それ、違いますから
「ねぇ、さとー。アンタ、マスカラでも使ってんの?」
教室の扉を開けた俺に気の抜けた声をかけてきたのはクラスメイトの女子、たなかだ。
登校早々、おはようの挨拶もなくそんなことを聞いてくる。
「はぁ? 使ってるわけねーだろ」
マスカラってあれだろ、振るとシャカシャカ音の出る楽器だろ? 俺ってそんな南米的陽気キャラに見えんの?
「でも、まつげ長いじゃん」
「え? まつげ伸びる効果あんの?」
初耳だ。あの手首の動きが良いのか?
「伸びるっていうか、伸ばすっていうか」
「伸ばしたいと思ったことねーし、使わねーよ。吹奏楽部でもないしな」
「え? 別に吹部は関係なくない?」
あるだろ、楽器なんだから。
でも年末にやってるオーケストラとかで、シンバルは見てもあれは見ないな。シャカ音も聞こえないし。
確かに関係ないかもしれない。
「使ってる子もいるかもしれないけどね。私が見たことあるのはバスケ部の子」
「応援してる子?」
チアリーダー的な感じでシャカシャカやってんのか?
気ぃ散るだろ。「切り替えてこ―!(シャカシャカ」とかされたらそっち見ちゃうだろうが。
「いや、選手だけど?」
「両手ふさがるよな!?」
パス来たらどうすんだよ! マジシャンがやるみたいに空中でボールと交換すんのか? バスケじゃなくて大道芸やれよ!
「はぁ? なに言ってんの? 手に持ってるわけないじゃん。まつげに付けてんだからさ」
「まつげに!?」
どうやって!? アロンアルフア? まつげちぎれるだろ!
「落ちたりしないのか?」
「汗で落ちるよ。試合の後、目の周り真っ黒になってたし」
壊死してねぇか、それ!?
瞼ごといっちゃったよ。女バスの試合、地獄絵図じゃねーか! そのへんに落ちてねーだろうな……。学校の七不思議間違いなしだぞ。
「そこまでして……。いったい何のために……」
「目が大きく見えるんだって」
そりゃ、さぞ大きく見えるでしょうね! 瞼なくなってるからね!
対戦相手に対する威嚇なのだろうか。体張りすぎだろ。
「なんかちょっと怖いわ」
「なに? もしかして、さとーも薄い方が良い派?」
なんでこいつ、急に胸の話し始めたんだ?
「いや、普通に薄いよりは、大きい方が良いけど」
「大きいて。ふつーではないでしょ。男はみんな薄い方が良いんじゃないの?」
「どこの世界の常識だよ。そんなん特殊な性癖の奴だけだわ」
「性癖とか言うなし! え? 性癖の問題なの?」
怒ったり首を傾げたり、忙しい奴だな。
「じゃあ、アフリカの原住民みたいなのが良いわけ?」
「なにそのたとえ……」
普通、グラビアアイドルとかだろ。なに? 俺が知らないだけで原住民ってみんな巨乳なの? ……後で検索しよ。
「そのたとえは分かんねーけど、そうだな……。あぁ、小野ちゃんとか良いよな」
少し前に一世を風靡したグラドルだ。最近は女優に路線変更したらしく、以前のような露出の多い服装が少ないことが残念でならない。
「あぁ、あの人も濃いよね、化粧」
「失礼だろうが!」
「アンタが言ったんでしょ!?」
一言もそんなこと言ってねぇよ!
「あの人もマスカラ付けてるよね」
「マジで? そんなところ見たことねーけど」
確かに明るいキャラだけど、テレビでシャカシャカやってるわけねーしな。
「えー、いつも付けてるじゃん。グラビアでもテレビでも」
「いや、付けてるわけねーだろ」
少なくとも俺が本棚の裏で大切に保管している写真集にはあんな陽気な楽器は写り込んでいない。
「付けてるってば。さとーってば夢見がちだなぁ」
お前は幻覚見てんじゃねーのか?
「ああいう人に見られる職業の人は大体付けてるもんさ」
たなかは似非外国人のように、両手の平を上に向けて肩をすくめた。
「たとえば?」
「芸能人はもちろん、後は、……キャビンアテンダントは特に濃いね、マスカラ以外の色も濃いし」
以外ってなに!? 他にもまだなにか装備してんの!?
