117:子ども思いの母親
ある日の午後。
外で用事を済ませて帰ってきた僕は、家に入った瞬間に脱力した。
「……ただいまぁ……」
どうにかリビングのソファまで行くと、ボスンと倒れ込む。
うつ伏せになり目を閉じていると、廊下からパタパタと足音が近付いてきた。
「ディランッ! 大丈夫? 今日は特に酷いね」
ジゼルが慌てて僕に近寄り、顔の近くでしゃがみ込んだ。
僕はゆっくりと顔を動かして、ジゼルの瞳を見つめた。
「…………ちょっと休ませて。日に日に量が多くなるから、すごく酔ってて……」
「分かったよ。何かあったら呼んでね」
心配そうに僕を見つめるジゼルが、そう言って頭をひと撫でしてくれた。
僕は目を閉じてニコッと笑う。
けれどすぐに彼女とは反対方向に顔を向けた。
気分が悪い波が来て、顔をしかめてしまったからだ。
心配性なジゼルに見せたくない。
それを見たジゼルが深いため息をつき、去って行く音がした。
…………
僕は……
蒼い魔法を磨いている僕は……
人に向けられた思いを読み取る感覚が、妙に研ぎ澄まされてしまった。
今ではもう、以前の倍の量を読み取ってしまっている。
街中のような人が多い所に出ると、行き交う人々に向けられた思いが全部、僕の頭に勝手に入ってきた。
しかも、そこまで強くない思いも読み取ってしまうようになった。
上手く言えないけれど、今までは高レベルの思いだけだったのが、中レベルも届いている気がする。
だからここ最近〝読み取り酔い〟をよくしていた。
「はぁ…………」
何とかマシになってきた僕は、体を起こしてソファに座り直した。
人が周りにいない環境だと、酔いも次第に収まっていく。
そこに、掃除用の箒を手にしたジゼルが通りかかった。
「あ、起きれた?」
「…………」
足を止めた彼女に返事をする代わりに、僕はちょいちょいと手招きした。
「なぁに?」
ジゼルは壁に箒を立てかけると、不思議そうに近付いてきた。
そんな彼女の腕をとり、グイッと引き寄せる。
「わぁ!」
「……はぁ……落ち着く」
よろけたジゼルが僕の腕の中にスポンと収まった。
僕は彼女を抱きしめて、少しオーバーに深呼吸をする。
「蒼刻の魔術師が旦那さんだと、何もかもバレバレで恥ずかしいね」
ジゼルが楽しそうに笑った。
もちろん彼女が僕に向ける思いも、常に読み取っていた。
彼女の思いは強いけれど心地良い。
だって……『大好きなディランとずっと一緒にいれますように』という願いだから。
そんな暖かくって優しい彼女の思いに包まれると、張りつめていたものがほどけていく。
癒しを求めていることを分かっていたジゼルは、僕の気が済むまでくっついてくれていた。
ーーーーーー
日が暮れて、徐々に空が暗くなる頃。
いつもと違って蒼い色が夜空に混じり始めた。
店の窓から空を眺めていたジゼルが、カウンターにいる僕に振り向いた。
「今日はお店閉める?」
「……大丈夫。だいぶ元気になったから」
カウンター内の椅子に座っている僕は、ジゼルにニコリと笑い返した。
彼女もそばにやってきて、隣の椅子に腰掛ける。
「でも困ったね。もうちょっと抑えられないのかな? 人の思いを読み取っちゃうのを」
「そうだね。他の蒼刻の魔術師はどうしてたんだろう? こんなふうに感覚が鋭くなりすぎた人って、居ないのかな?」
ジゼルの何気無い質問に返しながら、僕の脳裏にある女性が浮かんだ。
あの老紳士ピクシーが鏡で見せてくれた、過去の蒼刻の魔術師。
ずっと目を閉じたまま穏やかに笑う、リンネアル様のような女性……
あの人なら僕より断然能力が上だ。
どうしていたのだろう?
誰か、蒼刻の魔術師に詳しい人なら、彼女が誰か分かるかな?
