漏れ出る。何か、忘れているような、何か、思い出さなくてはいけなような、でもそれが何であるのかが分からない。ネモの実は、いったいわたしに何を思い出せというのか。自分の力では立てなくなってしまい、その場に崩れ落ちてしまいそうになるが、それを防いだのはいつも側にいる護衛だった。彼のこんな焦った顔を見たのは初めてで、痛みで朦朧としていたあの時の記憶はこの顔ばかりが記憶に残っている。割れそうになる頭を抱えながら、それが何だったのかを理解した瞬間、わたしの意識はブラックアウトした。わたしを抱きかかえる彼の焦った声が、やけに遠くに聞こえていた。
そう、そしてわたしは忘れていた、大事なことを思い出したのだ。前世の記憶というやつを。
あの時の痛みは、思い出した記憶の多さに頭が追いつかなかったからではないかと思っている。前世の記憶を思い出した原因は分からないが、切っ掛けはネモだったのだと思う。忘れていたことを思い出すことが出来るネモは、わたしの集中力を高めることによって、思い出すという行為だけに集中した。その結果が、これだったのだと思う。記憶が戻る、という表現で正しいのかは分からないけれど、記憶が増えたことによってわたしはとんでもないことまで気付いてしまった。そう、ここが前世でプレイしていた恋愛ゲームのひとつ、『マジックソードストーリー』ではないか、ということに。
『マジックソードストーリー』は恋愛ゲームとしては珍しく、ヒットした作品だったと思う。『マジスト』の名称でファンに親しまれ、キャラソンやファンディスクも追加で発売され、声優を招いたファンイベントも開催されていた。前世のわたしも友人から勧められてプレイし、ものの見事にハマったものだった。ストーリーとしてはありふれた王道もので、地方貴族出身の令嬢が王都にある学術院で勉学に励みながら同じ学院に属している攻略キャラと恋愛し、愛を育んでいく物語である。しかし、ストーリーを進めるには月に一度開催されるテストでの合格が必須となるため、簡単にはクリアが出来ないのが厄介だった。一般知識から歴史上の偉人の知識など、ありとあらゆる問題がランダムで出題されるために攻略サイトも役に立たず、一問ずつインターネットで検索するなど、かなり膨大な時間が必要となったのだ。ありがたいことに、ゲーム中のテストに時間制限は設けられていなかったから、時間を掛ければ誰でもクリア出来る仕様にはなっていたが、これではユーザーに受けられないのではないか、とも当初は言われていた。しかし、そんな初期の批評は何のその。有名なキャラクターデザイナーが参加した上に、ゲーム内スチルの数がかなり多いこと、また、女子に大人気の声優が恋愛ゲーム初進出ということが話題を呼び、また、キャラクターの個性が良いということで二次創作にも火がつき、あれよあれよという間に人気作品になっていったのだった。
もちろん、恋愛ゲームというからには一筋縄ではいかない。『マジックソードストーリー』にも他の恋愛ゲーム同様、ライバルと呼ばれるキャラクターがいた。彼女はルミナス国ローランサン領の領主令嬢で、容姿肩書共にヒロインのライバルに相応しいものだった。彼女はヒロインが選択した攻略キャラの婚約者という座に位置取り、様々な邪魔をしてくる役割だ。婚約者と親しいヒロインを妬み、憎み、自身の取り巻きを使ってヒロインを貶めようとしていく。しかし、どんなことをしてもめげないヒロインに業を煮やした彼女は、最終的に犯罪と呼ばれることにも手をつけてしまうことになる。元から信頼関係などなかった取り巻き達は、犯罪に着手する彼女を影で裏切り、遠ざかっていくことになる。そんな彼女は卒業前に断罪イベントと呼ばれるもので糾弾されることになるが、明らかになった問題の犯罪性から貴族としての地位を剥奪され、投獄されることになる。婚約者からの愛が欲しかった故に犯罪に走ってしまったライバル令嬢を見て、ゲームをプレイしていた時には哀れな人だな、とぼんやりとだけ思っていたのだが、今のわたしにはちっともそんな余裕なんてなかった。それは何故か。
ライバル令嬢の名前はリズマリア・ローランサン、それはわたしの今世での名前だったからだ。なんてことだ!
後から聞いた話だが、ネモの実を食べたわたしは三日三晩高熱に魘されていたらしい。最初は毒を疑われていたけれど、ネモの実しか口に含んでいなかったことが護衛から分かり、原因不明の熱として周りをハラハラとさせていたんだとか。しかし、目を覚ましたわたしの第一の声が「ネモって酸っぱい……」だったものだから、リズマリアは大丈夫だろうと判断されたらしい。まったく覚えていないけれど。意識を取り戻したあとは微熱が続き、一週間はほぼベッドの上での生活だった。何もやることはなかったけれど、そのおかげで頭の中を整理することが出来た。記憶が混在した当初はわたしの中にわたしが二人いるような感覚でかなり戸惑ってしまったけれど、わたしはわたしで、リズマリアだ。自分の都合の良い夢を見たのかもしれない、なんて思ったりもしたけれど、一週間もすればそうじゃないことが分かった。
わたしはリズマリア・ローランサンとしてここに生を受けたことを認識し、そして、リズマリア・ローランサンとして生きていかないといけないことを知った。たかだか十歳のわたしがここを出て、一人でやっていけるわけがないのだから。ただの同姓同名かな、なんて思ってもみたけれど、攻略キャラの一人であるこの国の王子から見舞いの便りが届いたことを知り、自身が『マジックソードストーリー』のリズマリアであることを再認識した。なんてことだ。
せっかく薬草大全を手に入れることが出来て、薬術の深淵を覗く準備が出来たというのに、このままいけばわたしは恋に狂って、薬術ではなく破滅の深淵を覗くことになってしまう。というか、恋に狂うって何。植物に狂っている自覚はほんの少しだけならあるけれど。恋のお相手よりも薬草のお相手の方が断然良い。人間関係は当たり障りのない程度に、平和に、穏便に、何事もない生活を送りたい。そして薬術人生を謳歌することに尽力したい。そのためにも、わたしは未来の婚約者様とヒロインの恋路の邪魔をせず、ひっそりこっそりと陰ながら見守っていかなくてはいけないのだ。というかその前に、今のわたしに婚約者はいないから全てが杞憂で終わることを信じているけれど!
こうして、わたしの第二の人生は幕を開けたのだった。