57:いつかこの身を捧げる日まで
無事に魔法陣を全て描き終えた僕たちは、シナンシャ平原の前線基地へと戻るために、ムカレの国との国境付近に広がる森を抜けることになった。
実はこの森を越えた先に、ミルシュ姫のいるヒエラの街がある。
以前このあたりの視察に来ていたタナエル王子は、視界の悪い夜に森の奥へと迷い込み、そのままヒエラの街近くでミルシュ姫と偶然出会ったのだった。
しかも今は姫の誕生日が近いため、ベルカント王子が言うように、街の周辺は昼間でも魔物が徘徊している。
僕たちはその危険な森を慎重に迂回し、なんとかシナンシャの基地へと戻ってきたのだった。
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「ジゼル〜?」
僕は彼女を探して、基地内をあちこち歩き回っていた。
すると基地の一角に、クシュ姫付きとして王宮から派遣された侍女たちが集まっており、ひときわ華やいだ空気を漂わせていた。
彼女たちは木箱に布を敷いた即席の椅子に座って、思い思いにお喋りを楽しんでいる。
遠巻きに眺めていると、その中にジゼルの姿を見つけた。
何やら1人の侍女と楽しそうに話し込みながら、ジゼルの長くて白い髪を、綺麗に結い上げて貰っている。
どうやら僕のいない間に、ジゼルはここでの暮らしにすっかり馴染んでしまったらしい。
「あ、ディラン!」
僕を見つけたジゼルが、一緒にいた侍女に断りを入れると、笑顔を浮かべてこちらへ駆けてきた。
「お帰りなさい。お疲れ様」
「ただいま。ここは変わりなかった?」
「うん。平和だったよ」
朗らかに笑うジゼルと久しぶりに会話をすると、今までの溜まった疲れがどっと襲ってきた。
ほっとため息をつき、力が抜けたように少し前かがみになると、ジゼルが眉を下げて笑う。
「すごく疲れてるね。大丈夫?」
「……大丈夫。ジゼルに会えて安心しただけだから。髪型可愛いね」
「えへへ。ありがとう。あっちでお茶しながら、お話聞かせて?」
ジゼルが、ニコニコしながら僕の手を取り引っ張った。
僕も笑いながら後をついていく。
ーーやっぱりジゼルの近くは心地いいな。
僕は暖かくて柔らかい彼女の手を、ギュッと握った。
そうして僕は、束の間の休息を取りながら……
次の蒼い月の夜を待った。
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待ち望んだ夜が、ついに訪れた。
うっそうと茂る森の木々を、月明かりが蒼く不気味に照らし、その中を魔物の赤い目がちらほらと光っている。
ヒュンヒュンと風を切る音の中に、時折り魔物の雄叫びが混じるけれど、いちいち気にしてなんかいられなかった。
なぜなら僕は、ホウキの後ろにタナエル王子を乗せて、全速力で駆け抜けていたからだ。
タナエル王子が僕の両肩を掴み、後ろから叫ぶ。
「いいか! 遠くに見えるあの街だ! あの中にある1番大きな建物まで行け!」
「はい!」
僕も風に負けじと声を張った。
ベルカント王子とタナエル王子が心配していたように、蒼い月の夜はなかなか訪れなかった。
そしてとうとう、ミルシュ姫の誕生日当日の朝を迎えてしまっていた。
蒼い月が出ると分からない状況では、魔物がうようよひしめく森に、部隊を無理に進軍させる訳にもいかず……かと言って出発が遅れると、ミルシュ姫が食べられてしまう夜に間に合わない。
そのためタナエル王子は、僕のホウキを使って、空からヒエラの街に行くと宣言した。
彼はあらかじめこうなった場合、僕らだけでもミルシュ姫の元に向かうと決めていたようだ。
王太子を危険に晒すこの行為は、さすがに家臣や従者から猛反対を受けたけれど……
そこはタナエル王子、全ての意見を一蹴していた。
けれど2人で馬で向かうなんてもってのほかだし、僕のホウキで人を運ぶのは1人が限界だから人数を増やせない。
今出来る最善の選択のもと、僕たちはまだ月の上らないうちに、前線基地を飛び出したのだった。
……でも良かった。
蒼い月が出てくれて。
