140:魔物の国
クマのような魔物と対峙した僕は、相手をジッと見据えながらも、心の中でメイアス様に祈り始めた。
ある種の覚悟を決めて。
『ひょ〜〜! 久しぶりに呼ばれたと思ったら、変なやつと戦っているではないか! ワシの出番じゃのう!!』
聖の魔法を扱う時の、祈りの対象であるメイアス様。
このおじいちゃん神様が、相変わらずうるさく僕に話しかけてくる……
気持ちが萎えてしまった僕に、目の前の魔物が咆哮を浴びせた。
思わず身をすくめていると、今度は右手を振り上げて迫って来る。
鋭い爪がキラリと光った。
あんなのに引っ掻かれたらひとたまりもない。
焦る僕の頭に、またしてもメイアス様の声が割り込んでくる。
『な〜にの魔法にするかのぅ。ん? ん??』
…………やっぱりうるさい!!
魔法に集中出来ずに気持ちだけが先走る。
「〝聖なる……〟」
それでも何とか魔法を発動させようと、右手を構えた時だった。
「フォティオス様! こっちに居ましたにゃ!」
「まだ生きてるか?」
あの黒猫の女の子と、フォティオスと呼ばれた男性が現れた。
彼を横目で見た僕は「あっ」と驚く。
その顔に見覚えがあったからだ。
フォティオスはーー
夢の中で見た青年だった。
リンネアル様に深い憎悪を向ける、あの彼だ。
「ガァァァアァ!!」
「!?」
フォティオスに気を取られた僕は、魔物の一撃を避けきれなかった。
爪が振り下ろされた瞬間に、とっさに両腕を交差させて顔を庇う。
「ぅあぁっ!!」
引き裂かれた腕に、鋭い痛みが走った。
目を閉じて堪えていると、そこからどろりと熱い液体が流れる感触がした。
『ぬわっ!? 攻撃されてしもうた! わしゃあ血は苦手での…………』
メイアス様がようやく静かになった頃、僕は痛みに耐えきれずに、うずくまってしまった。
すると、目の前に背中を向けたフォティオスが立つ。
「……こいつは俺の獲物だ」
静かに立ちふさがった彼が、魔物を前にして告げた。
けれど魔物は聞く耳を持たず、涎を飛ばして吠えるなり再び腕を振り上げる。
『ん? こやつは……まさかフォティオスかの?』
青年は、メイアス様の知り合いらしい。
僕は引っ掻かれた腕を、もう片方の手で押さえたまま、彼の後ろ姿を見ていた。
「…………はぁ」
気怠げに息を吐いたフォティオスは、魔物に向けて左の手のひらを突き出す。
その瞬間、魔物がピタリと動きを止めた。
すると頭の先から黒い粉に変わり始め、ボロボロとそばから崩れ落ちていく。
地面にはその粉が積もり、気付けば小さな黒い山だけが残っていた。
『生きとったのか……ネアルちゃんが好き過ぎたから喧嘩して……たいそう暴れた罰で神様じゃなくなったハズじゃが……』
メイアス様の独白が続く。
凄く重要なことを言うものだから、僕は傷を治す回復魔法をかけられないでいた。
聖の魔法から他に切り替えると、メイアス様との交信が終わってしまう……
僕は歯を食いしばって、痛みと必死に戦った。
そんな僕をよそに、ケラケラ笑う黒猫の少女がフォティオスに話しかけた。
「やっぱり下位の魔物は、フォティオス様への忠誠心が薄いですにゃ」
「まぁ、俺が作ったのは上位の魔物だけだし」
フォティオスが素っ気なく返す。
忠誠心?
魔物を作った?
