第64話
「教団に降ってしまった私が届けられなければ、彼らは意気揚々と大義名分を掲げて侵略を開始します。この連合は彼らこそが法なのですから……それが分かっていながら、どうして……どうしてッ、来てしまったんですかッッッ!!!!!!」
王女殿下は騎士の胸に額を押し付けたまま、彼のチュニックを握り締めて叱責を叩き付けた。
「貴方一人なら何処にでも往けるのでしょうッ!? 教団にも王国にも縛られず自由に生きられるのでしょうッ!? こんな所で態々教団と鉾を交える必要など無い筈なのにッ!! そもそも騎士になんてならなければ今までみたいな辛い目になんて遭わずに済んだ筈なのに!! なのにッ!! 何でこんな所にまで来ているのですかッ!?!!!!」
ハンスには未だ胸の中に居る彼女の表情は分からなかったが、彼女がどんな想いでいるかなど態々自分に流れ込んでくる感情を読み取るまでもなかった。
だから、ハンスは震える華奢な小躯を両腕で優しく抱き、可愛らしい御耳へ唇を寄せたのだ。
「――今まで、怖い思いさせちまってゴメンな、セフィー……」
その謝罪はたった一言だけだったが、セフィーはその穏やかな言葉に込められた万感の想いによって、遂に心の堰が崩壊してしまった。
「……う、うぁあ……ああ、あああああ、あああああああ、ハンス……ハンス、ハンスゥ……」
騎士の名前以外に意味を成さない嗚咽は、それこそ堰を切ったように溢れ出し、葉鳴りも止んでいる静かな夜空に木霊したが、ハンスもまたそれが治まるまで、ただ只管に優しく震える小さな背中を撫で続けていた。
やがて、段々と少女の啼泣が静まってきた頃合いで、ハンスは彼女の耳元に寄せたままだった口を再び動かした。
「確かに、俺一人だったら山でも森でも砂漠でも、どんな秘境だろぉと乗り越えて何処にでも辿り着けるだろぉし、大抵の相手なら逃げるのも退けるのも簡単だ。まぁ、教団の連中は嫌いだし大分ムカついてはいるが、ワザワザ喧嘩売りに行くほどでもねぇ……それに、俺が旅人のままだったなら、この二年で渡り歩いた戦場で斬った連中は今でも笑っていられただろぉさ」
彼の言葉は突き放すように辛辣だったが、少女を包む両腕は暖かなまま少しも緩まない。
「でもそれは、過去も矜持も絆も、そぉいう人間らしい柵を全部捨て去ってこそ選べる仙人みてぇな生き方だ。俺はもう、君の笑顔に背を向けるよぉな生き方を選びたくねぇんだ」
静かな宣言と共に少女の背中に回していた両手を彼女の両肩へ置いたハンスは、彼女から身体を離して黙したまま俯く相貌を見下ろした。
「だから――これからも……君の傍に、居させてくれねぇか……?」
微かな声の揺れは、ハンス自身確実に赦して貰えるなどと楽観的な事を考えていないが故だったのだろうが、その問いの返答は彼の心に流れ込んでくる彼女の意思より早く、真っ直ぐ向けていた視線の先で起こされた御尊顔が伝えていた。
「――はい……こちらこそ、宜しく御願いしますね」
上げられた顔に浮かんでいたのは笑みと涙だったが、セフィーは涙でクシャリと歪んだ顔を見せたくなかったのか、返事をしてすぐ至近距離に立ったままの少年の首筋へと顔を埋めた。
「――ッ!! いや、そのッ……セ、セフィー……?」
首に回された華奢な腕と首筋に触れる温かな感触、それから眩い金色の髪から香る花のような芳香などで、受け入れて下さった安堵と歓喜で緩んでいたハンスの思考が沸騰し掛ける。
「本当なら、私の方こそ謝るべきでしたのに……この前の夜も、王宮での時も……今だって、散々酷い事を言ってしまって……ですから、どうか、私の謝意を受け取ってくれませんか?」
首筋に囁かれる言葉は未だ微かに咽いでいたが、ハンスにしてみれば戦で真っ先に狙い狙われる急所を妖しく刺激されているような状態であり、『頬の傷跡を掻く』というような、クセとなっている動作を無意識的に起こす程度の余裕しか残されていなかった。
「――えっと、あの……だな……その、君が声を荒げちまったのは少なからず俺にも責任があるわけで、だな……こ、これからは、君にそんな事言わせないようにしていくから……えぇっと、取り敢えず、その……一旦離れないか……?」
プスプスと湯気でも出そうなほど熱を上げてしまったハンスは、自分でも何を言っているのか分からないような状態ではあったが、何とか回復の為の一手を口にできた。
それに対し、セフィーの方はいつぞやの夜のように意識的な思考誘導をしているつもりなどなく、不安や恐怖などの今まで溜まってしまった負の感情を緩和すべく、本能的に行動しているだけだったので、提示された要請には余り乗り気ではなかった。
それでも、王女殿下が渋々ながら身を引いてくれた事で少年騎士の肩が微かに弛緩するが、そこで『これが最大限の譲歩だ』とばかりに彼女の両手が空いていた彼の右手を捕らえる。
「……セ、セフィー……? こ、この手は……?」
「よ、良いではありませんかっ! 今宵はまだ冷えるのですっ。少し触れ合っている方が丁度良いでしょうっ!? ……それとも、貴方は私に触れられるなど――
