心の扉が開くとき
蘇芳&一平の出会いです。ちょっと暗い話です。
「はい、そこまで」
武骨な担任教師の野太い声が教室に響く。
教室中で一斉にからんからん、とシャーペンを置く音がして、それからテスト用紙を後ろの席から順番に前に回す。
最前列の生徒を回って教師がテスト用紙を回収し、枚数を確認し、一呼吸おいてからにやりと笑った。
「よーし、テスト終了だ。」
担任が出て行った後、教室の中は妙にハイな雰囲気になる。なにしろ、中間テストの最終科目がたったいま終わったのだ。うれしくないわけがない。
自分の成績に自信のない者、テストの成績にはあまり興味のない者、やりとげた満足感で満ち足りた表情をしている者。みんな、なにはともあれテストが終わったこと自体にはほっとしているのだ。
「ねえねえ、帰りにさ、ケーキ食べに行こうよ!おいしいお店見つけたんだ!」
クラスの女子は、テスト終了を口実に、今日はダイエットのたがをはずすようだ。
男子とてテストの打ち上げに行く気満々だ。仲のよい友達同士、ハンバーガーショップや、隣駅のショッピングセンターのフードコーナーへいく相談をしている。もうすぐ正午なのだ。
その横で、蘇芳はひとり教科書を学生かばんに詰めると、物も言わずに席を立った。
誰にもあいさつもせずにでていく後姿をほかの生徒も特に気に止めない。いつものことだからだ。
唯一それに気がついたのは、転校してきてまだ間もない番匠という名前の男子生徒だった。
「ああ、古川、な。別に悪いやつじゃないんだけど」
ほかの生徒がちょっと渋い顔で答える。
「なんかとっつきにくいっていうか、ほら、外見も目立つだろ?最初はみんな気にしてたんだけど、何だか周りを避けてるみたいな感じでさ、今はいつもあんな感じでふーっと帰っちゃうし、みんな声かけなくなっちゃったんだよな」
確かに蘇芳は目立つ。
「古川蘇芳」なんて古めかしい雰囲気の名前なのに、外見はどうみても西欧人なのだ。
淡いプラチナブロンドの髪、アイスブルーの瞳、彫りの深い顔だち。
話すときも、普通に日本語をしゃべっている。
おまけに、長身でかなりな美形なので、目立たないわけがない。
外見が原因でからかわれたことがないわけではない。
でも、別に気にもならないし、つい人と接しないようにしてしまうのはそれが原因ではない。
蘇芳は、高校の近くの公園でベンチに座っていた。
ベンチに持っていたかばんを乱暴に投げ出し、背もたれに体を預けて空を眺めるように上を向いている。
ベンチは、この広い公園でもあまり人気のないところにあった。実を言うと、あまり人のそばが得意ではないのだ。
人ごみは、蘇芳にとっては五月蝿いのだ。
よく冷えた缶ジュースを持った右手を顔のところへ持ってきて、手首で眼鏡をぐっと押さえてみる。これがないと、頭がいたくなってしまう。
蘇芳が人を寄せ付けないのは、持っている特殊な能力のせいだった。
テレパシー。
言葉を交わさなくても他人の思うことがわかってしまうこの力のせいで、蘇芳は絶えず誰かの考えが頭の中に響いてしまう。人ごみの中になど入ったら、頭が痛くなり、気が狂ってしまいそうな気さえする。
ただ、眼鏡をかけているときだけはかなりその力が押さえられる。
ひょっとしたら一種の自己暗示なのかもしれないが、蘇芳はこの眼鏡がなければつらくて一日が過ごせないのだ。
今は、眼鏡のおかげでほぼ普通に暮らすことができている。けれど、やっぱり繁華街などはキツいので、学校帰りなどに誘われないように人から遠ざかっているうちに、それが癖になってきているのだった。
遠くから子供の遊ぶ声が聞こえる。
けれど、その心の声は聞こえない。
そんなごく普通のことで蘇芳はほっとしていた。
缶ジュースの残りをぐい、っと飲み干して、2メートルほど先のゴミ箱に空き缶を投げ入れたが、缶は軽い音を立ててゴミ箱にぶつかり、地面に落ちた。
そのとき、どこからかボールが転がってきた。
白い小さなボール。多分、蘇芳の目の前の茂みの向こうで野球をしている小学生のものだろう。
そう思って拾おうとしたとき、植え込みを無理やり通り抜けて、男の子が一人現れた。
小学3年生くらいか。いかにもやんちゃ坊主っぽい、きらきらした目をしている。
着ているTシャツもハーフパンツも、運動の激しさを物語るように泥だらけだ。グローブをはめていない右手で額に浮かんだ汗をぐいっとしごくと、額にうっすらと黒い泥の線がついた。
そして蘇芳と目が合った。
「あーーーー!だめだろ、にいちゃん!」
唐突に男の子が叫んだ。蘇芳はびっくりして声も出ない。
「・・・・何のことだよ」
「あれだよ、あれ!」
男の子の指差す先には、さっきゴミ箱投入に失敗した空き缶が転がっている。
「ごみはゴミ箱に、って習わなかったのかよ!にいちゃん、オトナだろ!ちゃんとかたせよ!」
まっすぐに蘇芳の目をみている。
蘇芳もしばらく男の子を見ていたが、ふっと力が抜けたような表情をした。
それから、空き缶を拾ってゴミ箱に捨てた。
「これでいいか」
「おう!えらいぞ!」
男の子はボールを拾うと
「じゃな!」
と仲間のところへ戻っていった。
後に残された蘇芳は、呆然としていた。
まるで、嵐のようなパワーだ。曲がったことを知らない、まっすぐな子供らしさ。正義感。
いささか一方的だが、不思議といやな気分にならなかった。
自分にも、あんなころがあったのだろうか?
