坂道の先にあるものは
猛スピードで駆ける下り坂。
風の音が、タイヤやチェーンの摩擦音を消す。
坂の下に広がる港、その山の向うに沈もうとする真っ赤な夕日、それが海面に乱反射を起こしてキラキラと光った。
私が悲鳴とも感嘆とも言えない叫び声を上げる。
気づけば後ろの冬馬くんも同じような声を出していた。
◆冬馬①◆
僕は実家に帰るたびにチリチリと喉が渇ききったような――ついでに奥に魚の小骨とかが刺さったような――感覚に襲われる。
隣にある葉月姉ちゃんの家を通るたびに、十年前の『あの記憶』が蘇るからだ。
物心ついたころから、彼女の家に上がりこんではお菓子をもらったり、本棚の少女漫画を読んでいた。
一方、彼女は図書館から借りてきた分厚いハードカバーの本を読んでいて、僕が漫画の感想を言うと笑顔で喜んでくれた。
小学生も終わりごろ、そんな日々も彼女の大学入学とともに終わりを告げた。
そして、そんなある日。
葉月姉ちゃんが長崎に戻ってきたという話を聞いて会いに行った時だ。
違っていた。
僕が知っている、葉月姉ちゃんのあの笑顔は消えていた。
青白くなった肌と虚ろ目、声をかけても「そう」「うん」と頷くだけの姿。
うつ病。
福岡の大学でかかってしまったらしい。
そして、休養のため帰ってきたということを聞いた。
――免疫がなかった。
と母やおばさんが話していたことを覚えている。
結局彼女は、僕に最後まで笑顔を向けることなく、回復したかどうかわからないが、とにかく福岡に戻っていった。
今でもあの時の無力感が蘇ってきては僕を責める。
中学生に何ができたんだと、大人になった僕が慰めてくれるんだけど。
そんなもの……。
あの時の僕にはなんの慰めにもならないのに。
帰省先の長崎駅。
電車から降りた瞬間、鬱陶しいセミの声、地面から沸きあがる灼熱の空気を受ける。
変わっていない。
実家に戻り、化粧台の姿見に映る自分を見る。
自称文学少年、同級生からはもやしっ子と揶揄されていた僕の姿はそこにはない。
分厚い胸板と割れた腹筋、短く刈り込んだ髪の毛、鋭くなった目。そりゃ陸上自衛隊で普通科をやっている陸曹だ。
しかも戦闘服や制服にはレンジャー徽章を付けるようなことをやっている。
駐屯地では、ミスター自衛官ってわけではないが、武闘派と言われる部類かもしれない。
それでも、鏡に写る自分を見ると、目はなんとなく不安そうにしているのがわかった。
今日は高校の時の同級生との飲み会。
目的は女子と仲良くなること。
同窓会という名の合コン。
彼女イナイ歴=年齢。
僕は今年で二十三歳だ。
いくらレンジャーだなんだと仕事で言っていても、女の子に対しては小心者のまま。
すごく残念な男子だった。
結局。
ダメだった。
収穫なんかない。
そもそも、フリーの女子がいなかった。
それに普段から野郎だらけの職場だから、女子と話すだけで満足してしまった。
キャバクラなんかと間違ってしまったのかもしれない。
すごく自分が情かった。
先輩に連れられてそういうお店に行くことはある。
その場で下心満載の先輩を反面教師として、さらり、ただ普通にしゃべるだけの癖がついていた。
いや、言い訳だ。
どうしても、怖いから、小心者だから、下心さえ出せないでいた。
だから、隣に座った女子と話しても就職活動の苦労話を聞いたり、同級生のあいつはどこで何しているとかそういう話しかできなかった。
後は、僕は自衛隊で経験したバカかつ非常識な話を披露しただけだ。
敗北感いっぱいの僕はフラフラと歩いている。
酔いも大したことはない。
人が溢れる小さな繁華街。
僕は人ごみを避け、地元の人間しか知らないような裏道を歩く。
その時だ言い争いの声が聞こえたのは。
僕はそれに巻き込まれないように、内心ビクビクしながら通り過ぎる。
情けないことだが、部外者との暴力トラブルは休暇に入る前にタップリと釘をさされていた。
事故を起こせば部隊に迷惑をかける。
そういう訳で気配を殺して僕は道を歩いた。
不意。
ぐっと腕を捉まれる。
血の気が引いた。
逃げることしか考えてなかったから、どうやって対処するか、僕は考えてなかったからだ。
ああ。
