9:ジゼルの願い
太陽の日が沈み、夜の帳がゆっくりと降りる頃。
薄暗い西の空に蒼い月が顔を出したかと思うと、街を端から蒼く染め上げていく。
店を開けるために外に出ていた僕は、ふと手を止めて空を見上げた。
蒼い月明かりを浴び、自然と目を閉じる。
僕たち蒼刻の魔術師の魔力の源は、蒼い月にあると考えられていた。
だからかな。
こうして月明かりに照らされると、体がじんわりと暖かくなる気がする……
僕は束の間の月光浴を楽しんでから、店の中へと入っていった。
後ろ手で扉を閉めていると、店内に差し込む蒼い月光が細くなっていくのが見えた。
「ディラン!」
閉まりかけの扉の外から、誰かの切迫詰まった声が聞こえた。
僕が咄嗟に振り返ると、白い塊が胸へと突っ込んでくる。
「うわぁ!」
ドシンという大きな音と共に、僕は後ろへ倒れた。
それと同時にバタンと扉が閉まる。
「いったぁ……って、ジゼル?」
薄暗くなってしまった店内で自分の胸の上を見ると、白猫が伏せるように乗っていた。
ジゼルがスッと顔を上げて、首を伸ばしながら僕の瞳を覗き込む。
僅かな月明かりを反射してキラリと光る、深い青色の瞳と目が合った。
「魔法をかけて! お願い!」
「えぇ? どうしたの??」
彼女の鬼気迫る様子に驚いた僕は、急いで補助魔法をかけた。
猫のジゼルは、顔を上に向けて全身で光りを放つ。
すると、その光の中から女の子が姿を表した。
仰向けに倒れている僕に、馬乗りになったまま。
「……そろそろ降りてくれる?」
僕は、前にも言ったことのあるセリフをジゼルに投げかけた。
「待って待って! この姿じゃダメなの。もうウィリアムからの思いが高まってるでしょ!? 私を早く人間にして!!」
ジゼルが僕に覆い被さりながら叫んだ。
彼女の瞳からはポロポロと涙がこぼれ、僕の顔を濡らしていく。
「ジゼル…………」
その暖かい涙が降り掛かる感触は、不思議と嫌な感じはしなかった。
僕は彼女に向けられている思いを探ることにした。
するとジゼルが言うように、ウィリアムは飼い猫を人間にしたい強い思いを抱いていた。
今日は輪郭がやけにくっきりしている。
これなら魔法に出来るんだけど……
僕は苦笑いを浮かべた。
飼い猫に人間になって欲しいなどと、本気で望んでいるような男に、碌な人がいないことを僕は知っていたからだ。
けれど今日のジゼルはいつになく慌てており、ずっと泣いている。
そして倒れているままの僕に、ジゼルも寝そべるようにしてピッタリくっ付くと、涙でグチャグチャになった顔を僕の肩に擦り付けた。
「うわぁ……なんか服が濡れてきた……」
流石に少し嫌だったので、僕は思わず顔を引きつらせた。
興奮しているジゼルをどうにか落ち着かせてから、彼女を談話スペースのソファに座らせた。
窓から差し込む蒼い月の光に照らされたジゼルが、僕の動きをいちいち目で追ってはソワソワしている。
けれどさっき僕で涙を拭いたからか、今はもう泣いてはいなかった。
僕はジゼルの前に片膝をついてしゃがみ、彼女の両肩に手を置いた。
そして目線を合わせて優しく説く。
「……ジゼルが言うように、今のウィリアムからの思いの強さなら、魔法に出来るけれど……本当にいいの?」
今からかける魔法は、僕ら蒼刻の魔術師にしか扱えない。
解くことも出来ない。
人からの強い思いの具現化だ。
その人にとって喜ばしいことにもなるし、呪いにもなる魔法だ。
それまで猫耳を伏せてシュンとしていたジゼルが、僕の問いかけに対して力強い目線を返してきた。
「私、ウィリアムが大好きなの! 彼の思いに応えたいっ!!」
いったんは泣き止んでいたジゼルの瞳に、みるみるうちに涙が溜まった。
月の光を反射して、青くキラキラ瞬く。
そんな彼女を見ると何故か胸が痛んだ。
人に疎まれることもある僕に出来た、数少ない友達。
ジゼルはいつも、屈託のない笑顔を僕に向けてくれた。
僕の魔法が好きだと言って励ましてくれた。
彼女といると……僕も楽しかった。
そんな大事な友達に、本当にこの魔法をかけていいのだろうか?
僕は胸のつかえをなくすかのように、大きく息をついた。
「いい? 僕の魔法をかけてしまうと、ジゼルは猫に戻れないよ。ずっと人間として過ごすんだ」
もう一度、僕はジゼルを説き伏せることを試みた。
ついでに彼女の涙を、指でそっと拭う。
一瞬片目を閉じたジゼルが、再び開いて僕を見つめると、その瞳には変わらず強い意志を宿していた。
「分かってる。それでもいいの。人間になってウィリアムと一緒にいる!」
彼女が僕に向かって叫んだ。
「…………」
また僕の胸の奥がキュッと痛んだ。
その痛みに思わず眉をひそめる。
……いつに増しても正解が分からない。
僕が魔法をかけることによって、ジゼルが不幸にならないか心配でたまらない。
けれど……ジゼルがこんなにも望んでいる。
僕が難しい表情をして動かないでいると、ジゼルが一生懸命、懇願した。
「お願い……お願いディラン。私を〝人間のジゼル〟にして」
そして弱々しく僕に抱きついてくる。
「ジゼル…………」
シクシク泣き続ける彼女を抱きしめながら、僕は魔法をかける気持ちを固めた。
「じゃあ、魔法陣の上に立って」
腕の中のジゼルに囁くと、彼女はバッと顔を上げた。
そしてゆっくりと口元を綻ばせ、涙を流す。
「ディラン。ありがとう」
ジゼルはソファから立ち上がり、恐る恐る魔法陣の上に立った。
すると降り注ぐ蒼い月の光に包まれ、思わず天井を見上げる。
彼女は「わぁ」と華やいだ声をあげると、両手でお皿を作るようにして光を受け止めていた。
白いワンピースを着た小さなジゼルは、深海の中に閉じ込められた妖精のようだ。
それは、お伽話のワンシーンにも見える、儚げな光景だった。
「……じゃあ、魔法をかけるよ」
僕は静かに告げると呪文を口にした。