第59話
――時は少々遡り、月光が照らす湖畔の森林地帯、そこの街道に入って暫くの辺り……
空に煌めく星々が、森に造られた街道を避けて木々を縫うように駆ける人影を照らしていた。
また、どういう原理なのか、その影が残す足跡には紅い残滓が残り火のように燻っている。
街道を通るならいざ知らず、月光も届かず一ヤード先も定かでない夜の森を単身で、しかも徒歩で踏み入るなど自殺にも等しい蛮行だが、獣のように優れた五感があるのか、はたまた夜闇の中でも明確に道筋を示す何かしらの目印でも見えているのか、人影の足には迷いが無い。
いや、迷いが無いどころか、そもそもその速度からして異常だった。
その影は明らかに人の形をしているにも関わらず、戦場を駆るべく鍛え上げられた強靭な騎馬や弱肉強食の野生を生き抜く俊狼にも勝る勢いで、薄暗い森の獣道でコートの裾をはためかせながら、それでも殆ど無音のまま疾走していたのだ。
しかし、唐突にその足が止まる。
「……外れていれば、とも思ったんだがな……」
呟く影の視線の先には、街道に刻まれた真新しい轍を追うように駆ける騎兵の姿があった。
彼は碌に準備する間も無く王宮から飛び出して来たのか、青と緋の騎士制服という森を往くには甚だ不適切な格好をしており、武装と呼べる所持品も腰に吊るす一振りの剣と跨った騎馬の鞍に提げられた一本の槍だけだった。
「でもまぁ、丁度良いか……」
渋面だった人影は腹を括ったようにそう独り言ち、騎兵を追い越すほどの速さで街道へと接近し、彼の行く手を遮るように街道のど真ん中へと躍り出た。
「――――ッ!! ハンスか!?」
「よぉ。数日ぶりだな、アイクファルク・ブルンベルク卿」
騎馬に跨ったアイクの前に現れたのは、左腰に一振りに見える珍妙な双剣を吊るし、前腕や手の甲に鋼板が仕込まれた革籠手や厚革で作られたフード付きハーフコートなどの、旅人時代から愛用している自前の装備を身に付けたハンス・ヴィントシュトースだった。
彼が鋭い誰何をいつも通りの気安さで応えると、青緋の貴公子が安堵で破顔した。
「良かった……何とか追い付けたようだね。全く、こんな非常事態に勝手をする後輩を呼び戻す身にもなってくれ。今王宮で何が起こっているかはファルカから聞き及んでいるだろう?」
颯爽とした動作で馬から降りたアイクの叱責というより小言に近い言葉に、『まぁな』と短く一言返すだけで背負っていた真新しいバッグを街道に落とすハンス。
何処となく剣呑な雰囲気を纏う少年騎士を見て、彼にはこのまま此処で大人しく引き返す気など無い事を読み取ったアイクは、思わず頭を抱えそうになりながらも今一度説得を試みた。
「件の事件の所為で、一時的にも為政者を欠いてしまった王国は混乱の極みにある。そんな緊急事態に我々王国騎士がバラバラに動いては、混乱と動揺が拡散するだけだ。そんな事はセフィーだって望むわけが無い。ハンス、君だって分かるだろう?」
重ねられた文言の中に紛れた愛称にピクリと反応したが、ハンスは依然口を閉ざしたままだ。
沈黙し続ける割に刺々しい感情を雄弁に伝える瞳を向け続けられ、王宮の彼方此方で混乱の収拾に奔走して普段より幾許も余裕を失っていたアイクは苛立ちを募らせる。
そして、貴公子然とした青年騎士には相応しからざる情動が吐き出されようとした時だった。
「なぁ、アンタ教団と通じてんだろ?」
感情を無理矢理押し殺したような声が、険しい表情を浮かべる少年騎士の口から紡がれた。
だが、青年騎士の苛々とした態度に変化は無い。
「突然何を言っているんだ、ハンス? ただでさえ混迷している時に滅多な事を口にすべきじゃない。そんなワケの分からない事よりも、我々には優先すべき事があるだろう?」
それどころか突拍子も無い発言の御蔭で若干冷静さを取り戻したらしく、アイクの口調には本来の温厚さが戻り掛けている。
なのに、傷顔に浮かぶ表情は敵に唸る狼や鈍く光る鋭利な刃を彷彿とさせるものだった。
「祝勝会の晩、訓練所二階の窓際で俺より高身長の手跡と緋色の糸屑を見付けた。これだけなら別にアンタを疑わなかったが、窓枠にアンタと同じ色と長さの毛髪が残ってた。多分、そのマントが引っ掛かりでもした拍子に諸々残ったんだろぉが、痕跡を残すよぉじゃぁ隠密失格だ」
緋布の微かな解れを指差しながらの言葉に、当のアイクは呆れ混じりの苦笑を溢した。
「痕跡も何も、訓練所なんて一日だけでも大勢が出入りするような場所で、手跡やら髪の毛やらが残っているのは当たり前だろう? それに制服のマントに限らずとも、緋色の衣服なんて幾らでもあるさ。なのに、それで僕を内通者扱いは些か拙速が過ぎると思うけど?」