都内にある、かなり高級な住宅地。
住人は、会社の社長やら芸能関係者やら、庶民の感覚とはかけ離れた世界の人間ばかりだ。
当然、建っている建物も、そんじょそこらの建売住宅とはわけがちがう。手入れの大変そうな立派な庭を持ち、細工の細かいステンドグラスの入った洋館や、デザイナーハウス、古式ゆかしい和風建築などが当然のように建っている。
その中でもひときわ広大な敷地を誇る荘厳な洋館。
日本の経済のトップを独走し、海外経済にもその存在を深く根付かせている巨大コングロマリット・昴グループの、会長の私宅であり、これが蘇芳の自宅だ。
重々しい玄関を開けると、広い玄関ホール。目の前に2階へ通じる階段があって、両脇に色とりどりの花が贅沢に活けてある。まるで、ハリウッド映画に出てくる大富豪の屋敷そのものといった雰囲気だ。
その玄関ホールの真ん中に、中年の紳士が立っていて、恭しく蘇芳を迎えた。
「おかえりなさいませ」
寸分の隙もない凛とした姿勢で、親子ほども年の違う蘇芳に頭を下げた。男の名は駿河義男、古川家の執事だ。
「・・・ただいま」
人付き合いの悪い蘇芳も、駿河には心を開いている。ほんの少しだけ、微笑んでみせる。駿河はにっこりと笑って迎え入れてくれた。まるで本当の子供のように、幼いころから蘇芳をかわいがってくれている。
蘇芳はまっすぐ2階にある自室に向かった。荷物を置き、廊下の突き当たりにある風呂場で軽く汗を流す。こざっぱりと洗濯されたTシャツとジーンズに着替え、自室のベッドにひっくりかえると、何だか体の奥からじんわりと疲れが染み出してきてそっと目を閉じた。
<・・・あんな子供を引き取るとおっしゃるの?!>
ヒステリックに叫ぶ女の声。あれは、そう、紘代とかいう人だ。自分の父の、奥さんとかいう人。
<仕方がないだろう。あれの母親は死んでしまった。あの子は実の父である私以外に身よりはないんだ>
<私は反対よ。あなたの子供はヒカルひとり、ヒカルがあなたの跡継ぎなのよ。それをあんな妾の子・・・汚らわしい>
庭で遊んでいてふと漏れ聞こえてしまった父と、父の正妻の言い争い。まだ10歳だった蘇芳にはよく意味がわからなかった。
<紘代!!>
ばしっ!
<言っていい事と悪い事がある!子供には罪はないんだ>
<な・・・・・>
ふたりの話の内容はわからなくても、ひどいケンカをしていることはわかる。怒鳴りあいの応酬はまだ続いていて、蘇芳はそっと窓のそばから離れた。
そう、あれは母が亡くなって初めてこの家に連れてこられた日だ。
うつらうつらした拍子に見てしまった記憶とも夢ともつかない幻に、いやな気分になって蘇芳は目を覚ました。
蘇芳は古川家の長男だ。父は古川蔵人、現昴グループ総帥。いわば天下人だ。母は北欧の出身で、見事なプラチナブロンドの巻き毛の、まるで神話にでも出てきそうな美人だったが、蘇芳がまだ幼いころに他界した。
だが、母は古川蔵人の正妻ではなかった。
だから、母が亡くなった後、蔵人が蘇芳を引き取ることになったとき、古川家の親族から猛反対を受けたのだ。蔵人には正妻・紘代がいた。そして、紘代には息子がいた。年は蘇芳より下なので腹違いの弟になるのだが、蔵人が蘇芳を引き取るということは、即ち未来の昴グループの総帥として捉えているということだからだ。
あのあと、紘代はまだ小学校にも上がっていない息子を連れて家を飛び出してしまったのだ。そして、後にも先にも蘇芳がふたりに会ったのはこのとき一度だけだった。
まだ幼かった蘇芳が覚えているのは、彼らが家を出て行くときに見た紘代の燃えるような厳しい目、そしてわけもわからず母の剣幕に怯えている義弟の不安そうな表情。
(何で急にそんなことを思い出したんだろう?)
目を開けて天井を見る。今日会った子供のせいだろうか?
でも、今日の子は不安なんて笑い飛ばしてしまいそうなパワーのある子だった。自分の覚えている、あの不安そうな義弟の顔には、到底重なるものはない。
義弟は、今頃どうしているんだろう?
