わたくしは生まれた
――ねえ、わたくしの話を聞いてちょうだい、シモーナ。
わたくしは、隣国のサディール公爵家の娘だった。ご承知のとおり、サディール公爵たる父は現国王陛下の王弟にあたる。陛下が即位なさると同時に臣籍降下をしたけれど、我が国の中では王族の次に身分が高い家だった。
わたくしは、そのサディール公爵家の長女として生まれ、また生まれたときから王太子の婚約者という立場に置かれ、公爵家の人間として、王太子妃、また果ては王妃になる娘として必要なことを、それこそ言葉も話せぬ幼い頃から、厳しい教育を受けた。王家のため、国のために人生を捧げることを、わたくしは生まれついたその日より定められた身だった。長じれば長じるほどに、教育の過酷さ、緻密さは増していった。
けれど、そんな重責を苦痛と思ったことは一度もないの。王弟一家サディール公爵家長女として生まれたのだから、それも当然のこと。たとえ、生まれたその日に己の人生すべてを決められたのだとしても、わたくしは、わたくしに与えられた役割を全うすることを厭うたりは決してしなかった。
わたくしに与えられた公爵家の権力や財産は、わたくしの人生の自由を奪うことへの、その代償だから。平民が一生かかっても手に入れられないような意匠を凝らしたドレスやアクセサリー、最高級の食材を使った贅沢な食事、常に使用人たちを傅かせる生活……それらはすべて、わたくしが公爵家の娘として生まれたために負った重責と義務の対価に他ならないのだから。だからこそ、わたくしはわたくしに与えられた役割を何があっても必ず全うせねばならないと思っていたのだけれど。義務や責任者、仕事というのは、必ず何かしらの対価を得ることで負うものなのだから、対価を受け取る以上、それらをきちんと全うするのは当然のことだもの。
ああ……けれど、わたくしの生まれた場所が、ふつうと違うのかもしれないと気づいたのはいつのことだったかしら……? わたくしが生まれた公爵家は、わたくしにとって、檻のようなものだった……わたくしを縛り付ける、箱庭のような地獄。常に誰かがわたくしを見張っていて、少しでも過ちを犯すと責められた。気を抜く隙など、一切なかった。父と母、そして兄には幼い頃はほとんど会ったことはなかったわ。同じ屋敷の中とはいえ、とても広い家だったから、棟が違えばすれ違うこともなかったし、彼らは誰もわたくしの元へ会いに来てはくれなかったのね。
わたくしの生活していた白百合棟には、比較的近いところに使用人たちが寮として利用している鈴蘭棟があってね。ある日、窓の外をふと眺めていたときだったわ。庭師の男と侍女の女の子どもが鈴蘭棟の中庭で遊んでいたの。わたくしは自分以外の小さな子どもを見たのは、おそらくそのときが初めてだったから……きっと珍しかったのね。わたくしはその子どもが、みっともなく土にまみれて遊んでいたのを、ずっとぼんやりと眺めていたの。
そうするとね、まだ足元さえ覚束ない幼子の歩みだから……当然、ちょっとしたところで転んでしまったのだわ。その子はわたくしのいた白百合棟にまで聞こえてくるのではというほどに、周囲も憚らず大泣きしてしまって。大粒の涙で顔をぐちゃぐちゃに汚して、泥で汚れた小さな手で涙を拭っては、バカみたいにまた顔を汚して。「まあ、なんて恥ずかしい子ですこと」なんて、すまして、呆れ顔をして、見下していたわたくしの顔が歪んだのは、そのあとすぐだったわ。