「惚けんな。なら、何故俺は突然教団の連中に襲われた? 連中に前々から俺を消す気があったなら、俺の元にはとっくの昔に連中から刺客が向けられていた筈だ。しかも、連中はあの夜のあの場所で盗み聞きでもしねぇ限りは知りようのねぇ事を知っていたぞ? それでもアンタはまだシラを切り続けるのか?」
あくまで疑惑を向け続けるハンスの強情さによって、青年騎士の口調に余分な熱が籠る。
「待て待て、落ち着くんだハンス! さっきから何の話をしているんだ!? 祝勝会の夜と言えば、王宮内には教団関係者も多数出入りしていたじゃないか! だったら、その盗み聞きとやらも教団の者がやったと考えるのが自然だろう!? なのに何故僕を疑うんだ!?」
「アンタの方こそ何言ってんだ? 訓練所の中で見付けたのは、王国騎士が出入りした痕跡だけだったんだぞ? それで何故、敵が教団だけだなんてお気楽な思考ができる? 大体、俺が襲われた任務を持って来たのがアンタで、今追い掛けて来たのもアンタだなんて偶然があり得んのか? これでアンタを疑わないヤツなんか騎士失格だろぉ?」
「だから違うと言っているだろう! 何故僕が君の敵になるんだ!? 僕はいつだって君の味方だったじゃないか!? 君が僕の傍付きだった時も! 騎士爵位を叙勲されてからだって! 大体、僕がセフィーのように君の過去を踏み躙るような真似をした事があったか!? なのに、何で僕が、敵だ……なん……て……――――ッッッ!!!!!!」
ハンスに挑発されるまま激昂したアイクだったが、自分がまんまと口車に乗せられて決定的な証言を口走ってしまった事に気付き、一拍遅れながらも息を呑んだ。
確かに祝勝会の後にセフィーと会った時、ハンスは己の故郷にまつわる過去を語っていたが、それを知るのは喋ったハンス自身とそれを語り聞かされた王女殿下、そして、訓練所の二階から覗いていた何者かだけなのだ。
「自供御疲れさん。ったく、普段マジメで誠実な人気者のエリートなんぞやってるクセに、吐き慣れてねぇ嘘なんぞ口にするからそぉなんだよマヌケ」
揶揄うような気安いセリフだったが、そこに宿る感情は決して温もりのあるものではない。
それに観念したのか、アイクの強張っていた表情が弛緩した。
「確かに生来貴族社会を避けてきたツケか、こうして面と向かって騙し合うのは苦手でね。それにしても髪だけで確信されるとは、最初から僕は信頼されていなかって事かな……?」
「別に。最初にオカシイと思ったのは、セフィーからあの話を持ち掛けられた時だ。教団の婚約話を拒否する為っつってたが、俺なんかよりずっと賢いセフィーなら、アンタみてぇに高位爵位があるヤツを指名した方がスムーズに事を運べるって分かってる筈だろ? なのに、筆頭候補のアンタを含めた貴族達を無視して、氏も知れねぇ元旅人を選んだ。これはつまり、俺を選ぶ理由があるのか、若しくはアンタを選べない理由があるか、またはその両方って事だろ? んですぐ教団の任務が舞い込んで来たんで得心したよ。セフィーは貴族達の背後に教団の影を見たんだってな。まぁ、広間で……その、セフィーも俺をって……分かった、けど……」
前半は飄々とした調子で泰然と、最後だけは左頬の傷を掻きながら濁して語った少年騎士に、青年騎士は多分に苦みの混じった笑みを誘われた。
「そうか、セフィーには既に気取られていたのか……これでも隠し事を悟られないようにする腕前は人並み以上だと自負していたんだが、そんな自信は返上すべきかな……」
「まぁ、具体的な対応はできなかったみてぇだから、王宮内に狐が居んのは察知してても、アンタだとは確信してなかったろぉがな……それよりも、返上すべきはそれだけじゃねぇだろ?」
冷たく言い放つと同時に、少年騎士の左手が左腰の鯉口に添えられた。
「王国を裏切り、欲深い侵略者共と内通した不忠の徒、アイクファルク・ブルンベルク。ココでアナタを討ち、我ら護国の騎士たる証を返上して頂く――ってな。まぁ、要するに、これ以上セフィーは追わせねぇって事だ」
「……僕が、セフィーを――だって……?」
ふわりと香るように放散され始めた殺気を苦笑したまま受け流していたアイクだったが、打って変わって雷にでも討たれたような唖然とした顔で問い返した。
白々しく惚ける青年騎士へ、ハンスは苛々と睨むような視線を向ける。
「また惚けんのか? アンタの目的は、この先で教団の連中に連れ去られよぉとしてるセフィーだろ? もし、連中の企てが上手く嵌まって俺が死んでいれば、国なんてデケェのを背負っちまってるセフィーの事だ、内心はどぉあれ、遠からず代わりの相手を見繕ってた筈だ。そぉなれば、十中八九、幼馴染で腕も位も申し分無いアンタが選ばれただろぉな……教団に先手打たれちまってる以上、少しばかりの疑惑には目を瞑ってただろぉし……つまり、アンタはセフィーを手に入れる為に教団を利用し、邪魔な俺を排除させよぉとしたってワケだろぉ?」