確か名前は・・・・ヒカル。年は、もう中学生にはなっているはずだ。
二人が出て行ってしまってから、父は屋敷の人間に緘口令を敷いたらしく、蘇芳が家の中で直接二人の話を聞くことはなかった。
けれど、物心ついたころから持っていた不思議な力のおかげで、蘇芳は大体の事情をいやというほど聞かされていた。だから知っている。二人がそれきり行方不明になっていること。周囲の人間のほとんどが、どんなににこやかに蘇芳に相対していようとも、心の底では「二人を追い出した張本人」とマイナスの感情を持って蘇芳を見ていること。
だから蘇芳は、わけ隔てなく接してくれる父と駿河には心を開いている。
翌日は中間テストの休みだった。蘇芳は、昼近くまで惰眠をむさぼっていたが、さすがに空腹になって目が覚めた。
外は快晴で暑いが、家の中にこもっているのもいやだったので、朝食とも昼食ともつかない食事を軽くとり、ふらりと散歩に出かけた。
そして昨日の公園に来た。
昨日の場所は、実は蘇芳のお気に入りの場所だった。公園の中でも人気が少なく、緑も多くてなんとなくリラックスできるからだ。
缶ジュース片手にまたぼーっと空を眺めていると、足音がした。
「・・・昨日の、にーちゃん?」
振り向くと、昨日の男の子だった。今日は友達と野球ではないらしい。ランドセルをしょって、家に帰る途中だろうか。
「・・・よう」
「何でこんなところにいるんだよ」
「何でって・・・いいだろ、別に。」
「ガッコは?」
「今日は、休み。」
「ジシュキューコーってやつ?」
「自主・・・よく知ってるな、そんな言葉。ちがうよ、昨日で試験が終わったから、今日は学校が休みの日なんだ」
「なあんだ」
男の子はぱあ、っと明るく笑うと、すとんと蘇芳の隣に座った。
「俺、麻生一平っていうんだ」
突然自己紹介する。蘇芳には、一平のペースがつかめない。
「昨日もさ、なんだか暗い顔してただろ?今見たらま~たどっかいっちゃいそうな顔してるしさ、なんだか声かけちゃった」
(人生相談の押し売りか、こいつは)
心の中で苦笑する。
「俺は・・・蘇芳、っていうんだ」
自己紹介された手前、自己紹介を返す。礼儀には煩くしつけられてきている。
「すおう?苗字?なまえ?」
「下の名前だよ。珍しいだろ」
手近にあった木の枝を拾って、地面に『蘇芳』と書いてみせる。
「・・・むつかしい字だなあ」
素直に反応する一平が、何だかおもしろい。
そのまましばらく二人でとりとめのない話をした。
その後、同じ公園のベンチで蘇芳と一平はたびたび顔を合わせるようになった。
「蘇芳のにーちゃん!」
と、いつも一平は人懐っこい笑顔で寄ってくる。大体は、一平がマシンガンのようにしゃべりたてて、それを蘇芳が聞いている事が多い。
「でさ、環が・・・・あ、環って俺の妹な。すぐ泣くんだよ。でも、泣き止むのもすぐなんだよ。あれって、わざと泣きまねしてるんじゃないかってくらい」
どうやら今日の一平は、妹とけんかをして母親に怒られたらしい。
「そうすると、いっつも怒られるのは俺なんだよ。ずるいよな~、アニキってのは損だよ」
「そうか?」
「蘇芳のにーちゃんは兄弟いないの?」
「・・・いる。でも、別のところに住んでて、一回しか会ったことないんだ」
蘇芳が言うと、一平はちょっと首をかしげた。
「なんで?」
「何でって・・・・なんでだろうな」
「兄弟なんだろ?何で一緒に住まないの?」
「大人の事情ってやつだよ」
「でた!オトナのジジョー!難しくなると、俺のお母さんもすぐそういってごまかすんだよ」
ぷうっとほっぺたをふくらませる一平を見ていると、なんだか可笑しくなってくる。蘇芳は思わず声を出して笑ってしまった。
一平はそれをびっくりして見ている。が、蘇芳自身もびっくりだ。こんなに声を上げて笑うのは、どのくらいぶりだろう?
「おまえ、素直でいいやつだよ、一平。」
そう言って隣に座っている一平の頭をくしゃくしゃっとかき回す。
一平は「やめろよ~」といいながらも嬉しそうに笑っていた。
「何だかこのごろ機嫌がいいらしいじゃないか。いいことでもあったのか?」
珍しく蔵人が早くに帰宅し、蘇芳と一緒に夕食をとりながら話し出した。
今夜のメニューは和食。魚の西京漬けや美しく盛り付けられた炊き合わせ、てんぷらなどがまるで旅館の会席料理のように並んでいる。ちょうど箸に挟んだ西京漬けを持ったまま、蘇芳は「え?」という顔をする。
「駿河から聞いてるぞ。毎日公園によっているそうじゃないか。ガールフレンドでもできたか?」
「ああ・・・・違います、そんなんじゃありません」
蘇芳は苦笑するしかなかった。彼女ができたとかならまだわかるが、何しろ毎日のデートの相手は小学生の男の子なのだ。
かいつまんで事情を説明する。もっとも、そのせいで「機嫌がいい」と周りから見られるような変化があったとは思いがたい。
「だから別に、機嫌がいいとかいいことがあったとか、そんなわけじゃ・・・」
ぱくり、と炊き合わせの小芋をほおばる。
蔵人は、どこか鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたが、すぐに柔和な表情になった。
「そうか、その一平君には感謝しなきゃいかんな」
「え?」
「わからんか?」
蔵人は美濃焼きのフリーカップに注がれた焼酎をぐい、っとあおった。
「一平君はおまえにいい影響を与えているということだ」
「・・・影響?」
「蘇芳、私はおまえなら昴グループ全権を譲ってもまったく心配ない能力を持っていると思っている。だがな、ビジネスは人と人とのコミュニケーションを除いてはまったく成り立たないものだ。お前にはそれが欠けている」
「・・・・・!」
「ああ、お前が跡取りの話を嫌っているのはわかっているよ。だが、それを取っ払っても自分にそれが欠けていることはわかっているだろう?」
「・・・はい」
