目隠し
わたしの前に貴方がいたとして
いつかわたしが貴方の前に立つとして
綺麗なものばかり並べたような
そんな幸せを
貴方に見せていけたらよかったのに
『目隠し』
- After the rain -
わたしには、ずっと追いかけていた人がいる
初めは、わたしが追われる側だった
自ら歩み寄っていって、肩を並べて、沢山話をして、手を差し伸べて
そうやって、うまくやっていた
いつしか貴方は、わたしを知り尽くして
その時は一瞬で
わたしの前に立ってしまった
初めはね、気にしなかったの
こんな世の中には、よくある事でしょう?
当たり前のように受け入れて
わたしなりに、前に進もうとしていたの
進んでいるよ、今だって
歩幅こそ、違ったけれども
そして、いつからか
道さえも、違えてしまったけれど
手に取った手帳に記された言葉たちを、わたしは噛み締めて生きていた。
いつしか思い出になると、そう思って疑わず、そしてそれは、根強くわたしの中で息をしている。
都内の某所、小さな喫茶店。
今日もわたしはお気に入りのブレンドコーヒーと、書き溜めた文面に向き合っていた。
「今日も暑いね」
マスターに顔を覚えられるほど通ってしまって、今となってはこの店一番の常連だ。
7月も半ばを迎えた頃、ようやく仕事も軌道に乗り、一息つく時間が取れるようになった。
『貴女は、好きを仕事にすることができる?』
つい最近、高校の頃の同級生に会った時にした話。
仕事につく前のわたしは意気揚々とこう答えただろう。
『好きを仕事にできたなら、プライベートも仕事も好きなことばかりで、人生ずっと楽しいじゃない?』
今のわたしからしたら、だ。
なんて浅はかで、なんて無責任な言葉だろうか。
「ほんとうに、暑いですね」
マスターの笑顔を見ながら、わたしはコーヒーを一口含む。
人生で何度目かの、暑い季節。
『わたしには、できなかった』
同級生の彼女はそういった。
彼女は心理カウンセラーになる道を歩んでいたが、いまは全く別の仕事に就いている。
今でもその道の先生に、研究会などの誘いの声をかけてもらえるそうだが、彼女は少し悲しい顔をしていた。
ありがたいけど、無理だ、と。
女、男に問わず、幸せの形は人それぞれ。
でも ”典型” といったものは確かにある。
結婚して、家庭を築いて、子を育てる。
それが人生において重視されるし、いくら時代とはいえ、その形が大きく崩れることはない。
否定する要素がなにもない。
ほんとうに ”綺麗” そのもの。
、いやになる。
かといって、仕事や他のことがあるわけでもなく。
取り繕えることがあるとすれば、いま手元にある散文を大事に抱えていることくらい。
『今日も暑いね』
何気ない会話、たった一言でも、わたしが呼吸する理由になる。
『寂しい?』
濁しているから、もうわからない。
「今日はこの後、豪雨になるそうですよ。根詰めるのもいいですが、帰り道には気をつけて。」
マスターが優しい口調で諭す。
心からの気遣いか、はたまた長居をしすぎたか。
どちらにせよ、こんな風に考えるようになってしまったのは、いつからだったか。
わたしは荷物をまとめ、席を立った。
案の定、雨は降ってきてしまった。
靴や服はびしょ濡れで、書類の束が入った鞄を抱えて駅へと走る。
ヒールが水気を吸って、不思議な音をたてる。
気持ちのいいものではないが、もう暫く続くだろう。
諦めて、わたしは近くの店の軒下に入った。
会社帰りの人たちが足早に去るのを、わたしは眺めている。
だんだんと雨足が弱まってきているように見える。きっともうじき止むだろう。
そんな風に考えていた。
その時、目の前の車道が赤信号になり、一台の車が止まった。
何気なく見つめていると、その車の窓が開き、男の姿が見えた。
「乗れよ」
すると、再び雨足が強まってきた。
どうやら、雨はまだ止みそうにない。