「……色ってなんか関係あんの?」
評価ポイントは良い音が出るかどうかじゃないのか?
「見え方が変わってくるんだってば。季節によって変えたりするし、流行りとかあるし」
「そうか。もうファッションの領域の話なんだな」
「最初からファッションの話しかしてないんだけど……」
俺の知らないところで色々なものが流行しているんだな。自分の知見の狭さに恥じ入らざるを得ない。
「そういうたなかは使ってないの?」
「うーん、まあ、ちょっと使ってる……」
ちょっとって何。シャカッくらい?
「内緒ね?」
「隠すようなものか?」
「見つかったら没収だよ」
まあ、授業中にサンバのリズムに乗り出す奴がいたら、困るもんな……。
「そういえばさ、カラオケにたまに置いてあるじゃんか」
「マスカラが?」
「うん」
たまにタンバリンなどと一緒に貸し出しているショップがあるのだ。心当たりがないのか、たなかは首をひねっている。
「人が歌ってる時に使ってる奴いるけどさ、ぶっちゃけ集中できねぇから止めて欲しいんだよな」
「歌ってる間!? それは気分悪いなあ。でも確かに電車の中とかでも使ってる人いるよね」
「そりゃ迷惑、……えっ?」
「車に乗りながら信号待ちの間に使ってる人もいるよね」
「!?」
「危ないよねぇ」
日常を侵食しすぎだろ……。なにが人をそこまでシャカシャカへとかきたてるんだ……。
「ていうかさとーさ、付き合う女の子選びなよ。カラオケの間にそれとか、いくらなんでもひどいよ」
「いや、使ってたのは男だっつーの」
「!?」
「なんか赤と緑の奴、使っててさ」
「マスカラの話をしてるんだよね!? ポケモンとかカップ麺とかじゃないよね!?」
「おう」
「クリス『マスカラ』ーってこと!? やかましいわ!」
「ど、どうした、たなか」
急に声を荒げたたなかから少し距離を取る。
「そもそもなんで男がマスカラ付けてんの!?」
「付けてねーよ。手に持って振ってたんだよ」
「何のために!?」
「音が出るだろうが」
「楽器として使ってたの!? おかしいでしょ、用法が」
「いや、そのために生まれた物だからね。まつげにくっつける方がおかしいからね?」
「初耳だよ!」
その時のことを振り返っていて、ふと思い出した。
「あ、そう言えばその時にノリで少しマスカラ使ったわ」
ノリって言ってもくっつけるのに使う糊じゃないぞ。
「……楽器として?」
「当たり前だろ」
「当たり前なんだ……」
「だからたなかの言っていた通り俺のまつげは長いんだろうな」
「参考までに聞いておきたいんだけど、そのカラオケ行ったのっていつ?」
「一ヶ月前だけど」
「落ちてるに決まってるでしょうが!」
「えっ? もしかして瞼落としてきた?」
「落としてこれるか、そんなもん!」
思わず目元を触った右手が、たなかのつっこみの張り手で押し込まれ、俺の眼球に突き刺さる。
「いっでえ!」
「あ、ごめん」
指先を見ると抜けたまつげがくっついていた。謝ったから許してやった。
次の日、たなかがクラス中に俺がマスカラとマラカスを勘違いしていたことを言い触らしていた。好きな女の子にもすれ違いざまに笑われた。
このままではあだ名がマスカラ男になってしまう……。
翌日、俺は世界史の授業中に、机の上に上履きのまま上り、鞄から取り出したマラカスをシャカシャカと振り回して、サンバのリズムに乗った。
「オーレィ!」
決めポーズまでバッチリ決めたが、職員室に呼び出された。イジメの心配をされた後に心療内科への通院を勧められた。怒られた方がマシだ。買ったばかりのマラカスは没収された。
俺のあだ名は妖怪マラカス男になった。よもや学校の七不思議の一つ目に自分がなるとは思いもしなかった。
おのれ、たなか。許さん。
サンバ:ブラジルの音楽。躍りながら歌う。マラカスは使わない。
マンボ:キューバの音楽。ダンスのための音楽。マラカスを使う。
掛け声は「ウ~、マンボ!」
フラメンコ:スペインの芸能。歌手とダンサーは別の人が担当する。特徴的な掛け声に「オレ!」 があるが、これは演じ手の技能に対する賞賛として観客が投げ掛けるものであり、歌手あるいはダンサーが自ら発するものではない。