純白の果実 〜LOVEYOU 鮎川さくら、恋と秘密の8章〜
第1章:天使のデビュー
「今日から、LOVEYOUの一員になります。鮎川さくら、15 歳です。よろしくお願いします!」
明るい声に、控室の空気が一瞬止まった。
その場にいたメンバーやスタッフの視線が一斉に彼女に集まる。
清楚な雰囲気を纏い、透き通るような白い肌と大きな瞳が印象的な少女。
制服風の衣装に身を包み、少し緊張気味に笑うその姿は、まるで二次元から飛び出したヒロインのようだった。
「え、ほんとに……15
歳?大人っぽすぎ……」
「てか肌、発光してない?すご……」
ざわめくメンバーたちの声が耳に入るたび、さくらはますます顔を赤らめた。
「……緊張してる?」
声をかけてきたのは、マネージャーの蓮だった。
スーツに身を包み、やや無骨な雰囲気の彼は、この春からLOVEYOUのチーフマネージャーを務めている。
「は、はいっ……すごく……でも、頑張りますっ!」
「うん、その気持ちがあれば十分。少しずつでいい、今日から一緒に、がんばろうな」
その言葉に、さくらの胸がすっと軽くなる。
彼の落ち着いた声は、どこか懐かしくて優しくて、まだ右も左もわからない自分にとって救いだった。
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ステージに立つと、景色は一変する。
キラキラと照明が降り注ぐ中、イントロが鳴り響く。
観客の歓声、スモークの匂い、スピーカーを通して自分の声が跳ね返ってくる感覚――
(夢みたい……)
デビュー曲『初恋シンフォニー』のセンターに選ばれたのは、異例のことだった。
ダンスはまだ不慣れで、ボーカルも未熟。けれどその「透明感」こそが、彼女をセンターに押し上げた。
アイドルとして、恋も秘密も封印する人生が、ここから始まる。
けれどこの時のさくらは、まだ知らなかった。
──ほんの1年後、自分の運命がすべて変わってしまうことを。
第2章:はじめてのグラビア
デビューからわずか3ヶ月。
LOVEYOUの新星・鮎川さくらには、すでにファンレターとSNSのタグが山のようにつけられていた。
「天使が舞い降りた」「透ける肌って本当にあるんだ」「見てるだけで浄化される」
そんな言葉に囲まれながらも、彼女自身の気持ちは浮つくことはなかった。
ただ、アイドルとして——愛される存在として、期待に応えなきゃ。そればかりを考えていた。
そんなある日。
「さくら、ちょっと話ある。空いてる時間、もらっていい?」
蓮マネージャーの呼び出しに、控室でドキリと胸が高鳴った。
少し離れた談話スペースで、差し出されたタブレットの画面に目を落とした瞬間、息をのむ。
「週刊プレッシャー」——表紙グラビアの打診。
しかも、衣装は“純白のフリルビキニ”。
「……わたしが、水着……ですか?」
「断ってもいい。無理強いは絶対しない。ただ、あの編集長が名指しで“この子しかいない”って言ってきた」
「どうして、私なんですか?」
「“清楚と色気の同居”……だそうだ。おまえの雰囲気が、ただのグラビアを超えるって」
驚きと戸惑いが入り混じったまま、さくらは無言でうつむいた。
(アイドルって、こういうことも……仕事なんだよね)
でも、ふとよぎったのはファンの顔。
ステージの最前で応援してくれた女の子。駅で声をかけてくれた中学生の男の子。
「……やります。プロとして、恥ずかしくないように、ちゃんと向き合いたいです」
蓮はその決意を静かに見つめ、ゆっくりと頷いた。
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撮影当日。スタジオの空調はひんやりしていて、純白のビキニ姿のさくらには少し肌寒かった。
肩に掛けたガーゼ地の羽織を脱ぐ瞬間、ふと彼女の視線と蓮の視線がぶつかる。
一瞬だけ——彼の目が、少しだけ揺れたように見えた。
けれど何も言わず、ただ頷いて見送るその姿に、さくらはどこか救われた気がした。
「さくらちゃん、カメラ見て〜、そう!ちょっとだけ腰ひねって!……うん、すごくいい!」
パシャ、パシャ、とフラッシュが弾ける。
(これが……“見られる”ってことなんだ)
恥じらいと、プロとしての矜持。その狭間で、彼女は確かに成長していた。
撮影が終わると、蓮がそっとバスタオルをかけてくれた。
