90:ディランの想い
「…………ディランくん」
ナフメディさんが、痛ましそうに僕を見つめた。
「にゃー! にゃー!」
腕の中のジゼルが、何かを訴えるように鳴き続ける。
「ごめん……ごめんね、ジゼル」
僕は一粒の涙をこぼした。
その雫がジゼルの頭にポトンと落ちる。
ジゼルは鳴くのをやめて、じっとしてしまった。
「僕が、クリスティーナ様を幸せにしたかったから……アレックス王子の恨みを買ってしまった。僕だけならよかったのに、ジゼルにまで……」
涙がまた頬を伝った。
ジゼルを濡らしては可哀想だと思い、慌てて手の甲で拭う。
「今回は運良くナフメディさんのお陰で帰ってこれたけど、殺されていたかもしれない……これからも、こんなことがあるかもしれない……」
「にゃぁ……」
ジゼルがその青い瞳で僕をじっと見上げた。
やさしい彼女が〝気にしないで〟と慰めてくれているようだった。
「ディランくん、それは違うと思うよ。全てが君のせいなんかじゃない。蒼願の魔法を使うことを、そんなに背負い込まなくていいと思う」
ナフメディさんが優しく説いた。
僕はうつむいたまま答える。
「でも……僕はジゼルに……蒼願の魔法をかけることが出来ません……」
腕の中のジゼルと目を合わせたまま、ゆっくりと告白した。
「ジゼルを人間にしたい思いが弱いから。それは僕が、ジゼルを守り切れないから……」
僕の彼女に向ける思いは、以前と変わってしまった。
『ジゼルといつまでも一緒にいたい』と穏やかに思うよりも、『ジゼルを危ない目に合わせたくない』と強く思っている。
その中には『僕から離れた方がいい』という思いまであった。
「…………」
魔法で思いを感じ取ったナフメディさんは、僕をじっと見つめるだけで、それ以上何も言わなかった。
「……にゃぁ」
ジゼルが小首をかしげる。
そんな彼女を撫でながら、切なげに答えた。
「猫のままでいた方が安全だよ」
僕は泣き笑いを浮かべた。
本当は〝猫のままでいた方が幸せだよ〟と言いたかった。
ーーーーーー
ディランは「顔を洗ってきます」と席を外した。
ソファに残されたジゼルは、釈然としない表情をナフメディさんに向けた。
彼にとっては、猫がこっちを向いただけにしか見えないけれど。
それでも、何か言いたげな気配は伝わっていた。
「……ディランくんは、優しくて真面目だからなぁ。今回のことで深く責任を感じてるんだよ。だからってジゼルちゃんを元に戻さないのは、ちょっとどうかと思うけどね」
ジゼルはソファを降りて、ナフメディさんが座る向かいの席に飛び乗った。
くるりと前を向き、彼の隣にちょこんと座り直す。
それを待って、ナフメディさんが続けた。
「まぁすぐにジゼルちゃんを人に戻すと、アレックス王子にバレやすくなるかもね。ディランくんの元に無事に戻っているのが」
「……にゃー……」
ジゼルは〝そうですね〟と相槌を打つ。
「あの王子はちょっと抜けてるから、ほとぼりが冷めてから人に戻れば、気付かれないんじゃないかな?」
ナフメディさんがジゼルの耳の後ろを優しく撫でた。
「…………」
「なぁに、大丈夫さ。ディランくんもしばらく経てば、勇気が出るだろう。それにそのうち好きな人とは、触れ合ってイチャイチャしたくなると思うよ〜」
元気がないジゼルを気遣って、ナフメディさんがわざとおどけてみせた。
……そうだといいんだけど。
ジゼルは照れながらも、ディランが早く立ち直るように心の中で祈った。
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ナフメディさんはあれから僕の家に一晩泊まると、またどこかの国へと旅立つことにした。
「……もう、キールホルツ国には2度と行かない」
別れ際にナフメディさんがそう宣言した。
彼は珍しく、すっかりしょげた顔をしていた。
よほど軟禁生活が堪えたらしい。
風のように生きるナフメディさんらしいなと、僕は苦笑しながら手を振った。
猫になったジゼルは、以前と同じように僕のそばで日々を過ごしていた。
日中は僕の膝の上でお昼寝するのが大好きで、夜は僕のベッドで寄り添うように丸まって眠る。
言葉は交わせないし、一緒に食卓を囲むことは難しくなってしまったけれど、僕らは穏やかで変わらない安らぎに包まれていた。
幸せそうに眠るジゼルの寝顔を見つめては、これで良かったのかもしれないと感じる。
通じ合ってはいるけれど、ほんの些細なことが伝えきれないのがもどかしいから、僕も猫になろうかな?
ついそんなことを思っていると、いつかこんな話をした時のジゼルのセリフがよみがえった。
〝私、ディランのことが大好きだから、人間のままでずっと一緒にいたい〟
…………
彼女の声が頭の中に響く。
僕の胸がキュッと痛んだ。
分かっているんだ。
ジゼルの思いを蔑ろにしていることは。
けれど……好きという気持ちだけじゃ、どうしようも出来ないこともある。
……身勝手でごめん。
僕は懺悔にも似た気持ちを抱えまま、ジゼルの想いと向き合わないでいた。
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数日後、蒼い月の夜が巡ってきた。
魔術師なら、魔力が高い動物の声を聞ける日だ。
もちろん僕もそうで、猫に戻ったジゼルに何か言われるのを覚悟していた。
でも……
今日に限ってジゼルは出掛けていた。
猫の習性か、夜になるとふらりと出かけることが増えた。
今日もきっとその類だろう。
期待が外れた僕は、店のカウンターに頬杖をつきながらお客様を待った。
キィィ……
その時、誰かが扉を開く音がした。
薄暗い店内に蒼い月あかりが差し込む。
「いらっしゃいませ」
僕は椅子から立ち上がると、扉の向こうに声をかけた。
けれど訪れた人を見て息を呑む。
「ジゼル……」
そこには蒼い月明かりに照らされて、立ち尽くしているジゼルがいた。
猫耳と尻尾が生えた彼女の姿は、以前とそっくりそのままだ。
懐かしい気持ちを覚えるほど。
ジゼルは、白いワンピースのスカートをキュッと握ってうつむいていた。
やがて意を決して顔を上げると、クリッとした青い猫目を僕に向ける。
「ディラン、お話しよう?」
聞き慣れた声より、ずいぶん幼い声が響いた。