「人と話してみろ、蘇芳。家の中の者、クラスメイト、誰でもいい。人と付き合うんだ。お前が力のせいでつらい目を見ているのはわかっている。でも、これから先避けて通るわけにはいかないんだ。幸い、おまえは一平君には普通に話をしてるみたいじゃないか。ごく普通に心を開いている。彼は、おまえにきっかけをくれているんだとは思わんか?」
蘇芳は何もいえなかった。
「それからな」
蔵人はことん、と持っていた焼酎の器を置き、まっすぐに蘇芳の目を見た。
「その、お前の嫌がっている跡継ぎの話だが・・・」
すこしだけ、二人の間に沈黙が流れる。
「・・・いや、やめておこう。この話はまたにしよう」
蔵人は席を立った。
「父さん」
ふと、蘇芳が声をかける。振り向いた蔵人に、ちょっと気恥ずかしそうに視線をそらしながら、
「最初の話・・・・努力、してみます」
とだけ言った。
蔵人はにこりと笑って食堂をでていった。
数日たち、夏の太陽のきらきらとまぶしい日。
本当ならプールか海にでも繰り出して冷たい水の感触に夏の暑さを忘れたいような日なのに、残念ながら蘇芳の学校は登校日だった。
名門の私立の高校だけあって、教室にクーラーは完備されているものの、せっかくのいい天気にクラスの全員がそわそわとしている。
やがて午前中のスケジュールが終わり、開放される合図のチャイムがなった。
みんなそれぞれ帰り支度をしている。
1学期に転校してきた番匠も、クラスになじんできた。今日は、仲良くなった高橋や藤田と午後から映画に行く約束をしている。とりあえず駅ビルのトイレで制服を着替え、学生かばんをコインロッカーに放り込み、ファストフードで昼食を済ませ、もう半分ほど過ぎてしまった夏休みを惜しむように遊ぶつもりだ。
学生かばんに教科書や筆記用具を詰め込み、着替えの入ったスポーツバッグをロッカーに取りにいく。
「あの・・・番匠くん」
不意に、後ろから声をかけられた。
振り向くと、蘇芳が立っていた。
正直、びびった。古川蘇芳といえば、夏休み前にあまり芳しいうわさは聞かなかったし、何より人としゃべっているのを見たことがない。なんとなく、人を寄せ付けない一匹狼的なイメージが出来上がっていたし、怖そうな印象を抱いていた。
そんな彼が自分から話しかけてきた。でも、何だか思っていたより怖いと感じなかった。
何しろ、自分のことを「くん」づけで呼んだのだ。
番匠は、なんだか蘇芳に興味が出てきた。
「何?古川君」
「あ、いや、その・・・・ちょっと、聞きたいことがあるんだ」
おまけに、蘇芳はなんだか照れているように見える。
「番匠君、小さい弟がいるってきいたんだけど・・・」
「?うん、いるよ。今、小学2年生」
「そのくらいの子って、今どんなものが流行ってるのか、教えてほしいんだ」
「え、どうして?」
「あ、いや・・・・知り合いで、そのくらいの男の子がいて、もうすぐ誕生日だからさ、その・・・・俺、あんまりそういうのよくわからなくて」
蘇芳はなんだか照れているように、語尾が小さくなる。
意外だ。あまりに意外だ。
ひょっとしてこいつって、ただ単に人付き合いの仕方を知らないだけで、すごいいいやつなんじゃないか?
番匠は何だかうれしくなってきた。
「そーだな、俺もいまいちわからないから、聞いてくるよ。今日は高橋たちと約束があるから、もしよかったら明日どっかで会わないか?」
蘇芳はものすごくびっくりした。人懐っこいやつだとは思っていたが、クラスでも煙たがられている自分にストレートにつきあおうとするとは思わなかった。
番匠は蘇芳のびっくりを尻目にどんどんひとりで話を進めている。
「そーだな、俺、ちょうど服買いに行こうと思ってたんだ。明日、朝10時に渋谷のハチ公の前で待ち合わせな。」
「あ、ああ、わかった」
「んじゃ、俺、行かなきゃ。明日な」
番匠はさっさと行ってしまった。
蘇芳は呆然と後に残されている。
世の中には勢いのあるやつが結構いるものだ。一平といい、番匠といい。
それにしても、よりにもよって、渋谷とは・・・
勢いでつい承諾してしまったとはいえ、自分の一番苦手そうな場所を指定され、ちょっと困ってしまう蘇芳だった。
翌日、番匠は少しだけ寝坊した。
あわてて電車に飛び乗って、渋谷へ向かう途中、蘇芳に10分ほど遅れるとメールをしようとして、携帯の番号もメアドも聞くのを忘れたことを思い出す。
待ち合わせ場所に駆けつけると、ベージュのチノパンに白っぽいストライプの綿シャツを着た蘇芳が所在無げにハチ公をみあげていた。対照的に、番匠はカーキ色のハーフパンツに黒のタンクトップ、メッシュのキャップといういかにも渋谷的ないでたちだ。
「悪い!寝坊した!」
番匠が汗だくで謝る。
「いや、いいよ。俺のほうが頼んだんだから」
蘇芳が答える。
二人はそれから109をめざして歩き出した。
「ところで、古川、なんでハチ公なんかみてたの?」
「え・・・渋谷ってあんまり来たことなかったからさ、想像してたのより小さいなーって思って・・・」
「渋谷って来ないの?じゃ、どういうところで遊んでんの?」
「あんまり人ごみが得意じゃないんだ。大体、公園か図書館か・・・」
「マジ?! じゃ、悪かったかな、渋谷なんて指定して」
「あ、いや、あんまりこないから珍しくていいよ・・・」
しゃべりながら109に入る。
「そうそう、で、本題だけどさ、だめなんだ、うちの弟、自分のほしいものしか言わないの。」
番匠が困ったように頭をかいた。
「でさ、いろいろ考えたんだけど、ちょっとつきあってもらえるかな。いいの、考えたんだ」
109に入るのかと思ったら、それを通り越して道玄坂をどんどん登っていく。だんだん渋谷的な喧騒を離れたころ、細い路地を左に曲がった。
「ほら、ここ」
番匠の指差した先にあったのは、オレンジ色のアーケードのついた古びた一軒の商店だった。消えかけたアーケードの文字は「琴平模型店」と読める。