「おつかれ。すごく、よかったよ」
その一言に、思わず涙がこぼれそうになる。
(……ありがとう、蓮さん)
まだ名前を呼ぶことすら照れくさい。
でもその時から、さくらの中に芽生え始めたものがあった。
それは、
「信頼」なんて言葉では足りない、淡く熱をもった感情だった。
第3章:マネージャーのぬくもり
「蓮さん、今ちょっとだけお時間いいですか……?」
収録終わりの楽屋。汗をかいたままの衣装姿で、さくらは控えめに声をかけた。
メンバーたちが帰り支度を始めるなか、蓮はさくらの様子を見てすぐに気づく。
「うん、こっち来な」
連れて行かれたのは、ビルの非常階段の踊り場。冷たい夜風が汗ばんだ首筋をすっと撫でる。
「……何かあった?」
「……最近、自分のことがわからなくて」
「自分のこと?」
さくらは少し口を噤み、それからぽつりぽつりと話し始めた。
撮影の合間にメンバーと目が合わなくなったこと。
SNSでのコメントの一言一句に一喜一憂して、夜眠れなくなったこと。
いつしか、ファンの「理想のさくら」に、自分自身が置き去りにされていくような気がすること。
「……私、誰かの“理想”を演じてるだけで、本当の私はどこにいるんだろうって。ときどき、全部やめたくなるんです」
蓮はしばらく黙っていた。
だがその沈黙は、ただの気まずさではなく、彼女の言葉をきちんと受け止めようとしてくれているものだった。
「さくらは、ちゃんと本物だよ」
「……」
「泣いたっていいし、間違えたっていい。でも、ファンが好きなのは“作られた完璧なアイドル”じゃない。“そのままのさくら”なんじゃないかなって、俺は思う」
その言葉に、胸の奥で何かが崩れ落ちた。
気づけば、彼女はぽろぽろと涙をこぼしていた。
「……泣いてごめんなさい。いつも泣いちゃう。……私、蓮さんの前だと、ダメなんです」
「泣いていいんだよ。ここでは“アイドル”じゃなくて、鮎川さくらでいなよ」
彼の手が、そっと頭に触れた。
優しく撫でられた髪に、心がほぐれていく。
初めて感じる、誰かに「受け入れられている」という安心感。
それが、こんなにも温かいものだなんて——知らなかった。
その夜、彼女のスマホにはメンバーからのメッセージが並んでいた。
『今日、泣いてた?無理しないでね』
『おつかれー!明日、スタジオ前にパン屋寄ろ?』
繋がってる、まだ大丈夫。
でも、蓮と話していた時のあの“心のぬくもり”が、今も胸の奥で熱を帯びていた。
それは恋と呼ぶにはまだ早い、
でも恋が生まれる予感だけは確かにあった。
第4章:禁じられた夜
「さくら、今日は一人で帰れるか?」
冬の寒さが残る、ある収録日の夜。
マネージャーの蓮は、他メンバーの送迎が重なったらしく、さくらにそう声をかけた。
「……はい、大丈夫です」
うまく笑ったつもりだった。でも、胸の奥にぽつりと残る寂しさが隠しきれなかった。
(帰り道が一番、嫌い)
イヤフォンから流れる曲も、暖かい車内も、蓮のさりげない優しさも、今日は何一つない。
そう思いながら、電車を乗り継ぎ、最寄りの駅を出たそのときだった。
「さくら!」
驚いて振り返ると、そこには息を切らせた蓮が立っていた。
ネクタイを緩め、少し乱れた髪に、さくらの鼓動が跳ね上がる。
「やっぱ、気になってさ……家まで送るよ」
「で、でも他のメンバーは?」
「今ちょうど終わったところ。大丈夫、さくらの方が先に駅着くだろうって予想して……あたりだな」
笑った顔が、やけに優しくて、胸が苦しかった。
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「この辺だっけ? さくらの家」
「……はい。この坂の上です」
コンビニの明かりが、2人の影を並べて照らしていた。
季節の変わり目の夜風が、コートの裾をひらりとはためかせる。
別れ際、さくらはふいに立ち止まった。
「……もう少しだけ、一緒にいてもいいですか?」
言葉が口を突いて出た瞬間、もう止められなかった。
(だめだってわかってるのに)
蓮は目を見開いたまま数秒黙っていたが、やがてふっと肩の力を抜いた。
「……うち、来るか?」
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玄関の明かりに照らされた室内。