まぁ、山積みになった誤算の所為でそれも台無しだがなぁ、と獣のように猛々しく歯を剥き出して嗤うハンスは、右手で双剣の片割れを抜き放ち、残る片割れも左手一本で引き抜いた。
クヴェレンハイムに帰るまでの死闘で汚れていた筈のそれらは、既に誰かが手入れしてくれたのか元の黒鋼に戻っており、鈍い刃が返す月光は俯いていたアイクの目元を照らす。
垂れた前髪に隠れる顔に見えたのは――
「……プッ、クハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハアハハハハアッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハアハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!」
堪え切れず噴き出された哄笑だった。
「そうかそうか!! 成程成程!! 確かにそうなるよなあ!! フフフフフ……ああ、その通りだよハンス。僕は君が憎くて憎くて堪らなかった! だってそうだろ? 十六年も共に過ごし、行く行くは妻となる筈だった人を、あろう事か突然現れた盗人に攫われようとしたのだから! 僕の立場に立ったなら、きっと君だって同じように思っただろうさ! それに、今こうして追っている時点で、君も主の意志に背いた反逆者だ! その自覚があるからこそ、君は王国騎士の紋章が刻まれた鎧を置いてきたのだろう?」
高らかに謳うように言い放ったアイクが、騎馬の鞍に掛けていた槍を掴み取った。
当然ながらその穂は木で作られた訓練用ではなく、一フィートほどの肉厚な諸刃で、柄は手に馴染み易く頑丈な六フィートほどの樫製、それの後端は穂と同じく鋼造の石突だ。
祭典で儀仗兵が持たされる儀礼用の装飾過多な玩具とは対極に位置するそれは、柄から下は王国騎士に広く普及している一般的な代物だが、彼の槍に嵌め込まれた穂は数代前からブルンベルク家に伝わる業物であり、曰く『賢者が振るいし二振りの牙にも抗い得る』とか。
アイクは労し気に見詰めてくる騎馬の首筋を撫でて退かせ、哄笑交じりの発言から押し黙ったままだった少年騎士へ向けて長めに握った槍を中段に構えた。
「さあ! 始めようじゃないかハンス! いつぞやの約束通り、互いの得手で雌雄を決しよう! 我らが愛しき姫君の為にも、此処でこれ以上無為に過ごすわけにはいかないだろう?」
「……そぉだな。アンタの下らねぇたらればなんか、ワザワザ否定してやるだけの価値もねぇ。さっさと終わらせて、セフィーを助け出すとしよぉか」
冷たく言い放ったハンスは、言い終えると同時に剣先が地に着きそうなほど上体を低く落とした四足獣を連想させる構えを取った。
戦場や先の襲撃時などに多用した多対一用の無形無窮の構えではなく、身体に纏った勢いをそのまま破壊力に変換する彼の剣術を最大限活かすこの構えは、防御を捨てた捨て身の型だ。
つまり、狙いは先手必勝、一撃必殺。
対するアイクが取ったのは、剣と対した槍の利点である射程の長さを活かしたカウンターの構え。
つまり、狙いは後手不敗、柔能剛制。
向き合う二人の刃に宿った一斬一突きで終わらせる、という意思が迸り、夜の森には葉鳴りさえ遠く霞むほどの鬼気が流れ始める。
だが、ハンスから流れ出たのは気迫などという目に映らない感覚的なものだけではなかった。
一呼吸ごとに彼の身体から紅い燐光が瞬き始め、まるで赤煙のように重く拡がっていたのだ。
数ヤードは離れた間合いから足下に漂って来るそれが増えれば増えるほど、少年騎士の重圧も増しているように感じていたアイクは、無意識の内に裂ける口元を堪え切れずにいた。
「――凄まじいな。それが君を復活させた奇跡の残光というヤツかい? こうして向かい合っているだけでも肌が灼け付きそうだ。これは今までの君と同じと考えていては危なそうだね」
「ハッ、自分で言うのもなんだが、こんなワケ分からん相手を前にして、震えもせずそんなふぅに笑ってられるアンタも大概だぞ……先に言っとくが、さっきから馬鹿みたいに力が溢れて上手く加減できそうにない。武器を操る獣と対峙している、くらいの気構えでいろよ?」
「それは怖い。胆に銘じる事にしよう。だが、君も侮ってくれるなよ!」
軽やかな口調とは裏腹に、槍を構える青年騎士からはハンスさえ目を瞠るほどの覇気が迸り、それに呼応するようにハンスも獰猛に歯を剥き出して笑った。
互いに強者との対峙に高揚と喜悦を浮かべる中、遂に弾けそうなほどの気迫が街道に満ちる。
そして、限界まで撓ませた下肢に溜まった力を一気に解放したハンスが、まさに引き絞られた矢のように放たれ――
――交錯は一瞬、立っていた者はただ一人。
天から見下ろす月だけが見届け役となった決闘はただ一合のみで決着した。