詳しい人…………
ーータナエル王子。
僕は思わず苦笑した。
でも……思い返すと、ムカレの国に蒼願の魔法をかける作戦を話していた時に〝過去にも広範囲の魔法をかけた例はある〟というような事を言っていた。
目を閉じた彼女のことかも知れない。
今度聞いてみようかな。
そんなことを考えている時だった。
お店のドアがギィィと音を立てて開いたかと思うと、小さな男の子が飛び込んできた。
僕は思わずまたピクシーかと身構える。
「ママ! ここ何!? なにー!?」
「ジョン! もう少し静かにしなさい!」
店内を駆け回る男の子のあとから、その子の母親らしき女性も入ってきた。
僕とジゼルは立ち上がって同時に言う。
「「いらっしゃいませ」」
「お店なのー!?」
男の子が立ち止まり、僕らを見て満面の笑みを浮かべた。
慌てて彼を取り押さえた女性が、僕らに頭を下げる。
「すみませんっ!!」
「大丈夫ですよ…………」
僕は女性に笑いかけながらも、2人の思いをさっそく読み取ってしまった。
ーーーーーー
親子を談話スペースに案内すると、ひとまずジョンのママは席についた。
けれどジョンはそのソファによじ登ったり、座面でジャンプしたりと落ち着かない。
「ジョン! 椅子の上では暴れないで。座って大人しくして!」
「……はーい」
そう返事をするものの、ジョンは座ったそばからソワソワしている。
動き出すのも時間の問題のようだ。
ジゼルがピリピリしているジョンのママに、柔らかく話しかけた。
「元気なお子さんですね。いつもなら紅茶とお茶菓子を出すのですが……この時間なので、ジョン君のはどうしましょうか?」
「そうですよね……もう寝かせるような時間ですよね……」
途端にジョンのママが縮こまった。
何故かジゼルの問いかけに、責められているとでも感じたようだった。
「たまには、そんな日があっていいと思いますよ。あなたもせっかくなんで、紅茶でも飲んで一息ついて下さい」
ジゼルはニッコリ笑うと、おもてなしの準備をしに部屋の奥へと消えていった。
するとそのあとを追いかけて、ジョンも生活スペースの方へと行ってしまった。
「そっちはなにー!?」
「ジョン! そっちに行っちゃダメよ!!」
慌てたママも、ジョンを追いかけて行ってしまう。
「あー……」
1人取り残された僕は、ちょっと圧倒された気分のまま、スタスタと扉まで歩いていった。
顔を覗かせて部屋の中の様子を窺う。
そこには動き回るジョンを取り押さえて注意しているママと、苦笑しながらもポットでお湯を沸かしているジゼルがいた。
ジョン親子に近付いた僕は、リビングにあるソファを手のひらで指し示した。
「せっかくなんで、こちらで話をしましょうか。お客様向けではないので雑多な場所ですが……」
「…………すみません」
ジョンのママは途端にシュンと身を縮めた。
彼女はあれだけジョンに大きな声を出していたのに、僕には急に小さな声で恐縮してしまう。
ーーこのママは、すごく子育てに真面目なんだ。
さっき思いを読み取った時にも、彼女に抱いた印象だった。
ちょうどジゼルの準備も出来たようなので、僕らは改めてリビングのソファに座った。
僕とジゼルが隣り合い、向かいのソファにはママとジョンが座っている。
ジョンはクッキーを「美味しい!」と言いながら必死にモグモグすると、食べることに夢中になって静かになった。
彼を優しく見ていた僕は、改めて女性に向き直った。
「自己紹介が遅れて申し訳ございません。僕はディランと言います。こちらは妻のジゼルです」
「こんばんは」
「……ケティと言います。この子はジョン」
彼女は紹介した我が子をチラリと見ると、バツの悪そうな表情を浮かべた。
「それで……今日はどう言った〝人から向けられた願い〟を叶えたいのでしょうか?」
僕はもう知っているけれど尋ねた。
「ジョンは……もう少しで3歳になるのにじっと出来ませんし、私の言うことも……聞いてくれません」
ケティがポツリポツリと語り始めた。
クッキーを食べ終えたジョンは、ちょっと目を離した隙にソファから飛び出し、チェストの上に置いてあったチェス盤を広げて遊んでいる。
「ママー! お馬さんー!!」
「ジョン!」
「あぁ、いいですよ。そんなに使ってないものなんで」
やめさせようとしたケティを、僕はやんわりと引き留めた。
頭の隅で〝父さんの大事なチェスが……〟としょんぼりした父親の顔が浮かんだ。
「……すみません」
ケティがまた縮こまりながら続けた。
「それで……このまま大きくなってしまったら、ジョンはどうなるんだろうと不安になるんです」
彼女が泣きそうになりながら、絨毯の上でチェスの駒を並べて遊ぶジョンを見つめた。
きっとケティは、あくまでもジョンのことを思って願いを込めている。
悪気は全くなく、正しいと思う気持ちから……
僕は小さく眉をひそめた。
だからこそ、どうやめさせようか悩ましい。
ケティはそんな僕の気持ちにはもちろん気付かず、続きを喋ろうと口を開いた。
真っ直ぐな瞳に迷いは無く、その証拠に堂々と言い切る。
「それで、ジョンの性格を変えたいんです」




