02/Ventose
◆いつかの、どこか◆
たとえ死んででも、救いたかった。
あったのは、ただそれだけの願い。
◆いま、げんざい◆
左肩と顎で、木製の胴体を挟み、しっかりと支える。
ネックに左手を添え、小さく息を吐き出す。まぶたを閉じる。暗闇の中に、そっと意識を横たえる。
「――――」
たったそれだけの動作で、手にした楽器と私の体が、連結する。
私の身体を、ただ音を奏でるだけの、一挺の楽器へ造り替えるための自己暗示。
右手に持った弓を、水平に滑らせる。張りつめた弦がしなり、震え、うなり、ひずみ、共鳴して、やがて、静かに爆ぜた。
機械のように、なめらかで精密な運弓。
おごそかな旋律が、ただ白いばかりの聖域に、か細く、そら寒く反響する。
「――、――」
そして、私は。
私自身が奏でているはずの音を、どこか遠い場所で、他人ごとみたいに聴いていて――
「すごいすごぉいっ。先輩、上手ですねぇっ!」
「……?」
と。
無人だったはずの部屋に、そんな脳天気な声が響いた。ものの一秒で、私は高性能な楽器から、一介のイキモノへと引き戻された。閉じていた瞼を開く。
「ヴァンせーんぱい! ただいま帰りました!」
「……ヴィオ」
長らく謹慎処分を受けていたはずの後輩は、最後に見たときと、何ら変わりのない笑顔を浮かべて立っていた。
「やー参りましたよぉ、あそこ本当に何にもなくってヒマでヒマで仕方なくって、もうずぅっとひとりぽっちで、さびしくてもう!」
小柄な身体を、仔犬のしっぽみたいに揺らしながら、いつかぶりの後輩――プリュヴィオーズが、テーブルに駆け寄ってくる。
「あー、先輩ずるい、私も紅茶のみたいです――って、ああぁっ、それ私が大事にとっておいたクッキー! もー、どうして勝手に食べてんですよぅ……! ――ところで先輩、どうしてひとりぼっちなんですか?」
相変わらずやかましい後輩から視線をそらし、私は弓を下ろした。
「みんな仕事。今は、私ひとりだけ」
「あら。みなさん総出なんて、珍しいですねぇ」
「静かでいいわ」
「んー、ヴァン先輩らしいですね。私は、静かなのはしばらくこりごりですけど」
ヴィオはマシュマロのように笑うと、私の正面に腰掛けた。予備のカップに琥珀色の液体をそそぎ、ビンの中の角砂糖を、ぽいぽいと際限なく放りこんでいく。
「ああ……久々の紅茶です」
「それはもはや、紅茶じゃないわ……」
溶けきらなかった砂糖が、流砂状になってカップの底に沈殿していた。甘さに塗りつぶされて、香りもへったくれもないだろうに。
ただの砂糖水と化した紅茶を、美味しそうに口にするヴィオを見つめながら、私は思わず肩をすくめた。
「――甘いのね」
「え? あ、はい。それはもう! 実は私、何を隠そう大の甘党でして……」
「そうじゃなくて」
すっかり冷めてしまった紅茶の水面を眺めながら、私は静かに言い放つ。
「……正直、もう一度あなたと会えるなんて、思っていなかったもの」
私たちに課せられた役割は〝命の回収〟だ。
命の〝残量〟を、死にかけの魂から斬り離し、持ち帰る――そのためだけに存在する、自由意志なんて一片も介在しない回収装置。
命を消すことはできても、蘇らせる権限なんて、あるはずもない。その規則をものの見事にやぶったプリヴィオーズは、ずいぶんと長い期間、幽閉されていたのだ。
もっとも、私達には、過去や未来といった『時間』の概念は適用されないに等しいので、懲罰としての意味合いは薄いけれど。
「――命をもてあそんだあなたが、またここに戻って来られるなんて、夢にも思ってなかった」
遠慮のない私の言い回しに、しかしヴィオは気を悪くした様子もなく、嬉しそうにクッキーにかじりついた。
「えへへ。いいんです、私が正しいと思ってやったことですから。後悔なんてしてません」
「そ」
もう何を言ったところで、この娘はのれんに腕押しだろう。ため息をつき、手にしたヴァイオリンをケースの中にしまい込んだ。
「……? なに見てるの?」
見ると、ヴィオがクッキーをくわえたまま、熱烈な視線でこちらを見つめていた。正確には、たった今ケースの中に収まったヴァイオリンを、だ。
「よくお手入れしてありますよね、それ。古そうなものなのに」
ヴィオはきらきらと目を輝かせながら、私のヴァイオリンを食い入るように凝視している。
「……弾いてみる?」
こっちから振ってあげないと、いつまでもそうしていそうなので、呆れまじりに声をかけた。
「あっ、いえ、そういう意味じゃなくって……っ、ていうかそもそも私、楽器弾けないですし――!」
「じゃあ、その手はなによ……」
不承不承、ケースからふたたびヴァイオリンを取り出した。
立ち上がり、ヴィオの正面に椅子を並べなおす。
「ほら、肩と顎で、ここをはさむの。そしたら、左手でネックを持って」
「えっと、あれ? わ……落ちる!」
「ちょっと、落とさないで!」
……その後、数十分におよぶ悪戦苦闘のすえ、どうにか基本姿勢だけはさまになった。
「わーい。見て見てヴァン先輩! 私ってば、カッコよくないですかー? 世界がうらやむ美人ソリストってかんじ!」
「弾ければね……」
椅子に座りなおした瞬間、どっと疲れが沸いてきた。
ここまで物覚えの悪い子は、――本当にひさしぶりだ。
「そういえば、今まで聞いたことなかったんですけどー」
弓を引くまねをしながら、ヴィオは屈託のない声音で訊ねてくる。
「なに。少し、休ませてほしいんだけど」
「ヴァン先輩って〝仕事〟のとき、どうしていつもヴァイオリンを使ってるんです?」
ヴィオの視線の先には、銀色の短剣が、無造作に床に刺さっている。
柄の部分は、歯車が剥き出しになった時計じかけの意匠で、かちりと金属的な音を立てて針が回っている。
あれが、本来、私が用いるべき〝鎌〟――命と魂を断ち切るための装備だ。
「変かしら? 鎌を使わない、死神なんて」
自嘲めいた笑みを返す私に、ヴィオはぶんぶんとかぶりを振った。長い髪が、ばさばさと豪快に振り乱れる。
「そんなことありませんっ。たしかに非効率的だとは思いますけど、そういうのって、すてきだなって――なんだか、うらやましくなっちゃって」
「あなたの鎌は、悪趣味だものね」
「悪趣味なんかじゃないですよぅ……昔絵本で見たのは、ああいうかんじでしたし……」
私の軽口に、ヴィオは心外そうに頬をふくらませる。私は苦笑し、冷めた紅茶を口に含んだ。甘い香りが、口の中に広がる。
「どうしてヴァイオリンなんて使うのか――ね」
ヴィオが手にした楽器を見やりながら、私は独り言のようにささやいた。人の命を切断するには、あまりにも頼りない、芸術と娯楽のための道具。
「……自分でも、わからないわ」
それは――記憶の隅で摩耗を続けているだけの、錆び付き歪んだ、ただひとつの約束。
◆三日まえ◆
「――そっか! あなたはきっと天使なのね!」
それが、私の姿を見た少女の、第一声だった。