蓮の部屋は、想像よりずっと質素で、男らしくて、少し生活感がにじんでいた。
ソファに並んで座ると、緊張で息が浅くなる。
「無理しなくていいよ、さくら。ほんとはどこまでが限界なのか……わからなくなるから」
彼の言葉があまりに優しくて、涙がにじんだ。
「……蓮さんがそばにいると、がんばれるんです。ほんとの自分を、見てくれてる気がして」
視線を上げた瞬間、ふいに唇が重なった。
それは、そっと確かめるような、静かなキスだった。
けれど——
一度触れてしまった想いは、あまりにも熱く、止めようのないものだった。
互いの肩を抱き寄せるたびに、言葉が消えていく。
髪に、首筋に、指先に。抑えていた恋心が滲み出すように。
「……さくら」
「……もう、我慢できないです」
アイドルとマネージャー。
恋愛禁止のルール。
守るべき立場も、夢も、全部わかっていた。
でも、心はそれ以上に彼を求めていた。
静かに灯る間接照明の下、2人の影が重なる。
それは、決して許されない関係の始まり。
だけど——誰よりも純粋で、誰よりも熱い「恋」だった。
第5章:グループに走る違和感
「さくら、最近……ちょっと変わったよね?」
ふとした瞬間、メンバーの一人・ミナからそう声をかけられたのは、レッスン帰りのロッカールームだった。
「え……そ、そうかな?」
「うん、なんか……前よりふわっとしてるっていうか、いつも何か考えてる感じ」
(バレてないよね……?)
さくらは内心、息が詰まりそうだった。
あの夜以来、蓮との関係は確かに変わった。
すれ違いざまに視線が合うたび、ほんの一瞬でも温もりを思い出してしまう。
そしてそれを、誰にも悟られないように笑顔を繕う日々——
でも、隠しきれるものではなかった。
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最近、レッスン中のミスが増えていた。
フォーメーションを忘れたり、歌詞が飛んだり。
注意されればすぐに「すみません」と謝るけれど、どこか心ここにあらず。
それを最初に疑問視したのは、スタッフたちだった。
「鮎川、最近集中力に欠けてないか?」
「デビューから半年経って、疲れが出てきたのかもな」
「いや、それにしては情緒が揺れてる気がする」
そして——
それを一番近くで感じていたのは、マネージャーである蓮だった。
会議室での打ち合わせ中、ディレクターから言われた言葉が胸に突き刺さる。
「蓮くん、鮎川のことで何か知ってる?……あの子、アイドルとしてのバランスが危うい気がしてね」
(俺のせいだ。俺が、線を越えたから——)
蓮は何も言えなかった。
さくらの未来を考えれば考えるほど、自分の存在が邪魔に思えてしまう。
けれど、彼女を手放すこともできなかった。
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その夜、仕事終わりに合流したふたり。
互いに言葉が少なかった。
「さくら……最近、しんどいか?」
「……ううん、蓮さんといるときが一番、息できるの。でも、それ以外が……どんどん苦しくて」
「……ごめん。俺が、ちゃんと線を引けなかったせいだ」
「そんなの違う……私、後悔なんてしてない。ただ……ね、誰にも言えないことを隠してるのが、私、下手なんだと思う」
静かな部屋で、さくらがぽつりと呟く。
「このまま、全部終わってもいいって思っちゃうときがある。でもそれって、きっと“逃げ”だよね」
蓮は言葉を失った。
彼女はまだ19歳にもなっていない。
夢の途中で、彼女が「終わり」を考えている。
それが、何よりも苦しかった。
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そして数日後、事件が起こる。
リハーサル中、ステージ上でさくらが足をもつれさせて倒れた。
「さくら!?大丈夫!?」「誰か氷持ってきて!」
騒然とするスタジオ。
駆け寄った蓮とさくらの視線が交わる。その瞬間、誰かが息をのんだ。
「……今の、なんか……変じゃない?」
最前列にいたミナが、低く呟く。
2人の間に流れる空気を、誰かが感じ取ってしまった。
静かに、静かに、
“秘密”の輪郭があらわになっていく。
第6章:鼓動の告白
その日は、突然だった。
朝から微熱があり、なんとなく体が重い。