相手をぶん殴ったりしたら……それで警察沙汰なんかになったら、先任――中隊の母親役の強面のオッサン――に首根っこ捕まれぶん殴られるだろう。
それだけは避けたい。
処分されたらボーナスも減るなんて聞いたことあるし……。
そんな事を考えながら、そして心臓がバクバクなるのを感じながら恐る恐るその腕を見た。
「そんないい体してんのに、なんで無視していくの! 助けなさい!」
女性の声。
それは理不尽な、どこかで聞いた覚えがある声だった。
○葉月①○
東京は最悪な思い出しかない。
あの病気から立ち直って、なんとか福岡の大学を卒業。
大学から続けていた創作小説。
東京で就職してからも、いつかデビューしてやろうと書き続けていた。
そのうち創作仲間でオフ会をしたりして、話をすることが楽しみになった頃、あの漫画家志望のダメ男と出会ってしまった。
最初はお互いの作品の感想を言い合う様なちょっとした友達だったけど、いつ頃か食事に誘われ、回数を重ねていくうちに彼氏彼女の間柄になり、そして同棲までするようになった。
同棲が失敗の始まり。
いつの間にか同棲の目的が、漫画家デビューのために男を養うことになってしまったからだ。
馬鹿なことはわかっている。
わかっていたけど、正直、それはそれで幸せだった。
でも、そんな幸せも終わる。
男がある雑誌に載るようになってから一変したからだ。
男は私に尊大になり、まるでお手伝いさんのような扱いをしてきた。そして、お約束の浮気。
ブチ切れた私が、男をフンコロガシの様に蹴りまくってアパートの玄関から追い出した。そのついでに、とりあえず手持ちバック一つに荷物をまとめ、何もかも捨てて長崎に帰っていった。
なんであんな馬鹿なことをしたんだろう。
理由はわかっている。
あの男を好きだったということは間違いない。
そして、男に尽くす自分が好きだったということも。
情けない話だけど、私はそういう馬鹿な人間なのだ。
だから、最悪な思い出だと自分に言い聞かせていた。
長崎に返った今は、母の知り合いの居酒屋でバイトをしている。
銅座とかいう町の片隅。
ただでさえひしめき合っている街並みなのに、それを更にひどくしたような歓楽街。
その一角の狭い店構えの居酒屋で看板『娘』と呼ばれている。
二十九歳で娘と呼ばれるのは抵抗があるが、それでも悪い気はしない。
そんなバイトの帰り道。
お店の中で、いつも言い寄ってくる客に待ち伏せされてしまった。
すでにマスターが出入り禁止にしている男なのだけど。
「飲みに行かんか」
と酒臭い息を吹きかけながら寄ってくる。
店に戻ってマスターを呼ぼうかと思ったが、わざわざ店の外での出来事で迷惑をかけるもの申し訳ない。
だから無視して歩いていたが、しつこくついてきた。
そして、とうとう細い路地で回り込まれた上に、肩に汗臭い手を乗せられた。
「警察呼ぶ」
そういって私は携帯を取り出した。
すると男はその手を掴んできたのだ。
「手を離して」
と拒否していたら、屈強な青年が通りがかった。
よかったこれで助かると思ったが、青年はそのまま逃げるように通り過ぎていく。
ちょっと待て。
なぜ逃げる。
なぜ助けない。
目の前にか弱い女性がおっさんに絡まれているというのに、軟弱な。
私はイラっとした。
だから、まずは目の前のおっさんの股間を靴の先っちょっで蹴り上る。
狙い通り、脂ぎった手はどいたので体の自由を取り戻した。
そして逃げる青年の腕をつかんだ。
「そんないい体してんのに、なんで無視していくの! 助けなさい!」
と言った。
言った後に思ったが、少々強圧的だったかもしれない。
もう少し柔らかく言えばよかったかもしれないと反省する。
青年は振り返ると、慌てた様子で「え、え、何? 何がですか?」ととぼけた。
「悪い男に絡まれてるから助けてよ」
彼はおっさんの方向に視線を動かす。
「……あの倒れとる人ですか?」
「……さっきまで私の腕を掴んで、言い寄って来てた」
振り向くと、ちょんっと蹴ったつもりだったがおっさんは泡を吹く勢いで倒れている。
ほんと、男って痛み態勢がないものだ。
たかだか、つま先で蹴り上げただけであんなに苦しむなんて。
「いや、でも悶絶……」
「どうでもいいから助けなさい」
あれ?
