58:いつかこの身を捧げる日まで
不気味に佇むイグリスに、剣を構えたミルシュ姫とタナエル王子が対峙した。
僕は姫の救出だけだと思っていたのに、イグリスとの戦いが始まってしまっていた。
相変わらず穏やかにほほ笑む彼は、頬を薄っすら赤く染めて常にゆらゆらしている。
上機嫌なその様子は、まるでお酒に酔っているみたいだった。
……あ、ミルシュ姫の血で酔っているんだ。
僕が血の効力を目の当たりにして小さく驚いていると、イグリスも何故か驚いた表情を浮かべて呟いた。
「あれ? ……魔法が発動しない?」
彼が喋るのを初めて聞いた途端に、僕は何とも言えない嫌な気持ちになった。
頭に直接響いてくるようなイグリスの声が、まとわりついて離れない。
けれど僕以外は平気なようで、イグリスに素早く近づいたミルシュ姫が、掲げた剣を振り下ろす。
イグリスはゆらりと身を引いたけれど、避け損なった右腕が斬られてボトリと落ちた。
途端に黒ずんだ血が溢れだす。
すぐさまタナエル王子が追撃し、イグリスの体を斜めに斬ったかと思うと、お腹のナイフ目掛けて押し込むように蹴り上げた。
イグリスは背後の大きな引き戸もろとも、外へと吹き飛ばされる。
「〝神聖なお守り!〟」
僕はその隙に、前線で戦う王子と姫に魔法をかけた。
2人の体が一瞬だけ黄金の光に包まれ、魔物の魔法を防ぐ効果が授けられる。
お互いをチラリと見てその様子を確認した王子らは、外に面する廊下へと進み出て、吹き飛んだイグリスの様子を睨むように窺った。
イグリスはまた静かに立っていた。
無くなった右腕や他の傷から血をボタボタと流しながらも、まったくダメージになっていないのか、余裕の笑みを浮かべている。
その三日月のような目を、ふいに僕に向けた。
「……そうか、聖の魔法……」
イグリスがボソボソ呟くと目を見開いた。
赤く妖しく光ったそれに一瞬魅入られると、僕の首が何かに掴まれたかのように、突然息がしづらくなった。
「く……うぅ……」
僕は首元を押さえながらゆっくり膝をつくと、背中を丸めて震えた。
「ディラン!?」
一瞬だけ視線をよこしたタナエル王子が、驚いて叫ぶ。
そしてイグリスをキッと睨みつけると、廊下の柵を飛び越えて外に飛び出し、彼に斬りかかっていった。
ミルシュ姫も柵をひらりと飛び越えて、白いドレスの裾をたなびかせながら、イグリスへと向かっていく。
イグリスは僕から視線を外し、向かってくる王子と姫を待ち構えた。
けれど僕の息苦しさは一向に治らない。
逆に徐々に強くなっていくほどだ。
タナエル王子が斬りかかるも、イグリスの手前で剣が弾かれた。
動揺することなく、ニ撃目に移ろうと王子が身をひねると、疾風が起こり押し流されるように後退した。
彼は咄嗟に腕で顔を庇い、低く身を沈めて受け身の姿勢を取る。
「…………もう魔法を使い出したかっ」
タナエル王子がすばやく顔を上げて剣を構え直すと、苦々しく吐き捨てた。
ーーやっぱり。
さっきかけた聖の魔法が、もう切れ始めている。
僕は戦いの様子を耳で聞きながらも、必死に思考を巡らせていた。
戦い中は詠唱に時間がかけれず、上級の魔法を発動することは難しい。
けれど通常の聖の魔法では、短時間で切れてしまうのだ。
それだけ相手が強いから……
「…………ぅ……あ」
こまめに魔法をかける必要が分かっても、今の僕は息苦しさで喋ることもままならない。
どうすればと焦りが募るものの、ただうつむいているしかない僕の顔を、白銀の光が照らした。
……白の魔法陣!?