小さな、五つにも満たない幼い子ども。たぶん、男の子だったわ。遠目だったから自信はないけれど。その子が泣いているのに気づいた庭師の男が、仕事をほっぽり出して、慌ててその子に駆け寄って行ったのが見えたわ。そして、おそらくその日は非番だったのね。侍女服を纏っていない母親らしい女も、すぐさまその子どもに駆け寄って行ったわ。それから、泣いていたその子に二人が目線を合わせるため、しゃがみこんでね。それから母親が真っ白な手巾で、その子の汚れた顔を丁寧に、やさしく拭いていたわ……父親はその子の頭を撫でていた。遠すぎて見えなかったけれど、きっとそのとき二人は笑っていたのだわ……何もないところで転倒した無様さを責めるのではなく、声を上げて泣き喚く愚かさを罵るのではなく……穏やかに、丁寧に、やさしく……頭を撫で、頬を撫で、目元を拭い、そして最後に安心させるように抱きとめる……。
きっと、ふつつのひとには、そんなことが? なんて、些細なことなのね。けれど、ずっと、父にも母にも兄にも触れ合うことなく、常に完璧さを欠くことのないよう誰かに見張られていた、このわたくしにとっては……とても、驚くべきことだったのだわ。だから、記憶に栞を挟んだかのように、ずっと忘れられなかったのよ。幼いわたくしは、思ったの。「あの子とわたくしでは、なにがちがうの……?」と。
わたくしには、あの使用人の子どもと違って、高い身分を持ち、高等教育を受け、高価な衣服や服飾を身に纏い、上質な食事を食せる権利を持っている……けれど、あの子はきっとわたくしが一生かかっても手に入れることのできないものを既にその小さな手のひらいっぱいにたくさん持っているのだわ……そう思い至ったとき、わたくしはとても…………そう、とてもさみしいと思ったのだわ。
話しかけてもくれない、名も呼んでくれない父は、あの子の父親のようにわたくしに笑かけてもくれないし、わたくしの頭をあんなふうに撫でてはくれない。
触れてもくれない、やさしくなんてしてくれない母は、あの子の母親のように、わたくしを抱きしめてはくれない、わたくしをいとおしんではくれない。
幼い頃から、公爵家の人間として相応しい娘に、いずれは王妃になるに相応しい器になるように、そればかり言われて育ったわ。そのためだけに生かされていたし、生きていたのだわ……それ以外の価値はわたくしにはない。なんにもない。両親にも、兄にも愛されないわたくし。そんなことだから、いずれ顔を合わせをした王太子殿下にも、わたくしなりに好かれようとしたけれど、けどやっぱりすぐに嫌われてしまったわ。媚びを売ったつもりはなかったし、自慢をしたかったわけではないのだけれど、あんまり殿下がつれないから……わたくしがいかに公爵家に似合う娘であるか、わたくしがいかに王太子妃たる人物であるか、それを会うたび訥々と説いたのがきっとよくなかったのね。わたくしにはそれだけの価値があるのだと、そう信じてほしかったし、安心していただきたかったのよ……本当に、愚かで、幼稚な娘だった。
だって……だって、愛されたことが、やさしくされたことが、大切にされたことがないのだもの。どうやって愛すればいいの、どうすればやさしくできるの、どうやって大切にするというの。だから、わたくしは何度も間違えたわ、何度も。殿下を上手に愛することができない。友人や使用人たちにやさしくすることができない。わたくしは大切にされなかったのに、どうして大切にされて生きてきたに違いない他人を大切にできるの?
ああ……そう、そうなの……わたくし、わたくしは……両親に、ただ愛されたかっただけだったのだわ。父に褒めてもらいたかった、頭を撫でてほしかった。母にすべてを受け入れてもらいたかった、やさしく抱きしめてほしかった。ただ、両親にわたくしを見てほしかったの……わたくしを愛してほしかった。そう、始まりはきっと、すべてそこなのよ。セレを拾ったのもそう。あれは……泥に塗れて、傷だらけで、空を睨みつけながら、誰にも顧みられることなかったあれは……わたくしそのものだったの……だから、わたくしは。
どうして悪役は孤独なひとが多いんだろうといつも思うのですが、むしろ孤独な心こそが他者との乖離を起こす原因そのものなんだと思うのです。だからといって悪事のすべてがなくなるかというとそれは別問題としても。