ま、いいか。
とりあえず、おっさんに絡まれている途中なんだから、青年たるもの女性を助けるのが義務な筈だ。
そんなにいい体をしているならなおさらだと思った。
一方、青年はなんとも困った顔をしている。
そりゃ、そうだ……。
「じゃあ、逃げるから手伝ってよ」
我ながら機転が利く。
そして、私の直感が目の前の青年は安全君だと認定した。
隙があれば逃げ出しそうな彼をがっつり捕まえ、タクシー乗り場まで送らせる。
青年君に彼の向かう場所を聞いたところ、ご近所だということがわかったので、お礼も含めそこまで乗ってもらうことにした。
――アフリカA国におけるPKO活動中の自衛隊の派遣延長が閣議決定し……なお、治安の悪化、反政府ゲリラの活動が活発で、自衛隊の宿営地から離れた……に駐屯するB国PKO部隊では多数の死者がでており……。
寡黙な運転手さんの代わりにラジオのニュースが響いている。
ストーカーおっさんに絡まれた時の興奮がだんだん冷めてきたのがわかる。
そして、反比例して恥ずかしさが増大していった。
冷静に恥ずかしい。
こうなると声もでない。
変な空気に包まれた車内。
何かしゃべろうとするが、今さらどうしようもない。
だから、私は車内では一言も彼と話すことなくじっと前を向いたままだった。
早く家につくことだけを願って。
青年くんの顔をまともに見ることはなかった。
どうして、一発で横に乗っている青年を安全君と判断したのか。
その理由がわかったのは、お互いの家の玄関に入ろうした時だった。
「ああああああああ!」
「ああああああああ!」
と、近所迷惑な声を同時に上げていた。
深夜。
そんなことはどうでもいいぐらいに驚いた。
「冬馬くん」
私が青年を見上げるようにして言った。
「……葉月姉ちゃん」
少しかすれた声で彼が言った。
私はもう一度、街灯で照らされた浅黒い顔をまじまじと見る。
うちで少女漫画を読んでいた、もやしっ子の冬馬くんがそこに居た。
◆冬馬②◆
微かに残る記憶。
幼稚園の頃、長い下り坂の車道を三輪車で駆け下りる遊びが流行っていた。
普通の車道。
観光地に指定されている石畳の坂。
普通に車も人も通る急な坂だ。
足ブレーキしかない、幼児用の三輪車。
必然的に事故は起こり、友達の一人が怪我で入院してしまった。
僕が親に怒られるのが怖くて、自宅の縁側で膝を抱えて震えていた。
そこに、いつの間にか葉月姉ちゃんが来てくれて優しく包んでくれた。
膝枕。
ぎゅっと包まれるような膝枕。
たぶん、彼女に見つけて欲しかったから縁側にいたんだと思う。
きっと、葉月姉ちゃんが来てくれるとわかっていたから。
後日、葉月さんから電話があり、お礼にランチをおごってくれることになった。
母からは「葉月ちゃんとデートばするなんて生意気ね」とからかわれながら家を出る。
なんとなく嬉しそうな母。
母にしてみれば、小学生の僕と高校生の葉月姉ちゃんが仲良くしていた時代の記憶というものは、ついこの間のことのように感じているのかもしれない。
浜の町のアーケード内にあるベンチの前でおちあい、二人でエスニック風の喫茶店に入る。
僕の記憶に残る彼女のイメージは、黒い髪に三つ編みお下げのセーラー服か、無地のワンピースを着ていた高校生の姿。
しかし、目の前の彼女は、栗色で耳が隠れるぐらいのショートボブに、胸元から肩までが大きく広がっている薄緑のTシャツ、そしてベージュのショートパンツ。
大人の女性そのものだった。
十数年という月日は本当に人を変えるものだとつくづく思う。
会話は一方的に僕の話だった。
彼女は自分のことを話そうとしない。
会話が途切れるのは怖い。
ついつい多弁になってしまう。
そんな必死な僕をわかったいるのかもしれない。
彼女はあの頃と同じような笑顔で僕の話にうなずいていた。
自衛隊に入って福岡の駐屯地に居ることや、彼女がいないことなど話す。
「見た目は大人なのに童貞くんなんだ」
と、昔の彼女は絶対言わなかったようなことを口にする。
そして、赤面する僕をからかって笑っていた。
「冬馬くんって小さいころからエッチだったし」
唐突に彼女は言った。
これも昔とのギャップが激しい。
「な、なに、いきなし」
「覚えてる? うちに遊びに来て、私が制服着替えてるときも、漫画読むふりしてチラチラ見てたよね」
彼女の家に遊びに行っていた幼い頃、今でもしっかりとその光景は覚えていた。
僕の密かな楽しみだったからだ。
つまり、図星。
絶対に気づいてないと思っていたが……この場から逃げたい衝動に駆られる。
とてつもなく恥ずかしい。
「そ、そがんことは」
まともな言い訳もできない。
図星だと言っているようなものだ。
「やっぱり、男の子は男の子なんだなあって思った」
それから、僕が記憶から消しさった情けない思い出話――お漏らし含む――を彼女が始めて、楽しそうに笑っていた。