◇
「いえ、というか――むしろ」
頬を掻きつつ、言いよどむ私に、少女は亜麻色の髪をゆらして微笑んだ。
「んーん、いいんだ。あなたが誰だって、私を訪ねてきてくれたことにかわりはないんだし。お客様は歓迎しないとね」
翡翠色のあどけない瞳が、私の顔をじぃっとのぞき込んでくる。
長い髪も、見にまとったワンピースも、瞳の色さえも、すべてがチェス盤のようなチェック模様につつまれた、異容な私のなりを見ても、彼女は恐れる様子を少しも見せなかった。
「……あなたは、私が怖くないの?」
「怖いって、別に? どうして?」
あまりにもあっけらかんとした少女の様子を見て、私は逆に心配になる。
出逢ったその瞬間に、私は洗いざらい、目の前の少女に、事実を告げたはずなのに。
〝死神〟が何者なのかも。
現世から遮断された、この病室の意味も。
――あと三日で、少女の命が尽きてしまうことも。
その事実をすべて聞き届けたうえで、少女はなお、私のことを〝天使〟と表現したのである。
冗談にしたって、皮肉がすぎる。
「……こほん」
せき払いをひとつ。
気をとりなおし、私は少女の名前を唱える。
「アンジェリク=グラッセ。一九八二年、フランスのパリに生まれる。十二歳。両親共に、世界的に有名な音楽家であり――」
私はいったん言葉を切る。
ベッドのかたすみで、凍てついたように眠っている楽器のケースを、横目で見やる。
「あなた自身も、将来を嘱望された天才ヴァイオリニスト。――けれど、十歳のころに突如、慢性疲労症候群を発症。全身麻痺患者となり、現在に至る――」
生まれた場所、家族構成、性格、嗜好、過去――私が知ろうと〝思う〟だけで、少女の情報が、エサに群がる生け簀のサカナみたいに集まってくる。
〝仕事〟を円滑に進めるため、私たちに設けられた機能の一端である。
「……すごぉい! 私まだ、何にも教えてないのに!」
みずからの境遇を、あらためて認識させられたはずの少女――アンジェリクは、けれど、悲観する様子なんて少しも見せなかった。
白いベッドの上で、小さな両手を合わせながら、しきりに感心するばかりだ。
「お姉ちゃんは、魔法使いなんだね。ドアも開けずに突然あらわれたり、私の名前を当てちゃったり……動かなくなった私のからだを、元通りに治してくれたり」
「天使の次は、魔法使い?」
えらい持ち上げられようだけど、残念ながら、私はそこまで夢のある存在じゃない。
命の残滓を刈り取るだけの、ただの装置。
アンジェリクが思い描くようなメルヘンさなんて、微塵もないのだ。
「……それで、さっき、私がもうすぐ死んじゃうって言ってたけど?」
世間話のような気軽さで、アンジェリクが訪ねてくる。
「ええ。正確には、あと二日と二十三時間十九分。死因は、心不全ですって。その若さで、運がないわね、アンジェリク」
ベッドに腰を下ろしながら、私は肩をすくめた。
けどまあ、〝死〟なんてもの、いずれは誰にでも訪れる自然現象にすぎないのだから、諦めてもらうしかない。
「アンジェでいいよ」
「……いいって、なにが?」
「なにがって、私の名前。そのほうが呼びやすいでしょ?」
あまりにも脈絡のない申し出に、返答に窮してしまう。
「そういえば、まだ訊いてなかったよね。あなたのお名前、なぁに?」
のんびりとした口調で、アンジェが訪ねてくる。
私は少しだけ考えて、自分の称号を口にする。
「……〈ヴァントーズ〉」
「ふぅん……風月かぁ。――うん! それって、あなたにぴったりだよね」
アンジェはしきりと頷きながら、ひとり納得する。
「じゃあね、じゃあね。ヴァントーズにお願いがあるんだ」
「?」
きらきらと目を輝かせるアンジェだけど、あいにく、私には〝お願いを叶える〟権限なんて与えられていない
私にできるのは、当然だけど、できることだけ。
身構える私の服をつかみながら、アンジェは、ないしょ話をする子供のように声をひそめた。
「最期まで、私のそばにいてくれないかな?」
弱々しいその様子を見て、私は、人間だった頃の自分を思い出す。
◆ずっとまえ◆
昔の私――今はヴァントーズと呼ばれているモノ――は、生まれたときから身体が弱かった。
身体の中のあちこちが、欠陥だらけの出来そこないで、長くは生きられないと、医者からも告げられていた。
当然、学校なんかに行けるはずもなく、外に出ることさえ許されない。
私にとっての現実は、自室の小さなベッドの上だけで起きる絵空事だ。
さいわいと言うべきか、中身はボロボロの不良品だった私も、外見だけは奇蹟みたいに整っていて、自分で言うのもなんだけれど、神さまがあつらえた人形みたいだったと思う。
余命いくばくもない私のことを、それでも両親が大切に育ててくれたのは、純粋な愛情というよりも、きっと、貴重で神聖な生き物をこっそりと飼っているような、そんな感覚に近かったのだと思う。
とにかく。
この閉じられた小さな世界で、私は誰から愛されるでもなく、憎まれるでもなく、人知れず枯れていくのだと――おさない頃から、自覚していた。
けれど結局、人生そうは甘くなかった。
出遭いは、父が催した会社のホームパーティの日だ。
私はいつものようにひとりきり、自室のベッドの中に沈んでいた。
カーテンから差し込むわずかな灯りの中でまどろんでいた私は、音を立てて開け放たれたドアの音で跳ね起きた。
〝――あれぇ? また間違えたか〟
海を押し固めたかのような蒼い瞳と、真珠を溶かして梳いた髪。
たぎるような生命力に溢れた、背の高い女の子が、ドアを開けたままの姿勢で立っていた。
〝ねえ、広間まで戻りたいんだけど、道教えてくれない? このお屋敷、むだに広くて〟
初対面であるにもかかわらず、女の子は馴れ馴れしい口調で訊ねてきた。
けれど、同い年くらいの子供と話したことなんて一度もない私は、何を言っていいのかわからず、ただ押し黙るしかない。
女の子はしばらくの間、その場に佇んでいたが、やがて、
〝……ま、いいか。あっちはオジサンばっかでさ。正直、こっちにいた方が楽しそうだ〟
にんまりと笑い、私のベッドに、無遠慮にも腰掛けてきたのだった。
ぎしり、とスプリングがきしみ、私の身体が小さく跳ねる。
〝あなた――なに〟
〝なにって、あんたの親父の下で働いてるしがない部下の、ひとり娘だよ〟
〝そうじゃなくて、どうして、ここに――〟
見ず知らずの他人に、私の世界を侵されるのは、とても不愉快だった。
敵意をあらわに睨みつける私に対して、女の子は薄桃色のくちびるを、弓なりにまげて微笑んだ。
〝どうしてって……たぶん、あんたのことが気になるから?〟
〝―――私が、きれいだからでしょう?〟
私の返答に、女の子は一瞬ぽかんと口をあけ、それから身を折り、くつくつと笑い出した。
〝それ、自分で言っちゃう? ……うん、まあそうだね、確かにあんたはきれいで可愛いよね。細くて、白くて、小さくて、きれいでさ〟