けれど、収録もリハも休むわけにはいかない。
さくらはいつも通り制服風の衣装に袖を通し、メイクを終え、ステージに立った。
……だが、その最中。
音響が一瞬乱れたかと思った次の瞬間、視界がぐらりと揺れた。
足がふらつき、世界が遠のく。
誰かの声が聞こえたような気がしたけれど、もう身体が言うことをきかなかった。
「さくら!……さくら!!」
倒れた彼女を一番に抱き上げたのは、やはり——蓮だった。
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病院のベッドで目覚めたさくらは、真っ白な天井をしばらく見つめていた。
静かな個室。隣に座っていた蓮が、ほっと息を吐く。
「……無理するなって、何度言えば……」
彼の声がかすかに震えていた。
「ごめん、心配かけて……でも、よかった。収録、途中で止まっちゃったけど、みんな無事で……」
「そんなことより、自分の体のほうが大事だろ?」
言いかけて、蓮は口を噤んだ。
目の前の少女は、まるで何かを隠すような目をしていたから。
「さくら……何か、言いにくいことがあるなら……」
その言葉に、彼女の唇が震えた。
「……検査の結果、出たの」
「……え?」
「妊娠……してた。3週目。まだ確定じゃないけど、可能性は高いって」
静寂が、部屋を満たした。
モニターの電子音だけが、微かに響く。
蓮は、何も言えなかった。
言葉を探しても、喉の奥で全部詰まっていく。
「……ごめんなさい」
涙が止まらなかった。
身体の震えも止められなかった。
「アイドルとして、一番やっちゃいけないこと……しちゃった」
「……違う。さくら、謝るな」
蓮は、ベッドの隣で彼女の手を強く握った。
「俺が悪い。全部、俺が……でも、俺は逃げない。さくらと、この子を守る。どんなことがあっても」
さくらは、目を大きく見開いて彼を見つめた。
信じたかった。
でも信じるのが、怖かった。
蓮のその手は、彼女の震えを包むように、しっかりと握ってくれていた。
---
その夜、LINEのグループチャットが騒がしかった。
「さくら、体調どう?」
「明日からレッスン2日休みになったよ!」
「無理しないでねー!」
どのメッセージにも、優しさが詰まっていた。
だからこそ、さくらは苦しかった。
この中の誰も、まだ知らない。
自分の中に、新しい命が宿っていることを。
(私は……どうすればいいの?)
アイドルとしての夢。
メンバーとしての日々。
蓮との秘密。
そして、新しい“命”。
心がぐらぐらと揺れる。
だけど、もう時間は止まってくれない。
決断の時が——近づいていた。
第7章:崩壊と決意
薄曇りの朝。
いつものスタジオに、いつもと同じ音楽が流れていた。
でも、今日は違った。
メンバーたちの前に立つさくらの表情は、明らかに何かを決意した顔をしていた。
「……みんな、ちょっとだけ、時間ください」
ミナ、アユ、リオナ、サラ。
LOVEYOUの仲間たちは、手を止めて静かにうなずいた。
さくらは、ゆっくりと深呼吸をしてから口を開いた。
「私……アイドルとして一番やっちゃいけないこと、してしまいました」
数秒の沈黙。
「恋愛……してました。そして……妊娠しました」
その瞬間、空気が止まった。
誰もが、言葉を失っていた。
「……相手は、蓮さんです」
ざわっ——と、スタジオの空気が揺れた。
「なんで……?」
「ずっと隠してたの……?」
「どうして私たちに……」
呆然と立ち尽くすミナが、絞り出すように言った。
「さくら、嘘でしょ……私たち、信じてたのに……」
「ごめんなさい……ずっと言えなくて、本当にごめんなさい」
言葉では届かない涙が、ぽろぽろと零れ落ちていった。
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その日の午後、事務所での緊急会議。
代表、マネージャー陣、そしてさくらと蓮が揃う中、冷たい空気が流れていた。
「……この事実が外に出れば、グループは確実にダメージを受けます。あなたたちだけの問題じゃない」
「……わかってます」
さくらの声は小さく、けれど震えていなかった。
「私は、LOVEYOUを脱退します」
蓮が何か言いかけたが、さくらが静かに手を添えて止めた。