○葉月②○
微かに残る記憶、中学生の私。
小学生との交流遠足で「歩きたくない」と駄々をこねた小一の冬馬くんをおぶって歩いた思い出。
小さい体、かわいらしい顔。
背中にぺたっとくっつく体温が心地よかった。
友達と喧嘩した時、勉強で行き詰った時は、あの子が隣で少女漫画を読む姿を見ていた。
あの頃、あまり人間関係がうまくできていなかった私にとって、最高の癒しだった。
最近になって、あの男から着信やメールが頻繁に来るようになった。
私は無視しを続ける。
拒否でなく無視。
いつもそういう中途半端な態度をとってしまい、後悔することになる。
そう、詰めが甘いのだ。
何度も失敗した詰めの甘さ。
男が自宅まで来た時、その事を思い知ることになった。
ご近所に変な目で見られるのはすごく嫌だったけど、安全地帯のこの場から離れるのはリスクが高いため、玄関前で対応する。
買い物に行った母が早く帰ってくることを願いながら。
男の言葉はいつも同じだった。
「もうしない」
「本当に大切に思ってるからここまで来た」
甘い言葉。
「東京から長崎までいくらかかったと思うんだ」
「俺がいないとだめなんだろう」
という脅し。
私はできる限り冷たく拒否を示す。
でも、無駄。
この男は元々人の話を聞こうとしない。
そんな男の対応に後手を踏む情けない私の姿を塀の上から見下ろす冷静な自分。
――そういうところも、かわいいと思ってたんでしょう?
と嘲笑する。
――愛されてるという実感が湧くものね。
その時だった。
急に私の右側に大きな影ができたのは。
冬馬くんだった。
ジョギングから帰ってきたようだ。
タンクトップに短パン、太ももまで隠れるスパッツ、額だけでなく、露出している肌からは玉のような汗がダラダラ流れている。
引き締まって、血管が浮いている腕を見て、少しドキッとした。
一方彼は状況がつかめていないのかキョトンとした顔をしている。
そりゃ、久々に再開した近所のお姉さんの家の前に、よくわからない男が居て話をしている姿を見たら、普通は「こんにちはー」と言って立ち去るだろう。
まさか、痴話げんかの延長をしているとは思わない。
そして、知っていてもそんなものに顔を突っ込みたくなるはずがない。
私は冬馬くんを見上げた。
少し首を傾げる彼。
「冬馬、お姉ちゃんを助けて」
へっと顔をする彼。
数秒間考えるような顔。
そして、男の方をくるりと回って見る。
一瞬にして表情、そしてその場の空気が変わった。
見たこともないような目つき。
圧迫感のある態度で男を見下す。
「なんだ、誰だよ、おい」
男は情けなく上づいた声を出した。
「私の弟」
その言葉にびっくりしたのか、冬馬くんは一瞬だけ私に視線を向けた。
男に凄んでいる状態のままで。
一瞬だけだけど、冷やりとするような目。
私が知っている冬馬くんとは、真逆の……。
つい怖くて心臓がドクっと鳴ってしまった。
もしかして彼は、私が嘘をついたことに対して怒っているのかもしれないと思った。
だが、男に向き直った彼は今も芝居を続けてくれているので、それは杞憂だったのかもしれない。
「葉月姉ちゃん、誰こいつ」
「ストーカー」
「そうか、じゃあ殴ってよかね」
冬馬くんは血管が浮き出ている右手の拳を握りしめ、男に一歩近づく。
ぞっとした。
殴っていい、そんな言葉があの冬馬くんから出るとは思わなかったからだ。
「俺、警察、あんたの顔、覚えたから」
彼はもう一歩前に出る。男は一歩、二歩と下がった。
「国家権力なめんな!」
と彼が啖呵を切る。
低くていわゆる、ドスの効いた声。
男は気負され、後退りしてそのまま逃げ出した。
何度もこっちを振り返りながら。
男の背中がどっかに消えた後、冬馬くんは疲れたように息を吐き出す。
そして、さっきとは百八十度違う情けない顔で振り向いた。
「なんだよぉ、葉月さん、弟って」
私は手を合わせて拝みながら「ごめんね」と言った。
そして、少し意地悪そうな顔をする。
「いつから警官になったの?」
からかうつもりはなかった。
ありがとう、助けてくれて。
そう、お礼を言いたかったが、さっきの彼の目つきが怖くて心臓が鳴ってしまったことや、元カレの事を知られたことをうやむやにしたかったから、ついそんな言葉を吐いてしまった。
「自衛官も警察官も親戚みたいなもんだし」
親戚みたいなものなんだ、と思う。
「それに、国家権力とかあまりにもベタ過ぎない?」
いまさら、漫画でもそんなことを言うキャラはいない。
「だって、わからんもん、どうやって脅せばよかか」
いやいや、十分その目つきと屈強な体で。
脅しまくってるでしょう。
「よかった、先輩から大胸筋は抑止力になるって言われたけん、一生懸命鍛えてて、いや、もう怖かった」
何よ大胸筋で抑止力って。
冬馬くんの職場、あんまりいい先輩がいないのかもしれない。