〝当たり前でしょう。だって私は、神さまに愛されてるんだもの〟
〝ふぅん。愛されてるんだ、神さまに?〟
〝そう。ごっそり削られた命のかわりに手に入れた、美術品としての美しさ〟
〝…………〟
ひそかに、固唾を呑む気配が伝わってくる。
私の物言いから、私の命がもう長くないことを、彼女は察したのだろう。こうして目の前で話している人間が、実は壊れかけの死にかけだったなんて、予想だにしなかったに違いない。
〝私は、大人にはなれない代わりに、神さまから美しい身体をもらったの。それって、幸せなことでしょう?〟
〝……もうすぐ死んじゃう人の気持ちってわかんないんだけどさ。そういうのって、怖くならないの?〟
〝怖いって、どうして〟
〝だって、死んじゃうのは、怖いことでしょ? 誰だってそうだよ〟
〝……ああ、そっか。きっとあなた、〈人間〉としての在り方を心配する人なのね〟
ふつうに学校に通って、ふつうに友達と遊んで、ふつうに恋愛をして、ふつうに子供を産んで、ふつうに老いて、死んでいく。
そういう、普遍的な生き方こそが、人間にとっての一番のしあわせなのだと、彼女はきっと信じて疑わないのだ。
――私と、ふつうの人とでは、根本的なタイムスケールが違う。ほとんど、別の生物みたいなものだ。
そんなあいまいなモノの価値観を、むりやり押し付けられるのは、虫酸が走る。
〝私が怖いのは、むだに生きながらえて、この身体が醜く老いさばらえていくことだもの。どんなにきれいな花だって、枯れてしまったら、ただのゴミでしょう〟
美しいモノが、無様に生きながらえて、醜く朽ちていくなんて、きっと許されないことだ。
私の短命さは、造形物としてあらかじめ定められた寿命にすぎない。
〝だから、死ぬのは怖くない。苦しいのも、痛いのも、怖いのも、そんなのしょせん、過程でしかないんだから。
だって、死って――救いでしょう?〟
いつか、本で読んだせりふを引用する。
目にしたその日から、ずっと私の胸の内に残り続ける、その一節。
死は、時の流れから解放されるための救済。
ときには希望のように、ときには病巣のように、私の記憶に灼きついているその言葉は、まるで私に捧げられた料理のように、私の在り方を示していると思う。
〝いや――死んだら終わりでしょ? そんなの、救いなんかじゃないよ〟
眉根をよせて言い張る女の子に、私は穏やかな微笑みを返す。
〝終わりなんかじゃないわ。
――だって私、天使だもの〟
私の身体は、神さまがこしらえたガラス細工。
誰にも知られることなく、ひとしれず生まれて、孤独に朽ちていくだけの、幻想じみた芸術品。
その無価値な在り方こそが、私がこの世に産み落とされた、唯一の価値なのだ。
〝――ふぅん。そっか。天使なんだ。痛いのも、苦しいのも、あんたは平気なんだ?〟
数秒の間を置いて、女の子はぽつりと呟く。
醒めたような、がっかりしたような、冷たい声が、うす暗い部屋に響く。
女の子は、ベッドに腰掛けたままの姿勢で、じぃっと私のことを見つめていた。
陽の当たるセカイで、ふつうに人として生きている彼女には、きっと理解できない感覚なのだろう。
彼女は音もなくベッドから立ち上がった。今のやりとりで、完全に私から興味を失ったにちがいない。
――うん。やっぱり、他人なんてこんなもの。
ひさしぶりに家族以外の人と話したけれど、やっぱり他人なんてつまらない。
そんなことは、とっくの昔からわかっていたことなのに、やっぱり少しだけがっかりしてしまう。
〝じゃあ死ね〟
――なんて思っていたら、突然、視界に火花が散った。
信じがたい衝撃と、するどい痛みが鼻筋に走る。わけがわからないまま、悲鳴すらあげられず、私はベッドに倒れ込んだ。……顔を殴られたのだと理解するまでに、すこし時間がかかった。
〝――しまった。手加減するの忘れたよ〟
ぐわんぐわんと揺れる天井を見つめながら、そんな声を聞く。
少しおくれて、熱をおびた、しびれるようなにぶい痛みが、顔面に押し寄せてくる。
病理的な痛みには慣れていたけれど――こんな暴力的な、野蛮な痛みを経験したのは、ほとんど生まれて初めてだった。
涙が、じーんとあふれ出す。
熱い液体が、鼻からほっぺたを通って、どろどろとシーツに流れ落ちて、赤いシミが溜まっていく。
……鼻血。鼻血だ。
〝何、痛そうな顔してるのよ。
痛いのも苦しいのも、平気なんでしょ?〟
私を殴った張本人の、吐き捨てるような言葉が刺さる。
――こころが、沸騰する。
殴られた痛みよりも、殴られた事実に怒りが湧いてくる。
今まで経験したことのないような、あらがいようのない感情が、熱をともなって、血に乗って全身を駆けめぐって、目の前がまっ赤に染まる。
〝なに? 痛い? 苦しい? ――なんだつまらない。あんたはやっぱり、天使なんかじゃなかったね〟
せせら笑いつつ、こちらを見下ろす彼女の表情は、どこか悪魔的で、私は思わず総毛立つ。
けれど、恐怖以上に、彼女が口にした見当はずれの悪態が許せなくて、私は顔をおさえながら、ほとんど反射的に叫んでいた。
〝……よくも、顔をキズつけたわね――この、くそったれ!」
私は鼻血をまき散らしながら、ベッドから飛び出し、自分よりも頭ひとつ分も大きな女の子に踊りかかった。
体重をのせて体当たりする。勢いあまって、ふたり一緒に床を転げ回る。
私たちは、頭に浮かぶかぎりの罵詈雑言をわめき立てながら、お互いの身体を傷つけあった。
地獄みたいな光景。
――結局、このあとすぐに、騒ぎを聞きつけた父が駆けつけて来て、騒動は終わりを告げた。
当然パーティは中止となり、私は病院に運ばれた。私を殴った女の子の父親は、私の父にこっぴどく叱られることとなった。裁判沙汰にならなかったのが、奇跡だったほどの剣幕だったとか。
そして。
あとで聞いたところによると、騒動の張本人である女の子は、一足先に屋敷から逃げ出したらしい。
まさに、風のような女の子だった
◇
深夜。静まり返った部屋の、ベッドの上で、私はもの思いにふけっていた。
結局、ケガの方は少しアザが残っただけで、大事には至らなかったので、私はその日のうちに病院から帰ってくることができた。
まだ少しだけ、ずきずき痛む頬をおさえる。
――生まれて初めての、感情の炸裂。
誰かにいら立つのも、誰かに傷つけられるのも、誰かを傷つけたのも、ぜんぶが初めてのことで、私は昼間のできごとが実は夢だったのではないかと、ぼんやりした頭で思う。
けれど、顔に残った傷も、胸のうちに残った怒りのしぼりかすも、形をもってたしかに残っている。
天使なのだと信じていた私の身体は、いとも簡単に傷ついた。
私がずっと信じていた現実は、あのひとりの女の子の手によって、いともかんたんに否定されてしまった。
――私は、結局ただの人間なんだろうか?
――私は、死んだらどうなってしまうのだろう?
