138:蒼い月に誘われて
シンとした静かな夜。
蒼い月の光が降り注ぐ街は、時が止まったかのように静寂に支配されていた。
そんな街の中を、ひとつの影が駆け抜けていった。
素早く動くその黒い塊は、路地裏へと入っていく。
そしてとある魔術師の店の前につくと、勢いにまかせてドアノブに飛びついた。
扉は軋んだ音を立てて、ゆっくりゆっくりと開かれていったーー
「すみません、今日は休みなんです」
店の中にいた僕は、開いた扉の方へと振り向いた。
『close』の下げ看板を出していたはずだけど、こうやって入ってくるお客様はたまに居た。
申し訳ないなと苦笑を用意したけれど、そこには誰もおらず、蒼色に染まった通りが見える。
首をかしげてふと下を見ると、クリクリっとした琥珀色の2つの瞳が僕を見ていた。
「あ、なんだ。この前の黒猫かぁ」
僕が気を緩めた拍子に、黒猫が突然飛びかかってきた。
「うわぁ!?」
体をぶつけられてバランスを崩した僕は、ドタンと派手に音を立てて尻餅をつく。
「いてて……」
床に肘をついて上半身を起こす僕を、お腹に飛び乗ったままの黒猫がジッと見ていた。
やがて丸い瞳を瞬かせると、尻尾がふいっと小さく揺れた。
「見つけたにゃ♪ 見つけたにゃ♪」
そう言いながら、黒猫は満足げに目を細めた。
「……君は、蒼い月の日に喋れるんだね」
僕は優しく笑うと、猫に手を伸ばした。
片手でお尻を支え、もう片方を背中に回すようにして猫を抱き上げる。
ちょうどその時ジゼルがやって来た。
「ディラン、大きな音がしたけど大丈夫?」
生活スペースから店へと顔を覗かせた彼女の声が、背中越しに届く。
ジゼルが警戒する黒猫を抱っこしている僕は、ぎくりと肩を震わせて振り向いた。
けれどそこには、予想に反して青ざめたジゼルがいた。
「ジゼル……?」
視線を合わせたまま、きょとんとしているとーー
黒猫が、ずしっと重くなった。
「ディラン!? 早く離れて!!」
「え?」
慌てて彼女の視線の先をたどり、僕の腕の中を見る。
するとそこには少女が居た。
猫を抱いていたはずの僕の腕には、そのままの形で横抱きになった女の子が収まっている。
その子は、黒いショートヘアから飛び出す猫耳をピンと立て、大きな琥珀色の瞳でキラキラと僕を見ていた。
黒猫が勝手に変化したっ!?
僕は補助魔法なんかかけてないし、何かがおかしい!!
急いで彼女から腕を振りほどき、体を離そうとした。
けれど逆に抱きつかれてガッチリ押さえ込まれてしまう。
短いズボンのウエストから伸びたしっぽが、喜びで震えているのが見えた。
「見つけたにゃ♪」
彼女がそう言った途端に、僕は意識を失った。
**===========**
「…………ゃない……ろ……!?」
「……も…………すよ?」
遠くで言い争っているような声が聞こえた。
……そう言えば……僕はさっき、黒猫に……
…………!?