僕は蒼い月明かりを浴びながら、まるで魔力が静かに満ちていくような気持ちになった。
これでミルシュ姫を助け出してから、速攻で蒼願の魔法をかけて結界が張れれば、とりあえずはイグリスを凌げるはず。
僕と王子だけで、魔物の国の王を相手にするなんて無謀すぎるから、あくまでも姫の救出が最優先だ。
タナエル王子の言葉的に、国で相手をするようだし……
僕は腰に携えている剣をチラリと見た。
出発前に、タナエル王子に無理矢理持たされたもので「多分、必要になるから」と押し切られた。
剣なんて扱えないのに……
僕は顔を軽く振って不安を追い払うと、前を見据えて指示された場所を目指した。
目的の建物に到着した瞬間、タナエル王子は扉を開けて、奥へと足早に消えていった。
慌てて僕もあとに続く。
勝手知ったる場所かのようにズンズン歩いて行く王子が、前を向いたまま背後の僕に指示を飛ばす。
「黒髪の優男がいたらそいつがイグリスだ! いいか、見つけたらすぐにあの〝魔物の魔法を無効にする〟魔法をかけるんだ!」
歩きながらも、タナエル王子が鞘から剣を引き抜いた。
勢いよく擦れる金属音が音色を奏でる。
「奴は無詠唱でいきなり魔法で切りつけてくる。例え私がやられても、ただその魔法をかけることを最優先しろ!」
言い終えると同時に、タナエル王子がひときわ豪華な扉に手をかけた。
僕はさっそくメイアス様に祈り始めた。
しっかりと開いた目で、次第に開かれる扉の隙間から、中の様子をじっと見つめる。
すると広間のような部屋の中央には、座り込んで抱き合う男女がいた。
黒髪の男性の腕の中に収まっている、白いシンプルなドレスを着た女性の後ろ姿。
よく見ると……
2人とも血まみれで。
「〝魔法を封印せよ!〟」
僕は黒髪の男性に手を向けて呪文を唱えた。
『スンスン……わしは、血の匂いが苦手での……』
魔法をかけ終わる瞬間に、メイアス様の弱々しい声が聞こえた。
そう言えば、今日はメイアス様が静かだった……
これはいける!
メイアス様は血が苦手らしい。
僕も得意じゃないけれど、これで格段と聖の魔法が扱いやすくなる。
「ミルシュ!」
タナエル王子が叫ぶと、弾かれたように女性が振り向いた。
目鼻立ちのくっきりした、凛として麗しいお姫様。
彼女の大きくて綺麗な赤い瞳が、こぼれんばかりに見開かれる。
『エル!!』
今にも泣きそうに表情をくしゃりと崩すと、ミルシュ姫がイグリスの腕の中から飛び出してきた。
タナエル王子の元へ駆け寄る彼女の頭から、飾られていた花が舞い落ちる。
ミルシュ姫は右側の首から血を流し、白いドレスが肩まで血に染まっていた。
生贄の彼女は、首をかじられていたのだ。
それと、胸からお腹にかけてもやけに赤黒い大量の血が。
首以外にもどこか怪我を?
負傷の多さに驚きながらも、僕はタナエル王子の方へ逃げてくる姫に、慌てて回復魔法をかけた。
「〝傷を癒せ!〟」
たちまち彼女の首の傷が塞がれ、血が止まる。
無事に回復したミルシュ姫が、タナエル王子の目の前に立った。
抱き合ったりして感動の再会を果たすかと思ったら『貸して!』とムカレの言葉を叫ぶと、王子から剣を引ったくってイグリスに向かっていった。
そのイグリスを見ると、いつの間にかゆらりと立ち上っており、穏やかな笑みを浮かべていた。
柔和な顔立ちの彼は、無害そうな男性にしか見えない。
けれど狂気じみたその赤い瞳は、妖しげに光り、ずっと弧を描いている口元は、鮮血で縁取られていた。
そんな彼のお腹からはナイフが生えていた。
胸元から体の中央に縦線を描くその傷口からは、絶えず濁った血が流れているけれど、本人は特段気にしていない様子だった。
ミルシュ姫の怪我に見えた赤黒い血は、イグリスの血だったのだろう。
姫は食べられそうになりながらも、彼にナイフを刺して応戦していたのだ。
「勇敢な姫だろ?」
タナエル王子が、僕の持っていた剣を鞘から引き抜きながらそう言った。
〝多分、必要になるから〟ってそっち?
思わずあんぐりと口を開ける僕に背を向けて、タナエル王子もイグリスに向かっていった。