わけがわからなくて、でも、そのわけのわからなさを、どこにも、誰にもぶつけようがなくて。
暗い部屋で、ひとり孤独で。
私は、つい、泣きたくなる。
〝―――?〟
そこで、私はふと、顔を上げた。
カーテンを敷かれた窓の外で、小さな物音がしたのだ。
こつ、こつ。何かが、窓のガラスを叩く音だ。
ああ、と私はため息をつく。
〝死〟が、私を迎えにきたのだ。
キズモノになって、価値のなくなった不良品の私は、もう用済みなのだと。
とくん、と心臓がはねる。
――もういいか、と、私はうすく笑った。
こんなに孤独で静かな世界なら、もう。
私は、何かをあきらめたような、何かを受け入れるような、不思議な気持ちのままベッドを降りた。
ゆっくりと窓に歩み寄り、おそるおそる、カーテンを引いた。夜の闇に染まった庭園が、あらわになる。
〝ハァイ。具合はどう、天使さん?〟
目をうたがう。
窓の外には、もう二度と会うことはないと思っていたあの女の子が、屈託のない笑顔を浮かべて立っていた。
つくづく、風のような女の子だった。
まあ、そういった経緯で。
私は、生涯でただひとりきりの〝友達〟というものを、不覚にも、手に入れてしまったのだった。
◆二日まえ◆
さすがに、三日も前から来たのは性急が過ぎたと、今さらのように後悔する。
〝残量のある命の回収〟といったところで、そのプロセスは、驚くほどに単純だ。
私の役目といえば、滅びた肉体が魂を手放す瞬間に立ちあって、放たれたそれを回収するだけ。
とどのつまりは、対象が死ぬ瞬間まで、私にできることなんて何もない。
というわけで、退屈なことこの上なかった。
「ねぇヴァントーズ。ここから出るコトって、できないの?」
白黒写真みたいな風景を窓ぎわから眺めながら、アンジェがあくび混じりに訊いてきた。
私は、ベッドに座ったまま、首を横に振る。
「無理ね。この病室が、あなたにとっての世界の終点だから。ここから見える外の景色は、ぜんぶテクスチャ。現実を再現しただけの、見せかけよ」
「ふぅん、ざーんねん」
さして残念でもなさそうに、アンジェは呟いた。椅子の上から飛び降り、ベッドに戻ってくる。
「ヴァントーズって、生まれたときから、こういうお仕事をしていたの?」
ベッドの端で、足をぶらぶらと揺らしながらアンジェが訊いてくる。
「いいえ」
「え、違うの?」
「もとは、あなたと同じ人間だった」
こんな不確かな存在になってしまった今、自分が人間だったという確証なんて、どこにもないけれど。
でも、きっと生き物って、そういうものだ。
「ふぅん……どうして、死神になろうだなんて、思ったの?」
「……さあね」
世界のコトワリから切り離され、生物の埒外となり、私の魂は〈死の管理者〉として造り変えられた。
終わりを迎える者の前にあらわれ、命の残滓を回収する。
そんな得体のしれないモノと、親しげに言葉を交わすアンジェも、肝がすわっているとしみじみ思う。
「アンジェ。どうして、そんなことを訊くの?」
「どうしてって……」
アンジェは困惑した顔をする。
「ヴァントーズのことを、もっと知りたいから……じゃだめなのかな」
「あなたはもうすぐ、死んでしまうのに?」
「そうだけど」
当たり前の話だけど、死んでしまえば、ヒトの意識や記憶はぜんぶ失くなり、次元のかなたへ消え去ってしまう。
死を確約された人間が、数時間前に出逢ったばかりの他人の何かを知ったところで、いったいなんの意味があるんだろう。
――それとも、アンジェの不合理な行動も、人間だったころの私には、理解が及ぶものだったのだろうか?
そんなに簡単なことすら、今の私には、もうわからない。
そう思うと、鼓動の消えた冷たい胸が、少しだけ痛んだ気がした。
「いろいろと知ったところで、アンジェにはそれほど多くの選択肢は残されていないわ。無駄なことだと、思うのだけど」
私の言葉に、アンジェは伏せていた顔を上げた。
「無駄なんかじゃ、ないよ」
私の瞳をのぞき込みながら、アンジェはぽつりと、さびしそうに言った。
「あと二日しかないのに?」
「まだ二日もあるよ」
幼さを残す澄んだ声が、熱をおびる。あどけない瞳を半眼にして、アンジェはじろりと私をにらんだ。
「じゃあ逆に訊くけれど――あと二日で、あなたにいったい、何ができるのかしら?」
「……できるよ、きっと。何か」
そうは言うものの、具体案があったわけではないようだ。アンジェは頬をふくらませながら、膝を抱えて黙りこんでしまう。
「……」
ふてくされるアンジェを見やりながら、私はひそかにため息をついた。まあ、このまま黙っていてくれていた方が、私としても楽なので、このまま放置するのが、上策だろう。
「――あ!」
そんな感じで、数分が経過した頃。
アンジェが突然、声を上げた。
しばらくの間、床に視線を落としていたアンジェは、私に振り向いて言った。
「ねえ。ヴァントーズは、楽器弾ける?」
勢い込んで訊いてくるアンジェに、私は思わずたじろいでしまう。
「……いいえ?」
首を横に振ると、アンジェは我が意を得たりとばかりに、にやりと笑った。
「だと思った」
「……それ、どういう意味かしら」
なんだか、ばかにされた気がする。失礼な。
「じゃあ、私が教えてあげるっ」
アンジェは軽快な動作でベッドから飛び降りると、床に置いてあった、革製のケースを持ち上げた。
「何を、いきなり……」
「あれだよ、二日もあれば、エチュードくらい、弾けるようになるって!」
なるか。
「どうして、そんなこと」
冷めた声で呟く私に、アンジェはいじわるそうな笑顔を向けた。
「それが、私にできる最後のことだから」
彼女は、宝物を開けるような手付きで、中に収まっていたヴァイオリンを取り出した。
ニスでコーティングされた古木の表板が、室内の灯りに照らされて、にぶい光沢を放っている。
「かしてあげるね」
「な、ちょ、――っと」
有無をいわさず、強引に差し出されたそれを、私はおずおずと受け取った。両手に、ひやりとした感触が広がる。
いがいと、重い。楽器を支える腕が、がくんと下がる。
「わ、落とさないでよ!」
あわてて飛びついてくるアンジェの身体を避けながら、ヴァイオリンを抱え直す。
「し、失礼ね、落とさないってば……」
けれど、ろくに演奏の仕方も知らない楽器を受け取ったところで、何をどうすればいいのかなんてわからない。膝の上に乗せ、ぴんと張った弦を、おそるおそる指先でなぞる。
「ちょっとぉ、ギターじゃないんだから。あ……ペグ回しちゃだめだよ、音が変わっちゃう。アジャスターもいじらないで!」
あたふたと慌てる私に、アンジェは幼い子供をたしなめるように、ぴしゃりと口を出してくる。無知な私は、ただ彼女のなすがままになるしかない。お人形あそびの人形役になった気分。
「顎当てに顎をのっけて……そ。左手はここ。親指以外で弦を押さえて、と――はい、弓。……左手で受け取ってどうするの?」
数十分に及ぶ格闘のすえ、ようやく姿勢だけは様になったようだ。かちかちの私を見ながら、アンジェは満足げにうなずいた。
「うん、かっこいいよ、ヴァントーズっ」
「……疲れたわ」
彫像のように固まったまま、ぽつりと本音を漏らす私の背後から、アンジェが手を伸ばしてくる。
私の身体を抱き込むようにして、弦と弓を握った私の手に、自分の手を添える。
アンジェが身じろぎするたび、柔らかな髪がうなじに触れて、こそばゆい。
「ヴァントーズは、いい匂いがするね」
私の髪に鼻を押し付けながら、アンジェは夢心地にささやいた。
「――――」
その無邪気な賛辞が、なぜか落ち着かなくて、私はアンジェの言葉をかき消すように、右手の弓を力まかせに引いてやる。
とたん、甲高い不協和音が、せまい病室内に響き渡った。
鼓膜を爪で引っかかれたような感触に、肌が粟立ち、目をぎゅっと閉じてしまう。
「び――――、」
――っくり、した。
こんなに大きな音が出るものだったんだ、ヴァイオリンって!