それよりも、冬馬くんあれでびびってたって。
私は安堵のため息をついた。
やっぱり、私の知っている彼だと思ったから。
「抑止力って」
私が笑うと。
彼は情けない顔で笑い返す。
その面影は、私が知っている小さい冬馬ちゃんと重った。
そして唐突に思った。
昔の思い出の場所に二人で行きたいと。
「ねえ、自転車で唐八景に行こう」
「え、今から? 暑かし、車で……」
「自転車」
あの登り坂を自転車で行く長崎人はいない。
でも、それは私の密かな趣味でもあった。
この後、私は一歩も引き下がることなく、強引に約束を取り付けた。
ママチャリでこの坂を上るのは一苦労だ。
この街は歩いたほうが楽というのが常識。
原付が馬鹿みたいに普及していて、自転車に乗れない住民が多くいることは広く知られている。
私は、スポーツウェアに着替えてきて自転車を漕いだ。
昼下がりの暑さは異常だ。
立ち漕ぎで上っては止まり、水分補給をして、また上った。
生意気なことに、冬馬君は汗をかくものの、疲れた様子はなくぐいぐいと自転車を漕いでいる。
私だけが息を荒くし立ち漕ぎで足を震わせることが不条理に感じた。
いくつものカーブを曲がって頂上を目指す。
山の頂上近くまで住宅が並ぶ風景、その街並みを通りぬけ、林の中に入ればもうすぐゴールの公園だ。
唐八景は、名前の通り八方の風景が違う。
北は船が浮かぶ港、西は長崎市の町並み、南はポツポツ漁港が見える海、西は山並みといったそれぞれの風景がある。
「昔と変わっちゃったね」
頭で思ったことが思わず漏れる。
聞えてしまったのか、タオルで頭を拭いていた彼が振り返った。
「変わったと思うけど、変わっとらんとも思う」
彼はさっきまでの立ち漕ぎで上気した顔を向けて、じっと私の方を見る。私はさっきとは違う意味で心臓がドクンっと鳴ってしまった。
帰りは、坂道を自転車で暴走し、スリルを味わう。
これが私の趣味と言った理由だ。
風を切って急な坂を一回も漕ぐことなく下るのだ。
急な坂道。
二人で子供の様に大きな悲鳴を上げた。
そして、この時間帯。
港の水面に写る夕日、町全体を赤く染めるその姿を堪能できる。
家の近くの公園で一休み。
石でできた背もたれの無いベンチに二人で座った。
これを吊橋効果というのだろうか、頭がのぼせているのがわかる。
お互いの汗ばんだ肩が触れた。
避けるような仕草はない。
いい大人なはずなのに、もじもじしてしまう私。
「葉月さん」
彼が口を開く。
「なーに?」
私は、なぜか昔の口調を敢えてしてしまった。
「あの……」
と彼は言ったきり話が続かない。
私は、彼の好意を感じていた。
あくまで吊橋効果や懐かしさからくるもので、きっと冷静になれば、どうしてこんなおばさんに手をだしちゃったんだろうと、彼は後悔するにきまっている。
そんなことをぐるぐる考えているうちに、素直になれず……また会いたいということを言えず、黙りこんでしまった。
二回も面倒に巻き込んだのに、これ以上迷惑をかけては駄目だと思う。
だから、子供扱いをするような声を出したのかもしれない。
ベンチでもじもじする私を後ろから見ている冷静な自分。
それが、背中から口をだす。
――後悔する決まっている。
と。
一瞬にして血の気が引く。
背中の私が耳元で囁いた。
――ただのつり橋効果。
そうだ、こんなのはいけない。
考えてはいけない。
彼の好意はあくまで『葉月姉ちゃん』に向けたものなのだから。
そんな公園での出来事。
結局未練がましい自分に自己嫌悪することになる。
会いたかった。
あの冬馬くんに合いたかった。
我慢の限界。
九月になったことに、私は行動に移していた。
「年上の沽券……」
と念仏のように唱えながらメールをうつ。
『福岡に用事があるのでついでに食事でもしましょう』
と送った。
携帯を抱えたまま十分以上待ち続ける。
そんな姿を上から見下ろす冷静な自分が笑う。
――滑稽ね。
そして追いかぶせる様に。
――あの男の時と同じね。
低い声が脳内に響く。
着信音。
慌てて手を滑らせて携帯を落としそうになる。
メールが届いた。
落ち着けと自分に言いながら画面を間違えないように押す。
『ごめんなさい。実は十月からPKOでアフリカのA国に行きます。九月までは言えなかったので。半年したら帰って来ます、その時はこっちから連絡します』
PKO……アフリカ……ちょっと、何それ。
半年って。
――その頃は三十路ね。おめでとう。
と冷静な自分が嫌味を言う。
……三十路。
ハッとした。
何も変わらないはずなのに、冬馬君との距離が開いた気分になった。
私は声に出してメールを読み返す。
「ごめんなさい」
息を大きく吸った。
「十月からPKOでアフリカのA国に行きます」
ゆっくりと息を吐き出す。
「九月まで言えなかったので」
九月まで言えなかった?