「そ、そぉだよなッ! 今夜は冷えるよなッ! いやぁ~、セフィーの御蔭で大分マシになってきたよありがとなッ! もぉしばらくこぉしてよぉなッ!」
叫ぶように捲し立てたハンスの左手が、温かく包み込まれた右手の後を追う。
……悲し気な表情で潤んだ瞳を向けるのは、殆ど脅迫だった。
「……ったく……この間の夜からコッチ、何だかセフィーには振り回されてばっかりだ」
「フフフ、普段の貴方の方が余程振り回してくるではありませんか。いつもいつも私を翻弄してばかりで……もう、イジワルなのですから」
「んな事ねぇさ。大体、婚約が発表されたその日に『夫になってくれ』だなんて、そっちの方がよっぽどビックリだっての」
「あ、あれは、仕方ないではありませんかっ。わ、私だって、本当はもっとちゃんとした席で――と考えていましたし……それに、本来は男性からというのが正しいのではありませんか?」
「……まぁ、それはそぉだが……でも、一応御期待に沿える告白はできたと思うんだが……?」
「……そ、そう、ですね……」
互いに両手を重ねあったまま赤面し、押し黙る。
そのまま、暫く二人ともまともに視線を合わせられないでいたが、ハンスの背後から響いたキャリッジの盛大な崩壊音が彼と彼女を現実へ引き戻した。
「――っと、あんまりのんびりはしてられねぇな。これからどうするか、考えはあるかい?」
首だけで振り向いて背後で轟々と燃える巨大な焚火と、そこから立ち昇る膨大な狼煙を確認したハンスは、すぐにセフィーへと向き直って今後の方策を問う。
彼女が見せた逡巡は一瞬だけだった。
「……このまま王国を出てルーメルニー大公国を目指します。こうして教団に正面から歯向かってしまった以上、一刻も早く此方の戦力を整える必要があります。王国に戻ってはまた教団に拘束されるでしょうし、近々相手方との直接交渉を考えておりましたから良い機会です」
少年騎士の視線の先に居たのは、恋する乙女などという気の抜けた存在ではなく、毅然と国難へ立ち向かう誇り高き為政者、王国第一王女セフィロティア・フォン・エルレンブルクだった。
……未だ彼の両手を握ったままだが。
正面の翡翠の瞳に宿る強固な意志の力を前に、ハンスの頬がニヤリと吊り上がる。
「流石セフィー。どぉやら、事前準備が無駄にならずに済みそうだな」
「準備、ですか……?」
「あぁ、実はな――
そこでハンスは王国で目覚めてからの経緯を話し始めた。
目覚めてすぐ看病していたファルカから自分が死んだ後の話を聞いた事。
その話を聞いてすぐ王宮を出ると決め、その為の旅支度を整えてきた事。
そして、王宮に残ってもらった男装騎士に自分達は教団へ対抗する為の戦力を確保しに行くと伝言を任せた事。
「――っつぅわけで、ファルカには君の救出が済み次第国を出るとは伝えてある。それだけ言っておけば、王子殿下方や国王陛下はルーメルニーとの同盟計画を知ってんだろぉから、国の事は彼らに任せて、俺達は安心して二人旅に出られるってわけだ」
フフン、といつもの調子で飄々と言ってのけたハンスにセフィーもまた笑みを溢すが、そこで何かに気付いたようにハッとなると何故か突然赤面してしまった。
「……? セフィー? 何か不手際でもあったか?」
「い、いえ……ただ……未婚の男女が二人きりで旅に出るなんて、なんだか駆け落ちするようで、その……」
「あぁ~……まぁ、そぉかもしれねぇけどさ……その、コイツは王国の為でもあるわけだし……それに、だな……俺は……一応そのつもりで、諸々覚悟決めてきたんだが……」
「そっ、そのつもりとは……っ?」
セフィーの言葉は控えめだったが、無駄に勢い込んでいる口調は明らかに先を促していた。
ハンスにもそれが分かったのか、若干仏頂面になりつつも口を開いた。
「だ、から……俺は、君に……い、一生を捧げるってコトだよッ! ったく、もぉ行くぞ!」
「えっ? あ、ちょっと!」
居た堪れなくなったハンスが両手を振り解き、セフィーの華奢な身体を抱え上げる。
彼女が身構えるだけの猶予も与えないまま回した両腕で背と太腿を捕らえ、互いの胸を押し当てるようにして抱いた少年騎士の身体から例の紅い光が立ち昇る。
「あ、あのっ、ハンス!?」
「最初に忠告しとくが、それなりに揺れるから舌を噛まねぇように口は閉じ解いた方が良い。それと森を出るまで止まらねぇから、それまではしっかり掴まってじっとしててくれよ?」
「えぇえ!? そんないきなり……もう、イジワルなのですから」
微かな諦念と触れ合う温もりに緩む感情がない交ぜになったその言葉を聞き、少年騎士の頬が楽し気に吊り上がった。
「では、御願いしますね、ハンス」
「あぁ、コッチこそヨロシクな、セフィー」
互いに短い言葉を交わし、一つに重なった二人の人影が木々の狭間へと消えた。
こうして、後の世に『大陸最大の戦争』と語られる戦の兆しが、月光が淡く照らす夜闇の中で静かに動き出したのだった。
ごくよう かんしゃ いたす
にはこめ も そのうち
きながに またれよ