「……っ、もーっ! まだ弾けって言ってないってば! そんなに力いれたら、弦が傷んじゃうでしょ!?」
耳元でがなり立てるアンジェの声を聞きながら私は、彼女の願いを聞き届けてしまったことを、少しだけ後悔していた。
◆ずっとまえ◆
あの無意味な殴り合いから、三ヶ月。
私と彼女は、飽きることもなく、毎晩の逢瀬をかさねていた。
毎夜、家族全員が寝静まったころを見計らって、彼女は窓から私の部屋に上がりこみ、ベッドに座って、一時間くらい好き勝手にいろいろとしゃべって、帰っていく。
三ヶ月前のあの日、私の顔をしこたま殴った彼女は、私の父にとっては憎むべき仇でしかないので、こうして裏からこっそり忍びこむほかに、私と会うすべがないのだ。
〝まーた今日、男子に告白されちゃってさ。まったく、さかるのは勝手だけど、私を巻き込むなっつーの〟
〝見てくれだけはいいものね、あなたは〟
〝まあね。セクシーな女はつらいよ〟
〝殴ればいいじゃない。私のときみたいに〟
〝社会じゃ社会のルールがあんだよぉ。そうシンプルにはいかないワケ〟
〝じゃあ私は社会のルールの埒外だったわけ……?〟
――その頃には、私の身体はもうだいぶ弱っていて、いつコロリと死んでしまってもおかしくない状態だった。
それでも病院に入らないのは、もうどんなことをしてもむだなのだと、私をふくめた皆があきらめているからだ。
〝ま、あんたも学校に通う日がくれば、私の気持ちがわかるよ〟
〝…………〟
彼女がなにげなく発した一言が、ずぶりと、するどい刃物みたいにつき刺さる。
最近の私は、いつもこうだ。
生きることに関すること、死に関すること――そういう事柄を耳にしたり、目にするたびに、胸の奥がずきりと痛む。
〝……なんて顔してんのよ。身体よくなるまで待っててやるからさ、そしたら……〟
何も言えず、目を伏せる私に、彼女はことさら明るく笑いかけてきた。
〝――そんな日、来るはずない〟
つねに死と寄り添いあう感覚を、ふつうの人は、きっと知らない。
朝、何事もなくベッドで目を覚ましたときの、言いようのない安堵感も、
咳き込んだあと、手の平にべったりと血がついていたときの、ほの暗い絶望感も、
そんなことの連続に、いつしか麻痺して慣れてしまったと自覚したときの、空虚なきもちも、
他人には、けっして、わからない。
それでも、この歳までおだやかな心のまま成長できたのは、〝死ぬ可能性〟に少しずつ時間をかけて慣れてしまったからだ。
つねに死ととなり合わせなのは、どんな人だって同じだけれど――私の場合、その距離感が生まれたときから、人よりもずっと近かったのだ。
そうして、いつしか私の魂は、死に対して愚鈍になっていった。
〝こんな身体で、学校に? ふざけないでよ。こんな、ボロボロの――いつ死んじゃうかもわからない身体で、いったいどうしろっていうの……っ〟
なのに。
最近になって、長らく眠っていたはずの〝死の恐怖〟が、急速にかま首をもたげている。
壊れてしまったのか。
それともむしろ、正常に戻っただけなのか。
どちらにせよ私は、彼女と出逢ってからというもの、死ぬことが、たまらなく怖くなってしまったのだ。
今までの私の世界は、このベッドの中だけで完結していたのに。
今まで、けっして知ることができなかった――知ろうとも思わなかった、屋敷の外にある世界。
その、一番輝かしい部分だけをはさみで切りとったような彼女の存在が、眠っていた死の恐怖を、呼び起こしているのだ。
〝ねえ。人って――死んだら、どこへ行くの?〟
口にした言葉が、私の意思とかんけいなく、しゃくりあげた。
気付いたときにはもう遅くて、私の頬を、一筋の涙がつたっていた。
〝……ベソかくなよ。あんたは、天使なんだろ〟
困ったように笑う彼女に、私は首を横に振る。そんなもの、私が勝手に懐いていただけの幻想だ。
死は消失だ。壊れた機械と同じ。
寄る辺を失くした魂は、暗い暗い海の底に沈んで、もう二度とは戻ってこない。
〝あんたはさ、色々むずかしく考えすぎだ〟
ふと、頭をつかまれて、そのまま抱き寄せられる。やわらかい感触と、優しい体温と、花みたいな匂いに、私の五感が包まれる。
こんな感触、何年ぶりだろう?
〝私が、あんたを殴った日、あるじゃんか〟
〝……忘れられるわけ、ないでしょ〟
〝あの日の朝さ、私の飼ってた犬がさ、死んじゃったんだよね〟
彼女があっけなく口にした〝死〟という単語に、思わず身体がこわばった。
〝ラルーっていうんだけど、生まれたときから、ずっと一緒でさ。――心臓が悪くって、ここ一、二年はずっと寝てばっかりだったんだ。で、あの日の朝、私が起きたら、もう冷たくなってた〟
そう告げる声からは、悲壮さなんて、少しも感じられなかった。彼女は自嘲めいた含み笑いをもらすと、私の頭をそっと撫でた。
〝けど、やっぱりパーティの予定は外せなくて、私は真っ白な頭のまんまで、両親と一緒にこのお屋敷に来て――そして、あんたと会った〟
〝…………〟
〝――なあ、私の心臓の音、きこえる?〟
肩を震わせながら、私はどうにかうなずいた。
とくん、とくん。今にも止まってしまいそうな私の鼓動とはちがう、生命の力強さに満ちた鼓動が、耳の奥で鳴りひびく。
〝死ぬってことは、ようするに、心臓が止まるってことだよね〟
〝そう、なのかな〟
〝そうだよ、きっと〟
だって、こんなに力強いもの。と、彼女は私を抱きしめたまま、おかしそうに笑った。
〝とにかく、あんたと初めて話したとき、すごく腹が立ってさ。だってだよ? まだ生きて動いてる心臓をもってるのに、あんたはもう、その心臓が止まること前提で生きてるんだ。
そんなの、まるで生きてない。
まだ生きてる自分の身体をだまして、わざと死に急いでるようなもんだ〟
〝……ようするにあなたは、気力で生きろって言っているわけ?〟
〝気力じゃなくて、意思だって〟
私の耳元で、ひときわ強く、どくんと大きな鼓動が聞こえた。私を抱きしめる手に、力がこもる。
〝だから、あんたは大丈夫。そんだけ性根が腐ってれば、いくらだって、あんたが望むかぎり生きていられるよ〟
〝―――余計なお世話だわ〟
私は、ぼろぼろとあふれ続ける涙を、必死に押しとどめながら、彼女の言葉に身を委ねていた。
これが、彼女とこの屋敷で過ごした、最後の記憶。
その夜の帰り道、彼女は通り魔に襲われて重傷を負い、病院へ運ばれた。
彼女が目を覚ますことは、二度となかった。
◆一日まえ◆
「ヴァントーズ。私ね、病気で身体が動かなくなるまでは、ヴァイオリニストを目指してたの」
気の遠くなるようなスパルタ教育の最中、アンジェはおもむろに、そう言った。
「気付いたころには、もう弓を握ってて、こんなにちっちゃな頃からいろんなコンテストに出てさ。すごい賞だって、いっぱいもらったんだよ。一時期は、神童だなんて騒がれたりもしたんだから」
弦を押さえる私の指に手を添えながら、アンジェは独白するような口調で言う。
「みたいだね」
「……もっとなんか、驚かないの? すごーいとか、かっこいいー、とか」
そんなこと言われても、今の私に、アンジェについて識らないことはないのだから、驚きようもない。
私のリアクションの薄さに、アンジェはつまらなそうに唇をとがらせる。
「……私のパパとママって、忙しい人でさ。一緒にすごした思い出とか、全然ないんだ。正直、レッスンの先生と過ごした時間の方が、長いくらい」