どうして?
「あー、もう、違う」
私が耐え切れず大きな声を出してしまう。
思ったよりも大きな声、そして、自宅でよかったと安堵した。
さすがに、街中で今のを出したら、すごい目で見られることになるだろう。
ネガティブな考えを追い出そうとする。
――ねえ、ただ単にあなたの相手をするのが面倒臭いから、はぐらかしているんじゃない?
わざわざ打ち消した考えを繰り返す。
……大丈夫、こっちから連絡するって書いてあるし。もし、あなたが言うようなことだったら、こうは書かないし、きっと言えなかったのも守秘義務って、そういうやつのせいだろう。
ごちゃごちゃ言ってくる自分を無視しながら、慌しく指を動かし、もう一度メールを送った。
年上の余裕を入れて、がっつくことなく、かつ、きっちり次の約束を入れたものを。
『手当てとかいっぱいでるんでしょ、うらやましい。待っているからお姉さんに美味しいものをおごってね』
と。
十月中旬。
昼過ぎにバイトに行こうと準備していた時だ、不自然にテレビが大きいので玄関を出てみると、緑色の制服……たぶん自衛隊の人とすれ違う。
バイト先のテレビに目が行く。
『アフリカA国で輸送任務中の陸自PKO部隊が攻撃を受け、負傷者が……は……二等陸尉』
とアナウンサーの深刻そうな声が響いた。
わざとらしい深刻さ。
私は注文を受け取ったにもかかわらず、その場で立ち尽くし割烹着を裾を強く握っていた。
目はその画面に釘付け。
『行方不明は、……一等陸曹、山口冬馬三等陸曹』
行方不明。
負傷者。
攻撃。
行方不明。
冬馬……。
私はガクガク震えていた。
気付いた時は、異変にびっくりした女性客が私を抱きかかえ、慌てたマスターが走って来たところだった。
私は「大丈夫です」なんて言葉を口にして、たぶん、しゃがみ込んだ。
次の日、お見舞いのため母と冬馬くんの家に向かった。
おばさんはたった一晩でこんなになってしまうのかと驚いてしまうぐらいにやつれいた。
「ごめんね、葉月ちゃん、心配ばさせて、大丈夫? ちゃんとご飯は食べたと?」
おばさんは自分のことこそ心配するべきだった。
そのぐらいやつれているのに、どうして、他人に対して、こんな気遣いをしてくれるんだろう。
きっと冬馬くんはおばさん似なんだ。
ふと、そんなことを思った。
「こがん物ば渡すような仲になっているなんて、思いもせんかったから」
え?
こがん物ば渡すような仲?