「私が選んだ道です。アイドルとしてじゃなく、一人の女の子として、この命を守りたいんです」
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数日後。
記者会見。
フラッシュの嵐。張り詰める空気。
髪を下ろし、シンプルな白いワンピースに身を包んださくらが、マイクの前に立つ。
「鮎川さくらです。私は本日をもって、LOVEYOUを脱退いたします」
カメラの音が激しく鳴る。
「私事ではありますが……妊娠していることがわかりました。相手は、所属事務所のマネージャーです」
会場がざわめく。
「応援してくださった皆さま、メンバー、そしてスタッフの方々。裏切るような形になってしまったことを、心からお詫びします」
一礼するその姿は、もうアイドルではなかった。
でも誰よりも、彼女自身として、まっすぐに立っていた。
---
その夜。
さくらのInstagramに投稿された一枚の写真。
——白い花束を抱え、微笑む彼女の姿。
「ありがとう。そして、これからも自分を信じて生きていきます。」
そんなキャプションと共に。
コメント欄には、賛否を超えた多くの声が寄せられていた。
> 「正直ショックだったけど、さくらが自分の人生を選んだこと、すごいと思う」
「“清楚”の意味が、もっと深くなった気がします」
「あなたの真っ白な心が、これからも誰かを照らしますように」
第8章:純白の果実
「ママ、みてーっ!」
庭先でよちよち歩きの小さな女の子が、笑顔で白い花を差し出してきた。
さくらはしゃがみ込み、小さな手からその花を受け取ると、頬にあててにっこり微笑んだ。
「きれいなお花だね。ありがとう、さき」
「さき、ママに、まっしろのおはな あげたかったの!」
「……ふふ、そうなんだ。ママ、嬉しいな」
季節は春。
風に揺れる洗濯物、ウグイスの声。
穏やかな陽射しの中で、さくらの新しい日々が静かに輝いていた。
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あれから2年。
さくらは芸能界を離れ、蓮と共に静かな町で暮らしていた。
娘・咲は1歳半になり、もうすぐ二語文を話し始めるほどの成長ぶり。
「おーい、さきー!お昼できたぞー」
キッチンから蓮の声が響く。
「パパー!」
嬉しそうに駆け寄る咲を見つめながら、さくらは胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。
(私は今、ちゃんと“私の人生”を生きてる)
たしかに——あのときすべてを手放した。
仲間も、夢も、ステージの輝きも。
でも、その代わりに手に入れたこの日々は、決して“妥協”じゃない。
泣いて、悩んで、選んだからこそ——
彼女は“幸せ”の意味を、自分自身で掴み取ったのだ。
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ある日、郵便ポストに一通の封筒が届いた。
差出人は不明。けれど、開いた瞬間、その筆跡にさくらは胸を打たれた。
> さくらへ
あの日、私たちは本当に驚いたし、正直、裏切られた気持ちだった。
でも今なら、少しだけ、あなたの強さがわかる気がします。
私は今でもLOVEYOUで歌ってるよ。
でも、さくらが選んだ道も、立派な“夢”だと思う。
またどこかで会えたら、その時は、ママになったあなたの話を聞かせてね。
ミナより
涙が、一粒だけ、便箋に落ちた。
「ありがとう、ミナちゃん……私、ちゃんと生きてるよ」
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咲は眠り、蓮は隣で読みかけの小説を開いている。
夜の静けさのなか、さくらはふと空を見上げた。
満月の光が、まっしろな世界をやさしく照らしていた。
(“純白”って、汚れてないって意味じゃない。何度でも、真っ白から始められるってことだ)
そう思えたのは、恋をして、傷ついて、でも“信じる”ことをやめなかったからだ。
そして彼女の胸には、もう迷いはなかった。
未来がどうなっても、きっとこの愛だけは変わらない——
さくらは、小さく微笑んだ。
「さき。あなたが、生まれてきてくれて本当によかった。……ありがとう」
咲の寝息が、小さく返事をしたような気がした。
---
〔完〕