それも、彼女の情報として、すでに識っている。
高名な演奏家として名を馳せていたアンジェの両親は、多忙であり、あまり家庭を重んじる人間ではなかった。
アンジェがいだく孤独感は、ごく自然な、歳相応の少女としてのものだ。
「だから本当は、ヴァイオリンなんて、大キライだった。私から、自由も、家族も奪っていった物なんて、この世からなくなっちゃえばいいのに、って」
私の指を握り、運指を補助しながら、アンジェは言葉をつむぎ続ける。
「――だけど、私が周りから評価されるたびに、パパもママもすっごく喜んで、優しくしてくれたんだ。それだけが本当に嬉しかったから、私、死に物狂いで練習した」
たしかに、今、私の背中に張り付いている幼い少女には、稀代の才能が備わっていたらしい。そこに、研鑽に研鑽を重ねた技術が、上乗せされているのだ。
もしも病魔にさえ襲われなければ、さぞや素晴らしいヴァイオリニストに成長したのではないだろうか。――それは、無意味な仮定だけれど。
おそらくアンジェは、演奏を楽しいと感じたことなんて、一度もなかったのだろう。
自分を見てほしくて、自分から目を離してほしくなくて――ただそれだけのために、アンジェはヴァイオリンを弾き続けた。
その、愚直なまでのひたむきさこそ、ひとりの少女が〝天才〟と持てはやされた理由であり、強さだったのだろう。
「でもね、それもできなくなっちゃった。……いつだったっけ。ある日ね、突然、指が思い通りに動かなくなったの」
私の首筋にかかるアンジェの吐息が、ふいに、冷たくなる。
「すぐに入院して、それからはもう、悪くなっていく一方よ。どんどん身体が動かなくなって、何も考えられなくなっていく病気なんだって」
CFS症候群。
強度の疲労が、長期間にわたって継続する、原因不明の難病だ。
症状の程度はさまざまだが、軽いものでは自分の力で生活できる患者から、酷いものだと指一本さえ動かせなくなる者もいる。
そしてアンジェは、後者だった。
「治る見込みがないって、はっきりとお医者様が言った日から、パパとママは――私に会いに来なくなっちゃった」
アンジェは、私の手を、弦もろとも強く握った。奏でる音が、醜くひずむ。
「……笑っちゃうよね。そんなの、はじめからわかってたことなのにさ」
アンジェは自嘲めいた笑顔を浮かべながら、震える声で言う。
「娘と楽器――二人が私のことをどう見てたかなんて、ほんとは、最初から気付いてたはずなのに」
「――――」
私に言えることは、何もない。
ただ押し黙って、アンジェの想いを聞き届けるだけだ。
「……だから今、私、嬉しいんだ」
「嬉しいって、なにが?」
「だって」
アンジェは、窓の外を見る。
私たち以外、いっさいの生物が存在しない、見せかけだけのハリボテの、白黒世界。
「こんなにひとりぼっちだった私に、ヴァントーズは、会いに来てくれたから」
強がる様子もなく、けなげに笑うアンジェに、私は言う。
「感情と事情を混同しないで。私はただ、奪いにきただけ」
私にとっては、何も特別なことじゃない。
どんな不幸な人間も、どんな哀れな人間も、どんな邪悪な人間も、私は分け隔てなく、その命を斬り裂いてきた。
いい意味でも、悪い意味でも――人の命はとても軽くて、そして、平等だ。
そこに、貴賎はない。
「それでも、いいの」
アンジェは、私の首筋に顔を押し付けながら、ぽつりと言った。
「今はもう、ひとりじゃないから」
◆ずっとまえ◆
ひどい雨だった。
降り続ける大粒のしずくが路面を叩く音が無数に重なりあって、爆発するような轟音と化している。
初めてひとりで抜け出した屋敷の外は、暗くて冷たい、深海のような世界だった。
部屋の窓から出てきたため、傘すら持ち出せなかった。
私はびしょ濡れになりながら、ひとりで歩いたことのない街を、幽鬼のような足取りで徘徊していた。
〝――どこに、いるの〟
全身を打つ雨粒によって、体温がみるみる奪い去られていく。
足を引きずるたび、視界がぐらぐらと歪み、私の身体から、命がこそげ落ちていくのがわかる。
それでも、歩みは止まらない。右手に握った、銀細工のペーパーナイフを、もう一度つよく握りしめる。
〝出て、――きてよ〟
彼女と最後に会ってから一週間――私の友達を刺した通り魔は、いまだ捕まっていなかった。
あれから彼女は、病院のベッドの上で、昏々と眠り続けている。
おそらくは――これからも、ずっと。
もう、二度と目が醒めることはないだろう。
〝殺してやるからッ、――だから、出てきて……ッ〟
夜空にむかって叫んだ瞬間、口から血があふれ出た。自分でもびっくりするほどの量の血が、かたまりになって路面に落ち、水たまりに溶けていく。
その瞬間、私のすべてが、底をついた。
全身から急速に力が抜け、私の身体が水たまりの中に、頭から倒れ込んだ。ナイフが手からすべり落ち、乾いた音を立てて転がった。
〝――、――〟
こんな弱りきった身体で、豪雨の中をうろついたツケだろう。
私の身体は、心臓は、とっくに生きることをやめていたのだ。
涙が、あふれ出してきた。
結局、私は何もできなかった。
彼女のかたきを討つことも、彼女が教えてくれたように強く生き抜くことも、何も。
まぶたが重い。全身の感覚が、地面をとおして吸い取られていくみたいだ。
枯れ木のような私の指が、未練たらしく、路面を掻く。
そうして、私の命は、終わりを告げた。
◇
〝起きてくださいな〟
――ふと、目が醒めた。
私は、濡れた路面に手をついて、ゆっくりと起き上がる。辺りを見回す。
見憶えのある景色――間違いない。さっき、私が倒れた通りだった。
不思議な光景だった。無数の雨粒が、空間に固定されたまま、音もなく停まっている。
身を灼くような寒さはすでに消え、私が吐いた血のかたまりは、いびつなマーブル模様を描いたまま、固まった絵の具のように、路面に固着していた。
まるで――時間が止まったような、光景。
〝お目覚めしたばかりで恐縮ですが、あなたはあと一分で死んでしまいます〟
背後から、声が聞こえた。あわてて振り返る。
はたして、私の後ろには、ひとりの少女がたたずんでいた。
長い髪も、身につけたワンピースのような衣装も――そして、大きな瞳の虹彩も。
ぜんぶが、チェス盤を貼りつけたような、奇妙な格子模様に包まれている。
とても奇妙な、女の子だった。
〝ああ、自己紹介がまだでしたね。私の称号は〈ヴァントーズ〉。死を前にした方の前に現れ、命の残滓を回収して回る、いわば〝死神〟です〟
口だけを歪める不気味な笑みを浮かべて、女の子は肩をすくめた。
細い右手には、銀色の短剣が、大切そうに握られている。柄の部分の時計のような意匠をほどこされた、美しい刃物だった。
〝わからないことはたくさんあると思いますが、残念ながら時間がありません。あなたに、ふたつの選択肢をご用意致しました。三〇秒以内に、即決していただきます。
その一――ここで、私に魂を断ち切られ、無に還るか〟
有無をいわさず、女の子は左手をかかげると、人差し指を立てた。
〝その二――私の代わりに〈ヴァントーズ〉の名を継ぎ、死神として生まれ変わり、自我を継続するか。
命を刈り取るだけの、かんたんなお仕事です〟
中指を立てながら、少女――ヴァントーズは目を細めた。左手を開き、私にむかって差し伸べてくる。
――なんだろう。
彼女はいったい、何を言ってる?
