51:聖の魔法
カン! カン! カン!
ある日の朝、店の外のドアノッカーが力強く打ち鳴らされた。
寝ていた僕は音に驚いて飛び起きると、まだ覚醒しきらない頭で必死に思い出そうとした。
……この感じで、いきなり来たことがあるのは……
タナエル王子!?
僕は急いで隣で眠るジゼルを揺り起こした。
「ジゼル起きて……タナエル王子が来たかも!」
「…………?」
ジゼルが薄っすら目を開けて、もぞもぞと起き上がった。
彼女が起きたのを横目で確認すると、僕は玄関へと飛んでいった。
タナエル王子を一旦談話スペースのソファにお通ししてから、僕とジゼルは慌てて身支度をした。
王子の向かいのソファに揃って座ると、僕はシャツのカフスボタンを止めながら早速話を振る。
「っ今日は、どうしたんですか?」
こんなに急いでいるのは、タナエル王子が開口一番に「もてなしは不要だから、話を早く聞け」と言ったからだった。
店の扉の近くには、いつもの護衛が立っていた。
ドアノッカーを叩く役目を終えた彼は、なんとも言えない顔で僕らを見ている。
「ディランに、習得して欲しい魔法があるんだ」
重々しいタナエル王子の声に視線を戻すと、古めかしい本が机の上に置かれた。
年季の入った革の表紙にはベルトが巻かれ、フック状の金具まで付いていた。
ページの端はどれもボロボロで、薄っすらと茶色く変色している。
「……これは?」
僕はその本を手に取って、表紙をしげしげと眺めた。
隣のジゼルも身を寄せて、一緒に本を覗き込む。
僕はすぐに貴重な物だと気付き、思わず表題を口に出してしまった。
「聖の魔法について……」
噂でしか聞いたことのない、聖の魔法。
対魔物に関する魔法を専門とし、魔物と滅多に戦うことがない現代では、廃れてしまった魔法だ。
ジゼルも驚いて僕を見る。
「あの古の魔法?」
魔術に精通したジゼル・フォグリアの記憶を持つ彼女でさえも、半信半疑なのだろう。
首をかしげて困惑の表情を僕に向けている。
……嫌な予感がひしひしとする。
僕は冷や汗をかきながら、ゆっくりと本からタナエル王子に視線を滑らせた。
王子は僕の手から本を奪い取り、フック状の金具を開いてパラパラとめくった。
そしてあるページを開くと、僕に向けて机に置く。
「ひとまずこれを覚えてくれ」
「……魔物からの魔法を、無効にするもの……?」
「そうだ」
「魔物との戦いが控えてるんですか?」
「そうだ」
「この前おっしゃっていた、お姫様を救い出すためですか?」
「…………そうだ」
タナエル王子の表情が少しだけ曇った。
馴染みが深くないと気付けないほどの、感情の機微だった。
……よく見ると、王子の目の下には薄っすらクマがあった。
いつもはそんな姿を決して見せないのに、ずいぶん疲労を溜めていそうだ。
この聖の魔術書も、必死に探し出したのかもしれない。
僕は本を手に取り、最初のページをめくった。
なんだか崇高なことが書かれているけど、かいつまむと、聖の魔法は〝メイアス様〟という神様に祈りを捧げるらしい。
けれど、このメイアス様に受け入れてもらうのが至難の業らしく、僧侶のように徳の高い人しか無理だとか何とか書いていた。
僕が内容を理解したのを見計らってか、タナエル王子が声をかけてきた。
「出来そうか?」
「……とりあえず、初歩の魔法の1つを発動させてみます」
僕は本を閉じると、隣でソワソワしていたジゼルに渡した。
彼女も読んでみたかったようで「ありがとう」と笑顔で受け取った。
ーー聖の魔法の初歩の魔法。
〝浄化作用のある聖なる光を発する魔法〟
本にはこう書いていたけれど、人間である僕らにとっては、ただ単に光がピカッてなるだけだろう。
タナエル王子に害は無いと判断した僕は、目の前のローテーブルに手を向けた。
そして瞼をゆっくり下ろし、祈りに集中する。
……メイアス様……
心の中で他の魔法のように神に呼びかけていると、不思議な現象が起こった。
『…………久しぶりじゃー!! 嬉しいのう! 人間たちよ、元気しとるかー?』
…………
……何これ??
突然、陽気なお爺さんの声が聞こえ始めた。
『お主、可愛い女子を連れておるのう。カップルかの? 青春じゃ〜』
おそらくメイアス様と思われるお爺さんが、1人ではしゃぎ続けている。
神様が喋るなんて初めてだ。
しかもこっちの心の声は伝わらないようで、一方的に喋りかけられるだけ……
『2人はどこまでいってるのかの? ん? ん?』
しかも謎のノリで、とってもとってもーー
うるさい。
僕は肩をガックリ落とすと、タナエル王子に正直に伝えた。
「……祈る相手がうるさくって、集中出来ません」
「うるさい?」
「何故か神様が、僕にずっと喋りかけてくるんです。気が散るプライベートなことを」
「…………」
難しい表情をしたタナエル王子が、大きなため息をついた。
「その魔法を習得しないと、私は今度こそ殺される……何とか頑張ってくれないか?」
「っ!?」
僕は息を呑んで目を大きく見開いた。
えぇ!?
あのタナエル王子が、少しだけ……本当に少しだけ下手に出て、お願いしてくるなんてっ!?
珍し過ぎるっ!
彼の態度に衝撃を受けた余韻が去ると、僕はもっと重要なことに気付いた。
「あれ? ……今度こそって、1度殺されそうになったんですか!?」
「……相手は魔族の国の王らしくてな、よく分からないうちにザックリ斬られていた」
王子がひょうひょうとした様子で、平然と答えた。
「!? そんな相手に僕をぶつけようとしている!?」
「仕方ないじゃないか、王太子として動かせる魔術師は限られているんだ。基本的に魔術師の管理は、王族の管轄外だからな」
タナエル王子がソファの肘置きに頬杖をついた。
わざとらしく足を組むと、彼なりに期待のこもった目で僕を…………睨む。
黒い威圧感を放つ王子は〝私の専属なんだから、要望通り動くのが当たり前だろ?〟と態度で示しているようだった。
困り果てている僕を見かねたジゼルが、小さく手を挙げた。
「あ、あの……私が聖の魔法を習得してもいいですか?」
「……それでもいいが……」
「ダメだって。ジゼルが魔物と戦おうとしないで」
タナエル王子は許可を出したけれど、僕は首を振って猛反対した。
「……とりあえず、私も初歩の魔法に挑戦してみるね」
ジゼルは僕を宥めるように柔らかく笑うと、持っていた本をパタンと閉じた。




