80:月夜の役者たち
みんなが寝静まった夜。
空には蒼い三日月が浮かんでいた。
その笑っているような月から届く優しい光が、街を神秘的に蒼く染め上げる。
そんな静かでどこか厳かな蒼い月夜の日。
店には、男性と女性のお客様が一緒に来店していた。
談話スペースのソファに腰を下ろした僕は、向かいに座る女性をついジッと見つめて聞いた。
「……女優のティファニーさん……ですよね?」
すると女性は、大きなため息をついて答える。
「その通りよ。私は舞台女優をしているティファニー。でも今日で女優のティファニーとお別れするつもりよ」
彼女はサラサラな髪の毛を耳にかけながら、優雅にほほ笑んだ。
それからティファニーは、僕が出したカップとソーサーを手に取り、口をつけた。
彼女の隣に座る男性が、入れ代わりに喋る。
「オレは同じく役者のコンラッド。ティファニーは人気が出過ぎたことで、気軽に外にも出れなくて、嫌気が差してしまっているんだ」
爽やかな笑顔を浮かべるコンラッドは、チラリとティファニーに視線を送った。
彼女はカップとソーサーをいったん机に戻し、ゆっくり僕を見る。
「こんな窮屈な思いはもう嫌なの。息も出来ない程だわ」
すると、僕の隣に座るジゼルが尋ねた。
「……女優を辞めたいという事ですか?」
ティファニーが今度はジゼルを見ると、ニコリと笑いかけた。
「そうなの。けれど有名になってしまったから、辞めるだけじゃ平穏な生活は戻らないわ。だから……顔を変えたいの」
「えっ…………?」
思ってもみなかった返事に、ジゼルが小さく息を呑む。
なんとなく蒼の魔法で感じ取っていた僕は、落ち着いて彼に聞いた。
「それが……コンラッドさんの思いですか?」
「うん。オレはティファニーを誰よりも愛しているんだ。彼女を今の状況から助けてあげたい」
目を細めた彼が、隣のティファニーを愛おしげに見つめた。
彼女もコンラッドを見つめ返し、笑みを返す。
情熱的な恋人たちの視線の語り合いが終わると、コンラッドがようやく続きを喋った。
「それに、大勢の人から好かれている彼女を、嫌だと思う気持ちもあるんだ。好きな人なら一人占めしたいだろ?」
「フフフッ。可愛いワガママね」
ティファニーが鈴を転がすような声で笑った。
2人の甘い雰囲気に流されないよう、僕は表情を正してティファニーに尋ねた。
「……僕の魔法は、一度かけると解くことが出来ません。顔を変えたらずっとそのままですよ?」
「ええ。分かっているわ。何度も何度も悩んだけれど、決心したの」
彼女がしっかりと僕を見据えて続けた。
「……舞台じゃなくても、みんな私の一挙一動に注目するの。私の毎日は演劇に変わってしまったわ。酷い人なんかは、私を役名で呼んで〝なんでそんなことをするのか?〟って本気で聞いてくるのよ?」
彼女は何でもないように笑ったけれど、その目は潤んでいた。
それを隠すように、目を伏せて語る。
「……参っている私を支えてくれたのが、コンラッドなの。彼の前でだけ、私は〝ただのティファニー〟でいられる……だから、コンラッドの望むように顔を変えてしまっても、何も困らないわ」
下を向いたティファニーの瞳から、涙が溢れた。
ポタポタと輝く雫が彼女の膝に落ちる。
ティファニーが静かに涙を流すのを見て、コンラッドはたまらず彼女の肩に手を回した。
「どんな風に顔を変えるのか、ティファニーともよく話し合ったんだ。君たち蒼刻の魔術師の存在を、タナエル王子の結婚パレードで初めて知ってね。それで『人から向けられた願いを叶える』魔法の存在も知ったんだ」
愛想のいい彼が、眉を下げてほほ笑みながら続けた。
「オレの思いが重要なんだろ? だから、この所毎日のように、目はこう変えよう、鼻はそのままにしようって、ティファニーと話し合っているんだ。ちゃんと思いを擦り合わせて、2人で形作っているよ」
「…………」
僕は手と手を取って寄り添うふたりを見つめた。
ティファニーがそっとコンラッドを見上げると、彼は優しく彼女の涙を拭ってあげていた。
一目見ただけで分かるほど、相思相愛の2人。
ティファニーは本気で苦しんでいるし、コンラッドはなんとか救ってあげたいと思っている。
けれど、本当にこの願いは叶えていいのだろうか?
僕は悩みながらも口を開いた。
「……ひとまずティファニーさんに向けられた思いが、魔法に出来るほど強いものか、見させていただきますね」
「分かったわ」
ティファニーがこくりと頷いた。
僕は彼女に意識を集中させた。
沢山の思いの中から、強い思いだけを選り分けて掬い取る。
すると『ティファニーの顔を変えたい』という、コンラッドからの強い思いを見つけることが出来た。
それと共に『ティファニーを舞台から下ろしたい』という、小さな思いも感じた。
苦しんでいるティファニー自身が、女優を辞めたいと言っている。
彼もその思いに同調しているのだろう。
……それにしても、人気者の彼女に向けられた思いは数が多い。
どれもそこまで強くないけれど、混ざり合った無数の思いが渦巻いており、探るのに苦労する。
僕は思いの世界から静かに戻り、ティファニーにほほ笑んだ。
「確かに、コンラッドさんからの強い思いが向けられていますね」
「じゃあ、その思いを叶えて下さる?」
喜びの表情を浮かべた彼女が、小首をかしげる。
「…………本当に、魔法をかけますか?」
僕はティファニーとコンラッドを交互に見つめた。