〝あなたを選んだ理由は、特にありません。ただの私の気まぐれですし、あなたがあくまで拒むのなら、無理強いはいたしませんから、ご心配なく〟
いきなり、そんなこと言われたって。
あと、一分で死ぬなんて、突然言われたって。
私はその場に立ち尽くしたまま、恐怖のあまり押し黙る。
〝決めあぐねているようなら、参考までに。
――次の〈ヴァントーズ〉の担当は、あなたがよくお知りのご友人ですよ〟
〝――え……?〟
〝あなたの手で、解放してあげるべきなのでは、ありませんか? ――この、〈世界の終わり〉から〟
私の友達なんて、ひとりしかいない。
ああ、そうか。私はひとり、納得する。
ただひとりの私の友達は――彼女は、やはり、死んでしまうらしい。
私は唇を引き結ぶと、目の前で薄ら笑っている少女の瞳をにらんだ。
〝……ねぇ、ヴァントーズ〟
〝はい〟
〝ひとつだけ、教えて。
あなたのやっていることは――〈救い〉なの?〟
自分と他人――どっちにとっての救いなのかは、あえて訊かなかった。
〝…………〟
ヴァントーズは、我が意を得たりとばかりに、三日月のような笑みを浮かべると、一度だけうなずいた。
〝――ええ、もちろん〟
それだけを確認して、私はヴァントーズにむかって一歩、踏み出した。
差し伸べられた手に、私の手を乗せる。
次の瞬間、世界が瓦解した。空が、地面が、建造物が、目に映るものすべてが崩落し、この世から消え失せていく。
〝結構。盟約は完了致しました。――これより〈ヴァントーズ〉の称号と知識と権限のすべては、其に移譲されます〟
そう言うと、ヴァントーズは右手に握っていた短剣を、やおら――自らの胸に、突き立てた。
ヴァントーズの肉体が、少しずつ流砂のように崩れだし、凝縮され――私の内へと流れこんでくる。
わき出るような全能感が全身に拡がっていくのを感じながら、私は、地面に落ちた短剣をひろい上げた。
魂と命を斬り分ける、唯一の道具。
鈍く輝く刃を指先で撫でながら、私は大きな亀裂の入った白黒の空を、言葉もなくあおぎ見た。
そうして。
その日、私は死神になった。
◆十分まえ◆
「――もうそろそろ、タイムリミットかな?」
「そうみたいね」
私は三日三晩、抱えっぱなしだったヴァイオリンを、ようやくベッドの上に置く。肩が痛い。
そんな私を見ながら、アンジェはあっけらかんと笑った。
「あはは。やっぱり、さすがに三日っていうのは無茶だったね」
「だから言ったじゃない……」
――この三日間で私が覚えたことといえば、せいぜい基礎的な運指と弓の動かし方くらいのもので、曲を奏でられるレベルには、当たり前だが、とうてい届かなかった。
周りを見渡す。
病室の空間は、すでにところどころヒビ割れたり、ひずみ始めていたりと、アンジェの命がもうすぐ尽きることを報せていた。もう何億回も見てきた、命が尽きる前兆だった。
「ねえヴァントーズ。あなたは、私をどうするの?」
アンジェはベッドから降りると、私を正面から見つめた。
なにを今さら。そんなの、知れたことだ。
「アンジェが死んだ瞬間、あなたの魂が残している〝命の残量〟を、あなたの自我から斬りはなす。その命は、このあと、色々なところで〝使われる〟だろうし、あなたの自我だけが、虚無の狭間に消えていく」
抑揚のない声で告げる。
もっとも、私の役目は〝回収〟するだけで、その後の使い道についてなんて、関知するところではないけれど。
「……」
アンジェは悲しむ様子もなく、かといって喜ぶようなこともせず、ただ黙ってうなずいた。
「そっか。痛くしないでね?」
「わからないわ、そんなこと。感想を聞けたためしがないもの」
そっけなく言い放つ私に、アンジェは小さく吹き出した。
「……こんなときでも、ヴァントーズは変わらないよね。最期くらい、笑ってしてくれたっていいじゃん。――あーあ。どうしてもっと優しいヒトが来なかったんだろうなー」
「――――」
そんなこと言われたって、どうしようもない。
私の中には、人間らしい感傷なんて、少しも残っていないんだから。
死を目前にした人の前にあらわれて、有無をいわさず、残った命だけを一方的に略奪していくだけの、悪魔のような存在。
この身体を手に入れてから、いったいどれだけの命を刈り取っただろう?
泣き叫ぶ人を、必死に命乞いをする人を、斬って、斬って、斬りまくって――結局、私の手元に残ったものは、死者の怨嗟と嘆きの記憶だけ。
これから引導を渡す相手に、笑いかける意義も権利も、この私にあるはずなんてない。
「……あのね、ヴァントーズにお願いがあるんだけど」
唇を引き結んで黙る私の服を、アンジェはぎゅっとつかみながら言った。
「――聞けない」
「安心してってば。あなたが想像してるようなことじゃ、たぶんないから」
アンジェはゆっくりとこちらに歩み寄ると、ベッドの上に置かれていたヴァイオリンを手にとった。
しばらくの間、いつくしむように胴体の表面を撫でたあと、彼女は革製のケースの中に、その楽器をていねいにしまいこんだ。かちり、とロックをかけ、ケースを両手で抱きしめる。
「これ、もらってくれないかな」
「……え?」
耳を疑う。理解ができなかった。
「宝物なの、これ。……私が死んじゃったら、きっと、処分されちゃうから」
「宝物ですって?」
肩を震わせながら、私は目を細める。
この娘は、この期に及んで、何を言うかと思えば。
「――そんなこと、本当は思っていないでしょう、あなたは」
この忌まわしい楽器は、アンジェの短い人生を引き裂いた元凶だ。
彼女の両親は、アンジェのことを楽器としてしか捉えていなかった。
なのに、彼女はそれを理解していてなお――ゆがんだ愛情を得るために、血のにじむような努力を重ねつづけてきたのだ。
そうして結局、病に倒れ、両親から見捨てられ、誰に悲しまれることもなく死んでいくアンジェが――いったいどうして、その楽器を宝物などと呼べるのか。
「死ぬ間際になって、それでも自分を騙し続けて――あなたは満足なの!?」
気付けば、私は激昂していた。
勢いよくベッドから立ち上がり、アンジェが大切そうに抱え込んだヴァイオリンのケースを、全力で払いのける。
ケースは床を転がってすべり、壁に当たってようやく止まった。
……なぜだろう? こういう人間らしい感情はもう、とっくに失ったと思っていたのに。
「……だめだよ、こんなことしちゃ。壊れちゃうよ?」
ケースを拾いに行こうとするアンジェの腕をつかみ、無理やり振り向かせながら、私は怒鳴った。
「――やめなさい! あなたは狂ってる。あんな物に、最期の最期まで縛り続けられて、どうするのっ」
歪んだ未練や意思は、本人が死んだあとも針金のように残り続け、命と魂を切断する際のさまたげとなる。
へたをすれば、斬りそこねた命ごと、二度と使いものにならなくなってしまうのに。
「縛られてなんて、いないよ」
アンジェは穏やかな声で言うと、私の手を振り払い、ケースを拾い上げた。
「たしかに、ヴァイオリンなんてだいっキライだった。でも、上手に弾ければパパもママも私のことを見てくれて――だから、そのためだけに、私はヴァイオリンを弾き続けた」
アンジェは目を閉じる。
「私が感じてた寂しさや悔しさを、私はいつだって、曲の中にこめてきた。私が弾く音楽は、私自身の……悲鳴だった」
「そんなの……」
苦痛以外の、なにものでもない。
表情を歪める私に、しかしアンジェは、屈託のない笑顔を向ける。
その姿、面影が――
「だけどね、だからこそ……そういう悔しさも、愚かしさも、悲しみも――そして、一瞬の喜びも。
そういう、私が生きてきた証のすべてが、音楽を通して、このヴァイオリンの中にぜんぶつまってる。そんな気がするの」
――どうして、〝彼女〟と重なるのか。
アンジェは私に歩み寄ると、手に抱えたケースを、ふたたび私にさし出してきた。
「だから、ぜったいに、これだけは失いたくない。私はもうすぐ死んじゃうけど、それでも――ヴァントーズがこの子を大切にしてくれれば、それは私自身の〝未来〟になるから」
「私は―――」
一瞬だけ躊躇したあと、私は、革製のケースを受け取った。
この三日間で慣れ親しんだ、心地良い重みが、手の中に戻ってくる。