「〝癒しの賛歌!〟」
背後からジゼルの声がしたかと思うと、僕の体が白い光に包まれた。
すると呼吸が少し楽になり、立ち上がって急いでイグリスに魔法を飛ばす。
「〝魔法を封印せよ!〟」
無事にかけ終わると、ふっと体が軽くなり息苦しさも完全に消えた。
すぐにジゼルの声が聞こえた方へと振り返った僕は、入ってきた扉の奥からジゼルとクシュ姫が顔だけ覗かせているのを見つけた。
ジゼルは隠れながら詠唱し、魔法をかけてくれたようだ。
彼女が今にも泣き出しそうな顔で、僕をじっと見つめている。
僕は頷いて、ジゼルに大丈夫だよと伝えた。
それから再び前を向き、戦いに集中する。
おそらくジゼルたちは、僕らの後からホウキに乗って追ってきたのだろう。
勝てる保証なんてない場所にやってくるのは、心底やめて欲しい。
けれど……おかげで助かったよ。
苦笑混じりに口元をゆるめた僕は、外で戦う王子と姫を目で追った。
そうして魔法をかけるタイミングを見定めていると、イグリスの低い声が辺りに響く。
「……おいで。僕たちよ」
彼の嫌な波長の声に顔を歪めていると、そばにある黒く濁った血溜まりの中から、その血を全身にまとった人型の何かが出てきた。
ドロドロした濁った血液が、体の表面をゆっくりと循環しており、こちらへ伸ばそうとする指先からポタポタと落ちる。
その雫が床に触れると、シュウシュウと蒸気を上げて腐っていった。
『切っても剣がすり抜けるだけなの!?』
『しかも飛沫を浴びると、片っ端から腐っていく……ミルシュ、気をつけろ!』
不愉快極まりない魔物は、部屋の外の血溜まりからも2体生まれており、王子と姫がそれぞれとすでに戦っていた。
ジリジリと迫りくる魔物に身構えながらも、剣では歯が立たない状況に、2人の動きが止まってしまう。
僕は目の前の魔物を睨みつけた。
「〝聖なる光!!〟」
魔物に手をかざして浄化の魔法を発動する。
黄金色の天上の光が降り注いだかと思うと、魔物は蒸発し、跡形もなく消え去った。
「ディラン! 私の剣にその魔法を付与しろ!!」
一部始終を見たタナエル王子が、僕に指示を飛ばす。
さすがタナエル王子。
聖の魔法についての魔術書を、一通り目にしたに違いない。
そこにはこの魔法が、道具にも付与出来ると書いてあった。
「分かりました!〝聖なる光!!〟」
僕がタナエル王子に手を向けると、彼が夜空に向けて剣を掲げた。
天井の光を浴びたその剣が、黄金に輝く。
王子はすぐさま両手で握り直し、魔物に向かって振り下ろした。
綺麗に縦半分に斬られたその魔物も、体が崩れる前に蒸発して消え去った。
「……これで斬ると、イグリスも蒸発するのか?」
タナエル王子が剣を相手に見せつけるように構えると、その刃越しにニヤリと笑みを浮かべた。
そしてすぐさま自身の体に引き寄せるように構え直し、身を伏せて駆け出した。
『ディラン!!』
イグリスの血で出来たもう一体の魔物と戦っていたミルシュ姫が、僕に向かって叫んだ。
僕は頷きながら彼女の方へと手を掲げる。
「〝聖なる光!!〟」
『……ありがとう!』
剣が黄金色に輝くのを確認したミルシュ姫が、魔物を切り倒してからニッコリ笑った。
戦場じゃなければ、見惚れるような美しさだった。
そして彼女もタナエル王子の後を追って、イグリスへと向かっていった。
それからはタナエル王子とミルシュ姫の怒涛のたたみかけ攻撃だった。
「フフフッ。すごいなぁ。まだミルシュの味が口に残ってる……」
イグリスはどんなに攻撃を受けても、気にすることなく悦に浸っていた。
その間にも聖の魔法を帯びた剣で斬りつけた部分が、徐々に蒸発して無くなっていく。
「美味しい。思ったとおり、ミルシュが一等美味しいよーー」
彼のうわ言が続く中、2人の息のあった連携攻撃も止む気配はなかった。
幾度と無く斬りつけられて、体の半分が蒸発した時になってようやく、イグリスが地面に倒れた。
それでも彼は熱に浮かされているかのように、光悦の表情をミルシュ姫に向けたまま告げた。
「……この器は壊れちゃったけど、絶対食べに行くから。待っててね」
イグリスの体が足の先から頭にかけて黒い霧へと変化し、最後はパッと飛散して消え去った。