目が覚めた僕は慌てて飛び起きた。
けれどすぐに頭がクラクラしてしまい、目を閉じて額に手を当てる。
少しおさまると、はやる気持ちを落ち着かせながらゆっくりと目を開けた。
僕は真っ暗な部屋の中にいた。
無造作に転がされていたようで、床についた手が木の触感を拾う。
幸い拘束はされておらず、自由に動くことが出来た。
目眩を起こしている以外は怪我もない。
けれど暗過ぎて何も見えない。
ただ、光る縦の筋が宙に浮かんでいるだけだった。
手探りで光に近付くと、隣の部屋に繋がる扉がわずかに開いており、そこから漏れるランプの光だと分かった。
その隙間に目を当てて、隣の部屋を覗き見る。
するとさっきの黒猫の少女が、手振り身振りを交えて誰かと必死に喋っていた。
どんな相手なのかは、残念ながらここからだとよく見えない。
「ーーでも、すごくネアルの魂に似てますよ! 私が嗅ぎ分けたんで確かですにゃ!」
黒猫が腰に手を当てて胸を張った。
すかさず男性の低い声がする。
「それはそうだけど……男の魂は扱ったことないから」
「蒼刻の魔術師の女の魂じゃ、今までうまくいかなかったにゃ。この際、男でも試してみるにゃ!」
「…………それで成功しても、なんか嫌だな」
僕は2人の会話に冷や汗をかいた。
なんだかすごい話をしてる。
……僕の魂をどうにかするつもりらしい。
そして〝蒼刻の魔術師の女の魂じゃ、今までうまくいかなかった〟と言うセリフ……
ダレンが、女性の魔術師の家系図が続いていないことから考えた『若くして亡くなった』が、現実味を帯びてきた。
「にゃー!! とにかくやってみるにゃ!」
「気乗りしない……」
「なんか言ったにゃ!?」
黒猫と誰かは、それからもずっと押し問答を続けていた。
僕は静かに扉を離れた。
ここから逃げなきゃ。
目的は分からないけれど、僕の魂が狙われてる。
つまり、ゆくゆくは殺されてしまう……
恐怖で背筋が震えるなか、壁づたいに手を這わせて歩く。
すると、ドアノブらしき取手に指が触れた。
音を立てずに動かしてみると、鍵はかかっておらず、ほんのわずかに扉が開いてくれた。
たちまち部屋の中に月明かりが差し込む。
徐々に目が慣れると、そこは大きな窓に面した廊下だった。
僕は扉の隙間に体を滑り込ませて、素早く外に出た。
「……弱ったな。窓が開かない」
途方に暮れた僕の口から、思わず言葉がもれる。
さっきの部屋から急いで離れた僕は、この建物から出られる場所を探していた。
けれど窓という窓は開かなかった。
それにまとわりつくような、何かに監視されているような空気を感じる……
嫌な予感がした僕は、広い廊下を足早に進んだ。
外へと繋がる扉が遠くに見えた時には、我慢できずに駆け出していた。
扉の目の前に着くと〝今度こそ開いてくれ〟と願いを込めて、勢いよくドアノブを下げる。
…………
けれどやっぱり、扉は開かなかった。
それで僕は確信した。
〝出られなくする魔法〟が、かけられていることを。
でもよくある、扉に魔法をかけて特定の相手を弾くタイプじゃなかった。
今回の魔法はその真逆で……僕が触れたものは、動かなくなっている。
それは……扉にではなく僕に魔法がかかっているのだった。
そんな高度な魔法、見たことも、聞いたこともない。
焦った僕は、一か八かで相手の魔法を解除する呪文を唱えた。
目を閉じて神へ呼びかけると、足元に淡い銀色の魔法陣が浮かび上がる。
辺りが白むなか、僕の詠唱の声がやけに大きく感じた。
やがて足元をくるりと風が吹き抜け、冷めた空気を巻き上げていく。
僕はスッと目を開けて、最後の呪文を口にした。
「〝無に返せ!〟」
途端に、あのまとわりつく空気が溶けていった。
フッと体が軽くなったように感じ、どうにか魔法が効いたようで胸を撫で下ろす。
けれど、術者に魔法が解けたと勘付かれた可能性があった。
なおさら早く離れないと……!
僕は開くようになった重厚な扉を、体当たりして押し開けた。
外へと飛び出し、そのまま目の前の森へと駆け込む。
走りながら後ろを振り返ると、さっきまでいた建物の全貌があらわになった。
それは大きな古びた洋館で、窓ガラスが所々割れており、荒れ果てていた。
森に囲まれたその黒い洋館は、息づく者の気配がせず、ひときわ不気味さを醸し出している。
「はぁ……はぁ…………ここまで来れば、大丈夫かな……」
だいぶ走った所で立ち止まった僕は、膝に手をつき地面に向かって荒々しい呼吸をしていた。
少し落ち着いたところで体を起こし、これからどうしようかと辺りを見渡す。
そうして木々の間に目を走らせていると、2つの赤くて小さな光が見えた気がした。
胸騒ぎを覚えながらも光に目を向けると、細い枝がパキパキ折れる音と低い唸り声がし始めた。
思わず息を止めるけれど、黒い大きな塊が左右に揺れながら近付いてくる。
2つの赤い光が目だと分かる頃には、クマのような魔物が姿を現していた。
「!?」
相手は僕をすでに捉えており、真っ直ぐに向かってきた。
魔物!?
もしかしてここは……魔物の国!?
思ってもみなかった場所に連れ攫われていた僕は、驚きと緊張で一気に鼓動が速まるなか、目の前の魔物と対峙した。