同じようにびっくりしたのだろう。
隣の母が息が漏れるように「え」と言った。
そしておばさんが差し出す封筒を見て私はかたまった。
武骨な白い封筒。
私は何のことかわからず沈黙していた。
母が肘でつつく。
私が隣をちらっと見ると、母はいつになく深刻そうな表情とともに目を細める。
受け取れという催促だ。
「何かあったら渡してって言われとったけん」
しばらくの沈黙。私はなんとか言葉を搾り出す。
「……まだ、そんなこと……決まってないから」
行方不明。
涙で霞む視界でおばさんが歪んで見えた。
死んだわけじゃない。
そう、乱れてはいけない。
もっと、辛いのは……。
私だけじゃない。
封筒に置いたおばさんの手が震えている。
――まだ、受け取れません。
私はそう答えようとしたが、泣き出してしまい言葉にならなかった。
お見舞いに行ったつもりが、逆の立場。
情けない。
おばさんと母が私の肩を叩く。
そして、優しく肩を寄せてくれた。
遺書は。
冬馬くんの遺書は私が保管することになった。
十一月になってからの焦燥感は酷い。
ずっと指先がしびれているような感覚が続いていた。
ある日吐き気が治まらず、少しでも救いを求めるようにして、無意識に遺書を開封し、気づいた時にはそこに書かれた文字を追っていた。
『この手紙を読んでいるということは、僕は死んでしまったということですね。(ベタですみません)
ちゃんと任務を果たしてこうなったなら、きっと本望だったと思います。
あ、でも。
ひとつだけ、言いたかったことが。
死んだ人間がこうやって告白するのも卑怯なことだと思います。
きっと開かれることがない遺書だから、帰ってきたときの練習代わりに書いています。
葉月さん。好きです。
愛しているというのはおこがましいんですけど、好きです。
僕のお隣になってくれて、またこうして会うことができて幸せです。
でも、忘れてください。
忘れてなんて言いながら、こんなことを書いて。
帰ってきたら言うつもりでした。
ごめんなさい。
それだけは知ってほしかったから。
そして、忘れてもらえばうれしいです」
私はその便箋をぎゅっと抱きしめ、声に出さずに泣いた。
何時間ぐらいそうしいていたんだろうか。弾ける様な大きな声が冬馬くんの家から聞こえた。
泣いているような、怒っているような大きな声。
私はフラフラと立ち上がり、お隣に向かう。
「とうとう」
私はひとりそんな声を出してしまった。
予感だったんだろうか。
彼が私にあの封筒を開けといったのかもしれない。
フラフラと歩いてしまったから何かにドンとぶつかる。
私はまたヨロヨロと歩こうとした時、ぶつかった人がが抱き締めてくれた。
おばさんだ。
「いた……生きて……冬馬が……生きて」
玄関前の道端で、私とおばさんは抱きあって、子供に様に声を上げて泣いた。
彼は帰国後、福岡の病院に入院。
すでに一度会ってきたおばさんに『ショックを受けるからまだ会わない方がいい』と忠告を受けた。
でも、とにかく会いたくて、もうどうしようもなくて、お見舞いに行くことにした。
精神病棟、ベットに座っている、青白い焦点の合わない目をした彼がいた。
私の姿に気づいた瞬間、急に震えだして嘔吐した。
そんな彼を見ながら私は立ち尽くすことしかできなかった。
◆冬馬③◆
――ああ、あの時抱き寄せればよかったんだろうか。
僕は何度もあのベンチの二人を思い出す。
汗ばんだ二人。
肩が触れた。
そして、僕は気付かれないように、お互いの太ももも触れさせていた。
でも言えなかった。
きっと憧れのお姉さんと近所の男の子の関係でしかない。
それに。
あの後、僕はどうやったら告白とか、付き合うとか、いやもっと先の事ができるか……まったく知らない世界だったから、何もできなかった。
悶々とした日々。
アフリカに行く前も、そして行った後も目まぐるしい日々だった。
よかった。
あのもやもやした気分を忘れられる。
目の前の仕事に集中できることを、僕は本当に感謝していた。
小隊長が崩れるように倒れる光景が浮かぶ。
引き金を引いて、小銃を持った男に弾を当てた。
まだ、動いている……僕は容赦なく続けて五発以上打ち込んだところでそれは動かなくなった。
そこだけははっきり覚えている。
僕は人を殺したらしい。
不思議と罪悪感はない。
小隊長が死なずに済んだはずだから。
それ以外はよく覚えていない。
必死に逃げたような気がする。
それから敵ゲリラと対立している勢力に匿ってもらった。
後から聞いた話だと、あの後すぐに救援が来て、小隊長は助かったらしい。
でも、僕たちは怪我をした小隊長を置いて逃げた。
僕は、逃げた。
自責の念。
それに襲われる度に僕は吐いた。
パニックになって覚えていないが、葉月さんがお見舞いに来たときもフラッシュバックで吐いたようだ。
彼女は水色のワンピースを着ていたそうだ。
あの日、車列の前に飛び出した水色の全身を包むような布を巻いた女性。