「あんまり難しいのは無理かもしれないけど、俺、そのくらいから実は好きなんだよ、プラモ。だから、どうかなーとおもって」
がらがらっとガラス戸を開けて店内へ入ると、昔ながらにプラモの箱が所狭しと積んである。
「おう、拓坊、久しぶりじゃないか」
眼鏡をかけた波平さんのような容貌の店主が番匠に声をかける。
「こんちはー」
人懐っこく笑いかけると、まっすぐ店主の元へ行く。店主は番匠の後ろにいる派手な外見の蘇芳をちら、っと見てから立ち上がった。
「おじちゃん、小学2年生くらいでも作れるやつってあるかな?」
「なんだい、弟にプレゼントか?」
「いや、俺じゃなくて、友達が」
といって蘇芳に向かって軽くあごをしゃくる。
「知り合いの子にプレゼントしたいって、相談されたんだよ」
「ふうん、じゃあ」
店主は店内をすいっと回って、迷うことなく3つの箱を出してきた。
「おすすめはこのくらいかな」
3つの箱は、それぞれ違った種類の模型だった。一つ目は、青いスポーツカー。二つ目は白地に黒のパトカー。3つ目は赤いセスナ機の模型だった。
蘇芳はしばらく考えて、赤いセスナを手に取った。
「・・・確か、飛行機すきだって、いってたかな・・・」
代金を払い、店を後にする。
道玄坂へ戻りながら、ぽつりと蘇芳が言った。
「あの・・・番匠くん、ありがとう」
「いやいや、それよか、次は俺の買い物に付き合えよ。それから、俺のことは『拓海』でいいよ。俺も古川のこと・・・」
ちょっと考えて、付け加えた。
「なあ、お前の下の名前、なんて読むんだ?」
その夜は、蘇芳はちょっと浮かれていた。
なにしろ、クラスで初めて友達を作ったようなものだ。
あの模型店を出てから、拓海は(蘇芳は彼の言ったとおり拓海と呼ぶことにした)蘇芳のファッションはオヤジくさいとか何とか言って、109に連れ込み、無理やりにダメージジーンズだのストリート系のTシャツだのを買わせて、強制的にトイレで着替えさせ、これまた行ったことがないという蘇芳のためと称して、昼食はお好み焼き屋に入った。午後はCDショップをはしごしたり、これまた蘇芳には初体験のカラオケボックスへ行ったりと、実にじっくりと遊び倒した。
そのほとんどが蘇芳には初めてのことで、ちょっとしたカルチャーショックだった。
そういえば、夢中で遊んでいたからか、不思議と今日は頭痛が起きなかった。
人の思考が無理やり頭に入ってくるようなこともなかったような気がする。
(そうか・・・・)
ちょっと、自分の特殊な力をコントロールする方法のきっかけを掴んだように思った。
だからこそ、ますます浮かれていたのだ。
浮かれていて・・・だから、気がつかなかった。
自分の周りに、異変がおこりつつあったことに。
深夜。
日常業務を終えて寝支度をしていた駿河は、なにやら物音を聞いたような気がした。
2階の廊下の一番奥、蔵人の部屋のほうだ。
脱ぎかけたYシャツを羽織りなおし、そっと蔵人の部屋へ向かう。
「旦那様?」
控えめに叩いたノックの音が、何だか妙に乾いた音で、柄にもなく駿河は不安に駆られた。
「失礼します、旦那様・・・・」
開いたドアの向こうに駿河がみたものは、床に倒れ伏した蔵人の姿だった。
結局、駿河が呼んだ救急車も役には立たなかった。
蘇芳の父・蔵人は、その夜脳梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。
それから数日間、上を下への騒動で、やれ告別式だ社葬だと駆け回り、蘇芳はすっかり参ってしまった。第一、自分の一番の理解者を失ったのだ。呆然としていても仕方がないのだが、そうはさせてもらえなかった。
駿河に手伝ってもらったとはいえ、蘇芳はかなりよくきびきびと行動した。決断し、采配し、それは、父への恩返しのつもりだったのかもしれないが、周囲の人間をうならせるだけのものがそこにはあった。
やっとひと段落がついた頃、今度は弁護士がやってきた。
「蔵人様の遺言でございます」
弁護士は恭しく封印された書状を開封した。
「ひとつ、古川家の財産は長男・蘇芳が受け継ぐものとする。ただし、妻・紘代と次男・ヒカルにも私の所有する会社の株券の一部と横浜の土地を含む別宅、現金資産の20%を相続させる」
さらにページをめくる。
「ひとつ、昴グループの総帥の座は長男・蘇芳に譲るものとする。ただし、蘇芳が大学を卒業する以前に私が他界した場合は、後見人をおくものとし・・・・・」
話はまだまだ続いていたが、蘇芳はもう頭の中が真っ白だった。
正直、古川家も昴グループも受け継ぐ気はさらさらなかった。
だから、
「すみません、考える時間を、ください・・・」
としか返事ができなかった。
やっと自室に戻ると、タイミングを計ったようにドアがノックされた。
「どうぞ」
返事をすると、白いトレーに湯気のたった紅茶のカップとポットを載せて、メイド頭の佐藤が入ってきた。
「お疲れになりましたでしょ。お休みになる前に一息いれてください。」
蘇芳の座っている一人がけのソファの横のテーブルに静かに紅茶セットを並べる。最後にチョコレートの2つ載った小皿を置きながら、
「内緒ですけど、ちょっとだけブランデーをたらしてありますから。」
と、笑って見せた。
蘇芳は実のところ、この佐藤女史が苦手だった。にこやかにしていても、蘇芳に対してマイナスの感情を強く持っているひとりだったからだ。仕事なので、それを理由に蘇芳にいじわるをしたりということは決してなかったし、会ったばかりの頃にそれを感じ取ってしまってからは蘇芳も相手の心を見るような真似はしていなかったが、やっぱり態度のそこここにそんな感情が見て取れる気がしていた。
「ありがと、佐藤さん」
熱い紅茶に蘇芳が口をつけるのを見て、佐藤は思い切ったように言った。
「蘇芳さま、お父様の遺言どおりになさいまし」
えっ?と蘇芳は自分の耳を疑った。佐藤の顔を見ると、いつになく柔和な表情で蘇芳を見ている。
