59:みんなの思い
イグリスは跡形もなく消え去った。
外に面する廊下までそろそろと移動した僕は、柵に手をかけて、イグリスがさっきまで居た場所を熱心に見た。
「…………終わった?」
誰に聞くわけでもなく呟くと、ミルシュ姫が握っていた剣を手から離し、地面に落とした。
『……エル!』
姫は目尻に涙を浮かべながら、タナエル王子に駆け寄った。
タナエル王子も剣を仕舞うとミルシュ姫に向かって手を広げ、彼女を抱き止める。
2人はきつく抱き合いながら、再会を喜び合っていた。
『エル、助けに来てくれてありがとう』
『ギリギリになってすまない。けれど、最後までミルシュが抗っていたから、間に合ったんだ。民を守るために、王女としてよく頑張ったな』
ミルシュ姫がバッと顔を上げて、目を大きく見開いた。
優しく笑う王子を映したその赤い瞳に、涙の膜がゆっくり広がっていく。
姫はこらえきれない想いを押し殺すように眉を寄せて、切なげな表情を浮かべた。
『……うん……』
彼女が大きく首を振ると、涙がポタポタと落ちた。
そして幸せそうに目を閉じてほほ笑み、涙を流しながらタナエル王子の胸に顔を埋めなおした。
王子も、滅多に見せない朗らかな顔で笑っている。
良かった。
タナエル王子だって、あんなふうに愛情深い顔が出来るんだ。
僕が失礼とも思える感情を抱いて2人を見守っていると、不意にいつもの無表情に戻ったタナエル王子と目が合った。
「!?」
思っていることがバレたかと思い、僕がビクリと体を震わせている間に、王子は地面に目を向けていた。
「あ、……はい……」
僕は思わず小声で返事をして頷いた。
姫を救い出した後の予定では、この中庭に魔法陣を描き、速攻で魔法をかけることになっていた。
タナエル王子は目線だけで「早くしろ」と訴えているのだ。
言葉がなくても、王子の意思がくみ取れるようになった自分が、なんだか悲しい……
そんなことを思いながら、僕は廊下から外へと続く階段を降りて中庭へ向かった。
すると、隠れていたジゼルとクシュ姫も出てきて、僕の後に続く。
クシュ姫が抱き合う2人に遠慮がちに近付くと、それに気付いたタナエル王子が、ミルシュ姫の肩をトントンと叩いた。
『ミルシュ、後ろを見てごらん』
顔をそっと上げたミルシュ姫が、タナエル王子の目線を追うように振り向いた。
『クシュ!?』
『ミルシュお姉様!』
ミルシュ姫が大泣きしながら、今度はクシュ姫を抱きしめた。
クシュ姫も、姉に負けないぐらい声を張り上げて泣いている。
姉妹の感動の再会を横目で見ながら、僕は杖のような大きな魔法のペンを出現させた。
ペン先が黄金の光を灯し、僕がそっと動かすと光の線を描いて追いかけてくる。
その軌跡が光を失い黒く変わると、地面に文字や紋様として定着した。
気付けば僕のそばにジゼルが立っていた。
彼女は邪魔をしないように、ただ静かに見守ってくれている。
「ジゼルの魔法のおかげで助かったよ。ありがとう」
僕は魔法陣を描きながら、ジゼルに話しかけた。
話せる余裕があると分かったジゼルが、ふっと力を抜いて喋り始める。
「状態異常を解除する魔法が効いて良かった……魔力は足りそう?」
「実はかなり厳しそうなんだ。ちょっと手伝ってくれる?」
魔法陣を描き終えた僕は、顔を上げると柔らかく笑ってジゼルを見つめた。
「もちろん」
ジゼルもその穏やかな青い瞳を細めると、ニッコリと笑った。
僕とジゼルが出来上がったばかりの魔法陣の近くに立つと、タナエル王子たちもそばに来た。
ミルシュ姫に、これからすることの説明は終えたようで、彼女が僕を見てペコリと頭を下げる。
僕も慌てて礼をしてから視線を上げると、ニッコリ笑っているミルシュ姫と目が合った。