ダメだ。
さっきから情報が多すぎる。
僕は血を失っている反動も合間って、頭がクラクラした。
するとフォティオスがくるりと振り返り、僕を見た。
「何してるんだ? 早く回復しないと死ぬぞ。まぁ俺はそれでもいいけど」
「せっかく連れてきた人間ですよ!? フォティオス様の夢で見たとか言うフワフワした証言を元に、探し当てた私の身にもなって下さいにゃ!」
黒猫の少女が、耳も尻尾もピンと立てて「フシャー!」と怒る。
『この猫は子供じゃの……どこかに大人のセクシーな女子はいないのかのぅ……』
メイアス様がどうでもいいことを呟き始めた。
「死んだ直後ならギリギリ大丈夫だろ」
「だから、1回それで失敗しましたよね!?」
「人間は見てて不快だから」
「今だけはどうにかして下さいにゃ! その人間嫌い!」
フォティオスと黒猫の少女の掛け合いが続く。
『…………相変わらず、人間を憎んでいるのかのぅ』
メイアス様が寂しそうに言った。
大きくため息をついたフォティオスが、僕の腕を左手で掴み上げて無理矢理立たせた。
腕の傷が容赦なく痛む。
思わず僕が小さな悲鳴を上げると、彼に至近距離で睨みつけられた。
「早く傷を治さないと、お前も魔物にするぞ? そうすればそんな傷、致命傷でも何でも無いからな」
「…………せっ〝傷を癒せ〟」
僕は急かされるまま、回復魔法を唱えた。
光の粒子が僕の腕を覆い、暖かい光を放つ。
傷は無事に塞がれて、服の切れ込みから見える皮膚は綺麗になっていた。
冷めた目付きのフォティオスが、僕の腕を確認したかったのか、右手で無造作に触ってきた。
その瞬間、ある違和感に気付いた。
彼の右手にだけ、黒い手袋がはめられていたのだ。
そしてその手から、僕はあることを感じ取ってしまった。
「…………え?」
思わず体が固まった。
「ふん。人間は脆いものだな」
フォティオスはそう言い捨てると、掴んでいた僕の腕を投げ捨てるように離した。
さっさと背を向け、スタスタと歩き出す。
すると黒猫の少女が僕に話しかけた。
「洋館の外は危険にゃ。さっきみたいに魔物に見つかって、お前なんかすぐに食べられてしまうにゃ。魂をもらうその時までは、命の保障をしてやるから、大人しく洋館で過ごせ……と、フォティオス様が言ってるにゃ〜」
「言ってない」
背中を向けたままのフォティオスが、すかさず訂正した。
「またまた〜。本当はーー」
少女のセリフを遮って、僕は彼に向かって問いただした。
「待て! なんで……なんで君の右手から蒼願の魔法の気配がするんだ……!?」
上擦った僕の声が、暗い森に響く。
揺れる瞳でフォティオスの背中を見つめていると、彼が立ち止まりゆっくり振り返った。
フォティオスがニヤリと笑う。
彼が初めて笑った瞬間だった。
「なんでって……それはこの右手と……おまけに右足が、元は蒼刻の魔術師のものだからじゃないか?」
「………どういうこ……と?」
僕の胸が痛いほどにドキドキしていた。
そんな僕を嘲笑うように、フォティオスが目を細めた。
おもむろに黒い手袋を脱ぐと、よく見えるようにその手を僕の方へと突き出す。
「ほら、少し小さくて華奢だろ? 俺の手足が腐敗したから、彼女から貰ったんだ」
「!?」
僕はその手を凝視した。
彼が言うように、女性らしい丸みのある、ほっそりした手をしていた。
フォティオスにかかっている蒼願の魔法は、何故か内容までは分からなかった。
ダレンの時はハッキリ感じ取れたのに……まだ僕の能力が足りないのかもしれない。
けれど蒼願の魔法で、本当に手足を入れ替えたのならーー
その願いを無理矢理叶えさせられた蒼刻の魔術師がいる。
しかも、それが手足を入れ替えた本人なら……
「なんて酷いことをしたんだ!?」
逆上した僕は、気付くとフォティオスに向かって叫んでいた。
「手足を取られた女性は、どんな気持ちでっ」
怒りを彼にぶつけていると、背中から何かが抱きついてきた。
「もう帰るにゃ」
黒猫の少女の声がしたかと思うと、僕の意識が暗転した。
……黒猫の彼女は、眠らせる魔法が使えるらしい。
そう気付いたのは、また洋館の一室で目覚めた時だった。