「正直言って、私は蘇芳さまが後継者になることには反対しておりました。蔵人様がどうして蘇芳様をそんなに推されているのかわかりかねておりました。でも、ここ数日の蘇芳さまをみていて、なんだか私にもわかったような気がするんです。蘇芳さまが蔵人様をどれだけ頼りにしていたかは私もさすがに知っておりましたし、だからきっと蔵人様がお亡くなりになって、きっと蘇芳さまは・・・申し訳ありません、何もできないんじゃないかって・・・でも、蘇芳さまは立派にご長男として、名代として責任を果たされました。私、それをみて自分の見る目のなさに恥ずかしくなりましたわ。
きっと、蘇芳さまは奥様やヒカルさまに遠慮なさってたんですね。でも、遠慮なさることはありません。蘇芳さまならきっとできます」
「佐藤さん・・・そんな、俺は」
逆に蘇芳のほうが恥ずかしくなってきた。
佐藤が自分のことを心の奥底で疎んでいると思ってきた。紘代とヒカルの出て行った日から、屋敷のみんなが自分を冷たい目で見ていると思ってきた。
けれど、人間は変わるものだというのを忘れていたのだ。
自分を疎ましく思っていた佐藤が、たったこの数日間の出来事だけで180度自分への評価を変えるとは思えない。つまるところ、彼女はこの10年間で少しずつ蘇芳への評価を変えてきていたのだ。それをはっきりと言葉で伝えるきっかけは確かに父の一連の葬儀だったかもしれないが、彼女の中のマイナスの感情が少しずつ質を変えてきていることに蘇芳はずっと気がついていなかったのだ。
相手が自分を避けている。そう思うことで、自分のほうが相手を避けていたということに、蘇芳はこのとき初めて気がついたのだ。
「ごめん・・・・・・佐藤さん、ごめん」
蘇芳は思わず顔を覆った。
人は変わる。変わっていける。
きっと自分もより良いほうへ変わっていけるはずだ。
蘇芳は、もうこのとき心のどこかで決心を固めていた。
遺言書のとおりに事を運ぶことが決まり、蘇芳の周りはさらにあわただしくなってきた。
あれきり拓海や一平と会う機会もなく(拓海とメールはしていたが)、気がついたら夏休みも終わり。もう明日は2学期の始まりだ。
蔵人の配慮で、大学卒業までは総裁に就任したことを世間的には伏せ、また学業をきちんと続けることもできるようにはなっていたので、始業式の日から蘇芳は登校した。
とはいえ、連日のばたばたで疲れていて、起きたときはもう家を出なければならないぎりぎりの時間だった。
あわてて制服に着替え、かばんをひっつかんで、朝食も摂らずに家を飛び出す。学校に行けば拓海がいるし、帰りに公園に寄れば一平にも会えるだろう。慌てながらもそれを楽しみにしている自分がちょっとくすぐったい。
蘇芳が教室に駆け込んだのは始業チャイムの1分前だった。
「おっはよ、蘇芳」
拓海が声をかけてきた。
「た・・・・・たくみ・・・・・お、おはよ・・・・」
こんなに走ったのは久しぶりだ。息が上がって、まともにしゃべれない。
「珍しいじゃん、いつもおまえ朝は早いだろ?」
「きょ・・・今日は、ねぼう・・・しちゃって」
はああ~、と大きく息をはいて、呼吸を立て直す。
「ところでさ、今朝のニュース聞いたか?」
「え?」
「夕べ、このあたりで強盗があってさ、1家4人死傷、ってやつ。二人の子供のうち男の子が助かったんだけど、これがまた小学2年生だって言うんだよ・・・なんか最近小学2年に縁があるなあ、と思ってさ」
言いながら拓海はかばんから朝刊を取り出した。最後のほうを開くと、社会面に割りと大きくそのニュースは載っていた。
担任の教師がまだ教室に現れないのをいいことに、しばらくその記事を読んでいた蘇芳は、やがて、自分の顔から血の気が引いていくのをはっきりと自覚した。記事にはこう書かれていた。
『4日未明、××区○○の会社員・麻生幸平さん(36)の自宅に強盗が押し入り、麻生さんと妻の美津代さん(32)、環ちゃん(5)を刃物で刺して殺害、さらに麻生さんの息子の一平君(8)に重傷を負わせ・・・・』
「蘇芳?どうした?」
「拓海・・・・拓海、悪い、俺、帰らなきゃ」
「ええ?!もうすぐ先生くるぜ?!」
「腹壊して帰ったとでも言っといて!」
まだ机の上に載せたままだったかばんをひっつかみ、教室を駆け出した。
階段を1階かけおりたところで、担任とすれ違ったが、瞬間、自分に会わなかったというふうに暗示をかける。やったことはなかったが、夢中だったからか、どうやら成功したようだ。
いつもの公園に駆け込む。そして、いつものベンチへ向かう。
どさっと腰を下ろして、コンセントレーションを図る。すぐに、公園のまわりで噂話をしている主婦たちの会話が耳に入ってきた。
「ええ・・・一平君だけ生き残って。家族が殺されるところ、見ちゃったらしいわよ・・・今?今はほら、吉田総合病院に入院してるらしいわよ・・・」
吉田総合病院は、公立の、このあたりでは一番大きな病院だ。すぐにそこへ向かう。
病院の外は、結構な報道陣の数だった。ショッキングな、新しいニュースだからだろう、ワイドショーのための中継をしているのだろうか?その脇をすり抜け、病院に入る。
病院の中も、ちょうど診察開始の時間にあたっていて結構な込み具合だった。その中を目立たないようにすりぬけ、トイレに入る。
ドアに鍵をかけ、洋式の便器に腰掛けて、テレパシーを飛ばして一平を探す。
2階・・・・3階・・・・5階・・・・
居た。目を覚ましている。
静かに窓の外を眺めているようだ。
蘇芳は、まずはほっとした。重傷と聞いていたが、命にかかわるような怪我ではなさそうだ。腕を骨折しているのと、2,3箇所浅い切り傷が見えるだけだ。
さて、ニュースに驚いてあわててここまで来たものの、あかの他人である自分に何ができるのだろうか。
一平の無事を確認してちょっと冷えた頭で考え始めたとき、ふと、ちいさな波のようなものを感じた。
波・・・というより、波動?