信号が青になり、わたしを乗せた男の車が動き出す。
男は慣れた様子でハンドルを握り、駅でいいのかと告げ、わたしは頷いた。
ほんとうに今日は、なんて日だ。
彼が都内にいることは知っていた。
ただそれは三年前の情報だったから、転勤も多い職だし、そろそろ別の土地に行っているだろうとぐらいにしか思っていなかった。
まさか、こんな形で会う日がくるとは。
少し、拍子抜けだった。
「元気だったか?」
そんな他愛もない話から始まる、定型文。
暫くいろんな話をしたのだが、なぜかお互い自身の、今は何をしているか、仕事はどうかといった話はしなかった。
当時の同級生や、恩師の今は話すのに。
しかし、その方が此方としては都合がよかった。
何より気楽だった。
あれから何も変わっていないようだ、と。
そう思わせることができて。
「駅までの道、混んでるな」
恐らく、タクシーや駅へのお迎えで混んでいるのだろう、道が軽く渋滞していた。
お互い時間があるようで、そういった心配こそなかったが、どことなく気まずい雰囲気が流れる。
会話がないわけではない。
しかし一番身近で、大きな話題をそらしている。
それが居心地の悪い理由だというのは、手に取るようにわかった。
「あのな、俺」
そういって、彼は少し口を噤んだ。
わたしが静かに待っていると、彼はゆっくりと話し出す。
「ずっとお前に、礼をいいたかったんだよ」
何かが変わるわけではない
現実が背を向けてくれるわけでもない
見ないふりを決め込んだところで
いつかは見えてしまうのかと
わたしはその "いつか" が
今でないことを願っていた
でもそれは、わたしの思ってもみない "形" で返ってくる。
「いつだったか、俺お前にいっただろ」
いつかの別れ際、わたしと彼が今会うまで最後の別れだと疑わなかったあの時。
お前は初めて俺が尊敬した職人だ、と。
「俺、今もだけど、この仕事しててもう何度も辞めてやろうとしたんだけどさ、何とか思い止まってるんだよ」
良い悪いは別として。
ただキャリアを繋ぐ理由にはなっている、と。
「やめて何になるんだとか、今後の生活どうするんだとか、そういうのもある。けど」
お前泣いたよな、『みんなと同じところに行きたかった』って。
わたしは、ひとり落ちたのだ。
どうしても受かりたかった会社に。
当時、彼の前で吐露してしまったのだ。
酒の力とは怖い。
「それだけじゃないけどさ、あの頃頑張ってた思い出っての?それがさ、自分の事じゃなくて周りの奴らとか、お前とか」
一緒に過ごした時間が、あの頃の思いが
今も自分の中で根強く息をしている
「要はさ、お互い今となっては色々あるだろうけど、俺の中で『一番最初に尊敬したお前』は変わらないんだよな。それが今も続いてるっていうか」
気が付けば、彼は笑っていた。
今までのが愛想笑いだったんじゃないかと思えるほど、穏やかに。
「こんな小っ恥ずかしい話をするのも、今となっては、だ」
あぁ、ほんと、ほんとに。
今日は、なんて日だ。
わたしは思い出していた
"あなたの前に立ちたかった" あの頃を
それは成し得なかった "過去"
ありもしない思い出
それでも、今確かに理由がある。
わたしの前に貴方がいる
いつかのわたしが貴方の前に立つ日を
綺麗なものばかり並べた
そんな思い出が
貴方にもあってよかった、と
泣きそうになるのをぐっと堪えて車を降りた。
外は、些か晴れてきている。
わたしはありがとう、と言い扉を閉める。
車の窓が開き、気をつけて、という声が返ってくる。
わたし達は、そこで別れた。
またいつか、会えるだろうか。
その時にはわたしの "今" を聞いてもらおう。
ぐしょぐしょのヒールは、今も不思議な音を立て続けている。鞄の中身はどうだろう。
わたしはなけなしの散文を抱えて歩き出す。
もう、すっかり晴れていた。
Fin.