嬉しそうに笑う姫に釣られて、僕も笑顔を返す。
「では、始めてくれ」
笑い合う僕らの横から、タナエル王子がピシャリと言った。
心なしか不機嫌そうに聞こえたのは、僕の気のせいに違いない。
うん、そうに違いない。
僕は隣に立つジゼルに手を差し出した。
「じゃあ、魔力を分けてもらっていい?」
「うん!」
ジゼルが僕の手をしっかりと握りしめた。
僕たち魔術師は詠唱中に手を繋ぐと、魔力を分け与えることが出来る。
魔力を使い尽くすなんて滅多にないから、授業でしか行ったことはないけれど。
「全部はいらないからね。ホウキで飛んで帰るぐらいの魔力は、お互い残そう」
僕の言葉を受けて、ジゼルが頷いた。
頷き返した僕が、魔法陣に視線を送ってから目を閉じると、みんなもゆっくりと目を閉じた。
そして…………
蒼願の魔法をかける時がきた。
蒼い月に照らされて、僕は〝人からの願いを叶える〟魔術師。
不思議で幻想的で美しい瞬間。
僕が人々の幸せを望むかぎり、この特別な魔法とこれからも向き合い続けるのだろう……
たゆたうように呪文を奏でる僕は、この瞬間のために捧げられた膨大な思いに意識を向けた。
ーー長いあいだ魔物に怯えた人々の恐怖。
愛する誰かを捧げ続けなければいけなかった、やるせなさや悔しさ。
もう、誰も悲しませたくない怒りにも似た……国民たちの切実な願い。
中でもミルシュ姫の思いは強烈だった。
何としでもこの国を守るという、確固たる意志を秘めている。
タナエル王子が〝ベースはミルシュの国民を助けたい強い思い〟と言っていたことが、よく理解出来た。
先ほどの短いやり取りでどんな説明をしたのか、彼女はムカレの国全体に透明な防御壁を張る明確なビジョンを思い描いている。
魔物だけを通さない、その結界を。
蒼願の魔法の確実性を上げるもの、それは思いの具体性。
彼女にその役を抜擢したタナエル王子。
……さすが、僕より蒼の魔法を使いこなすお方だ。
僕は呆れにも似た感服した気持ちを抱いて、ムカレの国に向けられた『魔物からこの国を守りたい』という大きな大きな思いを掬い上げていった。
魔法陣がポワッと蒼く光ったかと思うと、いきなり強烈な光が噴き出した。
すると一気に体が熱くなり、同時に凄まじい圧が僕にかかる。
いつもと違う様子に、思わず呪文の合間に薄っすら目を開けると、描いた魔法陣の外側に更に大きな魔法陣が展開されていた。
……これは、元始の魔法陣!?
蒼い月にいる湖の女性に思いを託された時、何か力を譲り受けた感じがしてたけど……
これのことだったんだ。
僕は冷や汗をかきながらニッと笑うと、再び目を閉じた。
ーーすごい。
これほどまでの思いの強大さ。
託された力で相乗された僕の魔法の能力。
これなら、願いをなんとか具現化出来そう。
あとは……
僕の魔力が足りるかどうか。
ちょうどその時、ジゼルが僕と繋いでいる手を強く握った。
その手から、暖かくて優しい魔力が注がれ続けている。
体の中で、僕の魔力と混じっていくーー
僕は不意に、ジゼルの手を振り払うように離した。
これ以上彼女の魔力を奪わないように。
放っておくと、2人とも魔力が底をついて共倒れする可能性が高い。
その場合、系統の違うジゼルに負荷がかかるだろう。
僕はジゼルも守りたかった。
「ディラン!?」
驚いたジゼルに呼ばれたけれど、僕は構わず呪文を唱え切った。
ーー何もかもが蒼い光に包まれて、世界が一瞬止まったように感じた。
僕の体もごっそり魔力が無くなり、力が入らなくなってふらりと前に傾いたかと思うと……
そこで意識が途切れてしまった。
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