自分と同じような、常人とは異質な気配。
今、蘇芳は一平の居場所を透視しているようなもので、一平の心の中を覗いているわけではない。それでも、わかる。
一平は、一平の精神は恐ろしく研ぎ澄まされている。多分、周りから見ればショックで茫然自失としているようにしか見えないだろう。だが、蘇芳にはわかる。今、一平は自分の精神活動のすべてをひとつの方向に向けているのだ。
彼は見てしまった。今まで失うことなど考えてもみなかった家族の命が、次々に奪われていくところを。命の炎の、最期の輝きのすべてを一平を逃がすことに費やして、「逃げて」と微笑んだ母の顔を。
・・・・そして、その惨劇をひきおこしたひとりの男の顔を。
一平の家族を惨殺した犯人は、一平が逃げ出して助けを求めて駆け込んだ隣家の人間の通報で駆けつけた警察に、すぐに逮捕された。現場から少し離れた川に血のついた着衣や凶器を投げ捨てようとしていたところを発見されたのだ。今は警察の留置場にいるはずだ。
一平の精神は、その犯人に向けられている。
ふつふつと小さな泡がたつように、絶え間なく沸き起こってくる、マイナスの感情。
蘇芳は気がついた。一平の心が、離れた自分のところにまで聞こえてきている。それほどに強い思い。
<オレハ、アイツヲ、ユルサナイ>
それと一緒に感じる、この異質な気配。
<オレニハ、ワカル。オレハ、アイツヲコロスチカラヲモッテイル>
「いけない、だめだ、一平!!」
思わず立ち上がり、声を出して叫ぶ。
トイレから駆け出して、一平の病室へは向かわず病院からとびだす。向かう先は・・・犯人が留置されている、警察署。
見に行くまでもない。一平はそこへ向かったはずだ。
テレポートで。
おそらく、事件のショックで眠っていた力が目覚めてしまったのだろう。あるいは、以前から知っていたのかもしれないが、いずれにしても一平は「能力者」だった。蘇芳自身、自分以外の「能力者」に出くわすのは初めてだが、わかるものはわかる。おそらく、蘇芳とは違い、PK能力者だろう。
だとすると、一平が考えていたとおり、おそらく一平は犯人を殺せる。留置場にも入れる。
(だめだ、一平、そんなことをしちゃだめだ!)
蘇芳は走りながら一心に思考を送り続ける。
だが、一平の心はかたくなで、そんな言葉の届く余地はない。
まして、病院の中と違い、空間的な距離もある。蘇芳は歯噛みした。
蘇芳にとって、一平はもはや大事な人間になっている。自分を変えるきっかけをくれた子供。自分を行き詰った世界から救ってくれた恩人のようなものだ。今となってはまるで弟のような気さえする。
止めなければ。何としても、一平を止めなければ。
時間はまだ午前中なのに、留置場の中は薄暗い。
あと10分もすれば、刑事が事情聴取を始めるだろう。
犯人の男はただじっと部屋の隅に座っていた。
ただ無機質なだけのカーペットをじっと眺めている。
「・・・なにを見てるの?」
声がした。犯人の男は動かない。
「今、何を考えてるの?」
男はそのとき、初めて事の異様さに気がついた。
子供の声だ。
「べつに、知りたかないけどね」
恐ろしく冷たい声。男は顔を上げた。
誰もいなかったはずの部屋に、子供が一人立っていた。
パジャマ姿で、片手にギプスをして、あちこちに包帯や絆創膏が見える。
無表情だった男の顔に、ゆるやかに驚愕が訪れる。
「お・・・・おまえは!」
「へえ、俺の顔、覚えてたんだ。あんな虫けらみたいにみんなを殺したんだから、虫けらの顔なんて覚えてないと思ってたよ」
「ど、ど、どうやって・・・」
「知る必要はないよ。だってさ、おまえは今ここで死んじゃうんだから」
そういって一平はギプスをしていない右手をすっと前に突き出した。
「ぐっ・・・・・・!!」
男は急に呼吸ができなくなった。何か、見えない手のようなものに鼻と口をふさがれてしまったような感じがする。
一平の目が、暗く暗く光っている。
男はその目にものすごい恐怖を感じた。
そのとき。
<一平!やめろ!>
声が響いた。
「・・・蘇芳の、にいちゃん?」
蘇芳がやっと警察署の外までたどり着き、自分に可能な最大のボリュームで思念を送っているのだ。
一平はなんとなくそれを当然のことのように受け止めていた。
「だめだよ、こんなやつ、苦しめて殺してやらなきゃ」
声に出してこたえる。
<だめだ!だめだ一平!どんな理由があろうと、お前が手をかけちゃいけないんだ!!>
「父さんを・・・母さんを、環を、あんな目に合わせて、許せるわけ、ないよ」
何の抑揚もないような冷たいしゃべり口調にぞっとする。これが、小学2年の言葉か?