「えへへ。……ありがとお」
私の下半身に、小さな身体が、抱きついてくる。小さな手で、力いっぱい、抱きしめてくる。
「最後まで教えてあげられなくて、ごめんね。……でも、ヴァントーズは筋がいいから、きっとすてきな奏者になれるよ」
「だと、いいけれど」
ばきり、と大きな音がして、窓の外の空に、亀裂が走った。
病室の中も、もうところどころ崩れかけていて、瓦解寸前だ。
アンジェの命の限界が、もう、すぐそこまで来ている。
「――アンジェ」
小さく、その名を呼ぶ。
私の手の中には、いつの間にか、短剣が握られている。
かちり、かちり。時計じかけの柄をもった――もう幾度となく死人の命と魂を斬り離してきた、私の鎌。
「もっかい言うけど……痛くしないでね?」
スカートに顔を埋めたまま、アンジェは気丈な声で言う。私の下半身を痛いほどしめつける手が、震えていた。
「ええ――安心して」
短剣の柄を握りしめながら、アンジェの耳元でささやく。
「痛くなんて、しないから」
もう、病室を含めた〈この世界〉は、ほとんど原型をとどめていない。
私はゆっくり、短剣を振りかぶる。サメの歯のように鋭い銀色の刃先が、光を受けて、ぎらりと鈍くかがやく。
かちり、かちりと、カウントダウンの音が響く。その瞬間をのがすまいと、私は目を閉じて、神経を研ぎ澄ませる。
「さようなら――アンジェ」
「うん。ばいばい」
私は迷うことなく、短剣を振り下ろした。
刃先が、ずぶりと容赦なく、肉の中に沈み込んでいく手触り。
もう慣れ親しんだ、命をつらぬく感触。
「――――」
「……、ヴァントーズ?」
違和感に気付いたのか、アンジェは顔をスカートから離し、おずおずと視線を上に向けた。
「え――?」
アンジェが、茫然とした表情で、息を漏らす。
――短剣は、アンジェの背中ではなく、私の胸に突き立っていた。
「なに、してるの?」
目の前の光景に、彼女の両目が、凝然と見開かれる。
「私……助けてなんて言ってない。あなたに、身代わりになってほしいなんて――私、思ってないのにっ」
混乱のあまり、声を裏返して叫ぶアンジェの頭に、私はそっと手を添えた。
「知ってる、そんなこと」
アンジェの身体をそっと引き離しながら、胸の短剣を引き抜いた。痛みはない。ただ、ぞっとするような寒気だけが、侵食するようにして、全身に拡がっていく。
内側から、私という存在そのものが、虫食いのように少しずつ、食いつぶされていくのがわかる。
だというのに、私の心は、夜の海みたいに穏やかで、つい笑い出したくなってしまう。
「ごめんね。やっぱりヴァイオリンは、受け取れない」
感情を押し殺し、私はゆっくりと言葉をつむぎ出す。
「……私じゃ、あなたを殺せないから」
なぜだろう。
どんな聖人だろうと、悪人だろうと――生前の私にとっての、唯一の友人だろうと。
私は、今まで別け隔てなく、例外なく、すべてを斬り捨ててきたはずなのに。
今さらになって、こんな少女ひとり、ころせない。
「だからせめて、私のすべてを、あなたにあげる」
――権限の移譲。
〈ヴァントーズ〉の称号と力は、たった今、私から剥奪され、アンジェへと受け継がれる。
私が〈ヴァントーズ〉になったときと、まったく同じ現象。
絶対数の決まった死神たちが行える、唯一の能動的な行為。
寿命の概念をもたない私たちが、自らを滅ぼすための、たったひとつの方法。
「――そんなこと言われたって、私、わからないよッ」
私の背中を掻きむしりながら、アンジェが叫ぶ。
「どうして、わたしなの? ヴァントーズは今まで、たくさんの人たちを見送ってきたんだよね? なのに――どうして、私だけ」
「……どうしてでしょうね。自分でも、よくわからないわ」
崩落していく病室の中で、私はヴァイオリンのケースごと、泣き叫ぶアンジェの小さな肩をつよく抱きしめた。
「でも、きっと」
顔も、髪の色も、性格も――何もかもが、〝彼女〟とはちがうのに。
〝――そっか。あなたはきっと天使なのね〟
〝ベソかくなよ。あんたは、天使なんだろ〟
なのに、どうしようもなく、その在り方が重なってしまったから。
ふと、脳裏をよぎったその理由を、かすれた喉で謳う。
「たとえ死んででも、救いたかった。
あったのは、ただそれだけの願い」
とっくの昔にヒトであることをやめてしまった私が、まだヒトだった頃にいだいていた、けっして叶うことのない理想。
けっして叶わず、すり減り続けて、いつしか忘れてしまっていた願い。
それを、最期の最期で、取り戻せた気がした。
それはきっと、ただの自己満足でしかないけれど。
「あなたがこれから手に入れるのは、かりそめの、とても命だなんて呼ぶことのできない、ニセモノけれど――」
それでも、まがりなりでも、一応は〝命〟なのだから。
先は、続いていくだろう。
「――やだよ、ヴァントーズ。おいていかないで」
「違う。これからは、あなたがヴァントーズになるの」
風のように現れ、死者の命を刈り取るだけの、どこかの神さまが遣わした回収装置。
これは、許されない行為なのかもしれない。
アンジェが世界に存在した痕跡は、間もなく、残らず消え去るだろう。自分なりの価値を見出し、死を受け入れた少女を、私のエゴを満たすための食い物にして、死よりももっとつらい運命の中に放り出そうとしている。
「でも、あなたならきっと――」
粒子となって、崩れ行く身体をどうにか支えながら、私は革製のケースをアンジェに差し出す。
私にはなくて、アンジェにあるもの。
それを使って、この娘は、私なんかよりもずっと穏やかに――死にゆく人たちに〈救い〉を与えることができる。
そんな、気がした。
◆いま、げんざい◆
「はい、おしまい。もう返しなさい」
よほど気に入ったのか、いつまでもヴァイオリンを手放そうとしないヴィオに、私はしびれを切らして言った。
「えぇー!? もうちょっと、もうちょっと! あと少しで、何となくコツをつかめるかんじが……っ」
「それで壊されたらたまらないわ」
有無をいわさず取り上げ、ケースの中にヴァイオリンをしまいこむ。
「……もぉー」
ヴィオはふてくされながら、上目遣いでこちらをにらんでくる。
「ヴァン先輩は、もう少し他人に優しくしたほうがいいと思いまーす」
「そうする必然性がないもの」
そっけなく反駁すると、ヴィオは唇をとがらせる。
「そういう淡白なとこがダメなんですよぅ。笑顔、笑顔っ。……先輩ってぇ、ここに来る前から、そんな性格だったんですか?」
「……さあね」
生前のこと。私が〈死神〉になる前のこと。
ヒトだった頃の私は、もっと明るくて、情緒ゆたかだった気もする。
その現実ももう、遠い記憶の彼方にある。夢のまた夢、私にはもう、いっさい関係のないことだ。
けれど、それでも。
孤独に朽ちゆくだけだったはずの私に〝未来〟を与えてくれた死神の面影だけは、せめて、残しておきたかった。
「本物の天使は、そう滅多には笑わないものよ」
腑に落ちない様子で首をかしげるヴィオの後ろから、じりりりん、と音がする。
部屋のすみに、うず高く積み上げられた白い目覚まし時計のひとつが、けたたましくベルを鳴らしながら震えている。
――いつかのどこかの誰かが、死にかけているという合図。
〝仕事〟の時間だ。
私はヴァイオリンをたずさえ、その時計を拾い上げる。スイッチを止めると、時計は手の中でこなごなに砕け散り、跡形もなくなった。
「行ってくる」
「あの、先輩」
私の背中に、ヴィオはすがるような声音で言った。
「帰ってきますよね……?」
やぶからぼうなヴィオの問いに、私はきょとんと面食らってしまう。
「どうして?」
「なんだか――いえ、何となく、です」
的を射ないヴィオの返事が、なぜだかおかしくて、私は思わず、くすりと笑ってしまう。
「……やっぱり、笑ったほうがかわいいですよ? もっと、先輩は笑えばいいのに」
「考えておく」
この聖域――真っ白なガラスに囲まれたアトリウムに、唯一そなえつけられたドアの取手に手をかけ、歩き出す。
身体がある。
感情がある。
楽器を弾ける。
残したい記憶がある。
こんな姿になっても、私はまだ、生きている。
そうして私は、今日も独り、鎮魂曲を奏でにいく。
《La fin》