そして、それは自爆した。
僕は先頭の車に乗っていて、水色の彼女が吹き飛ぶその瞬間まで彼女と目を合わせていた。澄み切っていて、飲み込まれるような目。
一瞬にして消えた光景。
いろいろな症状。
それが『毎日』ではなく、『たまに』になって、『何かのきっかけで』になった頃、やっと退院して、自宅療養までできるようになった。
怪我をした小隊長は僕の頭を撫で「生きててよかった」と言ってくれた。
それでも、まだ、自分を責めてしまう。
――しばらく、落ち着くまで自宅で休暇をとれ。
先任にそう言われ、病院から直接自宅へ。
心配してく来てくれた仲間が送ってくれた。
自宅に戻るとすぐに葉月さんが来るという連絡があった。
筋肉が細くなったし、やつれた顔を見られたくなかったが、それよりも会いたいという気持ちが勝った。
「この前はごめんね」
彼女はそう言った。
「うん」
と返事をする。
それから無言のまま時間が経った。
「おばさんから聞いた」
きっと、あの水色の話のことだろう。
「うん」
僕はうなずく。
「がんばらなくていいから」
伏し目がちに彼女は言った。
「うん」
ゆっくりと伸びる彼女の手。
僕の頬に触れる。
冷たい指先。
少し熱っぽい頬には心地よかった。
「生きて帰って来てくれて……ありがとう」
少し詰まる声。
「……うん」
僕は溜まらず子供のように泣き出してしまった。
頬に触れた彼女の手を両手で掴み唇に当てて声を殺そうとする。
彼女はスッと手を離す。
「いいよ」
そう言って、抱きしめてくれた。
縁側に居た、あの僕と同じように、震える僕を包んでくれた。
泣きながらシャックリで詰まりながら、僕はアフリカでの出来事をすべて吐き出していった。
「私が病気になったとき」
彼女は膝の上にある、僕の少し伸びた髪の毛を撫でる。
「何度も顔を出してくれて元気をくれた……今度は私がお返しする番」
お返しと言われ、心地よい反面、物足りないような複雑な気分を味わう。
そうして、僕は落ち着いた時、彼女の膝に埋めた顔を回転させ、彼女を見上げた。
「お返し……?」
少し拗ねたような声を出す。
今日ぐらい。
わがまま言ってもばちは当たらない気がした。
フッと笑う彼女。
「遺書読んじゃった」
と小さな声でいった。
そして、そっとおでこにキスをされた。
僕は一気に赤面する。
そんな僕を、彼女の優しい笑顔が見下ろしていた。
『夕日を見に行こう』
そんなメールが来た。
すぐにスポーツやる気満々なな格好の葉月さんが家に上がってきた。
「天気もいいし、たまにはお日様浴びないとね」
「でも、ほらこんなんだし」
僕は細くなった足を指差す。
「二人乗りで行けばいい」
と彼女は僕を引っ張るようにして庭に連れて行った。
「電動自転車、このために買ったんだから」
得意そうな顔で言うので、後ろの荷物起きのひんやりした金具の上に座る。
「警察に見つかったら怒られる」
下手すれば違反切符を切られるかもしれない。
「気にしない」
彼女はそう言って漕ぎだした。
平地はいい。
さすが十万円を超す自転車だ。
彼女が漕いでもすいすい進む。
でも坂道は別だった。
彼女は荒い息をしながら立ち漕ぎでなんとか前に進もうとする。
体力のない葉月さんだ。
さすがに限界だろう。
まだまだ唐八景は遠い。
それでも彼女は諦めずに、必死に立ち漕ぎを続けた。
さすがに休憩が多くなる。
何度かそれを繰り返したところで僕は後ろから彼女を抱きしめて、そして耳元で囁いた。
「いいよ」
彼女の息は荒いままだ。
「いいよ」
もう一度、同じ言葉を言った。
「僕のために……ありがとう」
抱きしめた腕に力を込める。
「もう少し時間を下さい。葉月さんを大切にできるぐらい強くなるから」
抱きしめた僕の腕を彼女は大切そうに包み込む。
「……もうじゅうぶん、強いよ、冬馬くんは」
「そうかな」
「うん」
彼女の心臓の高鳴りを背中越しで感じる。
僕もシンクロするようにして心臓が高鳴った。
「キスしてよ」
彼女はくるっと回って僕を見上げてそう言った。
初めてのことで、どうすればいいかもわからないが、ゆっくりと、ぎこちなく、うまくできないなと思いつつ、なんとか口づけをした。
「生意気にもキスできるんだから」
強いよ、と彼女はつぶやいた。
一瞬風が吹く。
その方向を僕と彼女は見た。
「あ」
と彼女が声を漏らす。
北側の稲佐山の山肌に沈む夕日。
その真っ赤な光が港に反射して、このすり鉢みたいな街全体を赤く染める。
真っ赤な夕日の中に僕達までも溶け込んだ。
小さな頃から見慣れた風景。
でも、僕はこの絶景に魅了されていた。
僕達はぎゅっと握った手を離さない。
空がオレンジに、そして深い藍色に変わっても。
ちりばめられたガラスの欠片の様に光る、人々の生活の光。
星空の下に、キラキラと光るその姿を見た時。
僕たちは手を離し。
お互いを抱きしめていた。
――了――