そして一平は、伸ばした手にさらに力を込める・・・・・・・
<やめろおおおおおおお!>
だが、急に一平の手から力が抜けた。なにか暖かいものが一平の手に触れたような気がしたのだ。
手だ。
半分、透き通って見えるその手には、見覚えがあった。
一平は手の先を見た。
「お…かあ…さん?」
ぼんやりと見える笑顔は、確かに母のものだった。一平は力を抜いた。
途端に犯人の男はむせ返りながら床に倒れこんだ。だがすでに失禁しながら気絶している。
「おかあさん・・・おかあさん!なんで・・・」
言葉ではなく、思いが一平の頭に流れ込んでくる。
<そんなことをしてはだめ。父さんも母さんも環も、そんなことしてほしいとはおもってないわ。私たちのせいで一平が人殺しになってしまったら、みんな悲しいわ・・・ね、だから一平は一平で、幸せになって・・・ね>
そして、ふわりと一平の頭をなでるように手が動いて・・・
そして、消えた。
あとには気絶した男と、小さな一平だけが残った。
看護婦の目を盗んでそっと病室のドアをノックする。
一平はもう病室に戻ってきていた。ベッドに上半身を起こして座り、窓の外を見ている。
「蘇芳のにいちゃん・・・俺、あいつ、殺せなかったよ」
振り向きもしないで一平がポツリとつぶやいた。
「ああ」
ベッド脇に立って、蘇芳が答える。
「どうしてお母さんがでてきたの?蘇芳のにいちゃんがやったの?」
「いや、違う」
ちょっと考えてから続けた。
「おそらく、俺や一平の力の影響みたいなものだろうな。俺もお前も、フルパワーだっただろ?だから、一平のお母さんの・・・なんていうか、残して行った気持ちみたいなのが俺たちの力の影響でパワーアップして、ええと・・・あんな形で現れたっていうか。俺は心霊系はからきしだから、正確なところはわからないや」
「うん、俺もわかんない」
一平はぽつりというと、顔は窓のほうに向けたまま、うつむいた。
「これで・・・よかったんだよね」
「ああ」
「俺・・・俺・・・」
小刻みに肩が震えている。
蘇芳はベッドに腰掛けて、一平の肩を抱きしめた。
とたんに、一平の目から大粒の涙が溢れ出す。とどまるところを知らず、一平は蘇芳に抱きついて号泣した。
今まで泣くことができなかった分を取り返すように、そして、家族の死を受け入れるように。
それから2ヶ月ほどがたった。
秋の気配の深まる中、蘇芳は駿河を伴ってとある施設を訪れた。
半月ほど前に退院した一平は、今、ここにいるはずだ。
一平の両親は、身寄りがなかった。つまり、一平は家族の死とともに天涯孤独の身になってしまったのだ。あとは、施設に入るほかなかった。
蘇芳はまず施設の責任者に挨拶をし、いくつかの事務的なことについて話をした。のこりの手続きは駿河に任せ、子供たちが今遊んでいるという庭のほうへ向かう。
小春日和の太陽の降り注ぐ庭には、数人の子供が思い思いに遊んでいる。
やっとギプスのとれたばかりの一平もいて、数人でサッカーをしていた。だが、蘇芳に気がつくと、すぐに蘇芳の元へ走ってきた。
「蘇芳のにいちゃん!」
「よ、一平、元気だったか」
病院には足しげく(病院関係者の目を盗んで)見舞いに行っていたが、施設に移ってからは会いに来たのは初めてだった。
「どーしてたんだよ」
「いや、いろいろ事務的なことがあってさ、片付けるのに半月もかかっちゃったんだ」
「じむてき?って何?」
「あ、いや、その・・・・」
あんなことのあった後なのに、一平の目は五月の空のようにきらきらとしている。蘇芳にとっては、なんだかまぶしくてしょうがない。
「まずは、これ。ずっと渡しそびれてたんだ」
包装された箱を差し出す。包装紙に「琴平模型店」の文字が見える。
「なに?これ」
「誕生日のプレゼント。3ヶ月もたっちゃったなあ」
「えーーー!サンキュ!!」
がさがさと包みを開けると、赤いセスナ機の絵が大きく印刷された箱がでてきた。
「あっ!プラモ?セスナだ!ありがとう!にいちゃん!!」
どうやらヒットだったらしい。一平は本当にうれしそうに箱を開けて中の部品を検分している。
地面に座り込んだ一平の横にしゃがんで、蘇芳は話しかけた。
「ところでさ、ひとつ相談があるんだけど」
「なに?」
「そのプラモ、うちで一緒に作らないか?」
「へ?無理だよ、1日じゃ俺、作れないよ」
「だからさ」
ぽりぽりと頭をかく。
「これからずっと俺んちで住まないかってことだよ」
「ええ?!」
「一平さえよければ、だけどさ」
しばらくぽかんと口を開けてびっくりした顔をしていた一平は、やがていたずらっ子っぽい笑いを浮かべた。
「何だよ~、朝から晩まで俺に愚痴を聞かせるつもり?」
「そ。嫌だったらいいんだぜ?」
蘇芳もいたずらっぽく笑って返す。
「しゃーないなあ、いってやるか!」
抜けるような澄み切った秋空の元、心底うれしそうな表情の、それが一平の返事だった。
<FIN>