第58話
クヴェレンハイムから教団の本部があるヴァスコールまでのルートは、大まかに分けて終始陸路を使うものとクヴェレンハイムの南に広がるボーデン湖を渡って街道に乗る二種類がある。
単純に湖を突っ切るルートの方が掛かる時間が短く済むのだが、当然ながら湖を渡るには連絡船に乗らねばならず、その連絡船は基本的に日に一度しか運航していない。
王国第一王女の護送が決定した頃は日も落ち切った時間帯で、ルチアーノ大司教は仕方なく陸路を選択しつつも、王女の確保から数時間足らずでクヴェレンハイムを出立していた。
いや、本当は二年前に得た王国の『譲歩』によって教団は自前の船を港に停泊させていたのだが、突発的な船の運用に掛かる時間を鑑みて、一刻できる王都から脱出できる陸路を選んだのだ。
何故、ルチアーノはそこまでして出立を急いだのか。
その理由は、首脳会談から戻って来る王子達との接触を避ける為。
運の良い事に彼らは湖を渡るルートを通る手筈なので、陸路なら道中で鉢合わせする危険も無い。
――そして、もう一つ……
「二年前に王国から貰い受けた『譲歩』、それによって設立されたクヴェレンハイム教会への配属が決定した当時、私は教団本部から一つの指令を受けていました」
クヴェレンハイムから十マイルほどの位置にあるボーデン湖傍の森林地帯、そこを横断する街道上で、その速度の為に若干の揺れが伝わる四頭立て高級馬車の柔らかい座面に身体を預けながら、ルチアーノはいつも以上に頬を緩ませていた。
複数のランタンで快適に照らされた車内では、彼の脇に控えるジルベルト聖騎士長が対面に座すセフィロティア王女を監視し、キャリッジの前後は騎馬を駆る延べ三十の聖騎士が固めている。
自ら悪魔憑きと申告した王女殿下の格好は、変身した時の服装も髪や肌の色も色褪せるかのように元のエルレンブルクの国宝と呼ぶべきものに戻っていたが、その両腕は荒縄の枷によって罪人のように縛められていた。
「それは『精霊|の出現予測地であるクヴェレンハイムの中心地、王宮の早急な奪取』」
ルチアーノが放った機密の暴露、正確にはその中の一つの単語を耳にし、囚われの少女は無言のまま驚愕に大きく目を見開いた。
吃驚はジルベルトも同様だったようで、対面の王女と似たような表情を浮かべている。
「しかしながら、その任は未だ果たせぬまま時だけが過ぎていきました。まあ、たかが数年程度で国盗りをなそうなどは考えていませんでしたがね。それでも、もう少し位は手が届くと思っていたのですが、いやはや、エルレンブルク王家は優秀な方々ばかりで困りましたよ」
首を振りながら嘆息し、あからさまに頭を押さえると、法衣の老人は『ですが、』と続けながら顔を上げ、その上機嫌そうな表情を見せびらかした。
「つい先日、唐突にその指令が更新されたのです。内容は『近日中にクヴェレンハイムでの出現が予測される精霊の確保』……つまり、貴女がその身に宿した者の事ですよ。まあ、流石に発見から確保までこれほど容易に進むとは思っていませんでしたがね。全く、嬉しい誤算と言いましょうか……いや、これこそが神の御導きなのでしょう」
押さえた口元から隙間風が吹くような笑みを溢す大司教と、彼の発言に瞠目しながらも口を引き結び続ける王女殿下。
だが、突飛な上に唐突過ぎて理解が追い付いていないらしい彼女とは違い、ある程度の余裕を取り戻したらしい聖騎士長の方は半ば無意識的に口を開いた。
「せ、『セイレイ』……? そ、それは三位一体第三位の『聖霊』ではなく、四大元素に宿ると言われるアレと同種のもので……? それこそが、あの広間での復活劇を披露した者の正体であると……?」
言外に『実在するのか?』という響きを孕んだそれを不快に思う事も無く、それどころか、ルチアーノの唇は益々愉快そうに吊り上がった。
「フフ、四大精霊ですか。そうですね、そうですね。ジルベルト聖騎士、四百年前のカエルム教再興の際に顕現なされた御使いの方々は一体何人だったか……憶えておりますか?」
「それは勿論、救療を司るサピエンツィア、不羈を司るアウダキア、豊穣を司るテンペランツィア、安寧を司るユスティツィアの四人です。我々七徳聖騎士団の始祖である四徳騎士団は彼らの加護を授かるべく彼らの名を拝借していたのですから、違える筈がありません。ですが、それが一体……?」
教徒ならば誰でも分かるような問いだった事もあり、聖騎士長は迷う素振りすら見せずに答え、それに大司教も満足そうに頷いた。
だが、老人の口が再び開かれた事で、ジルベルトの意識に白滅する事になる。
「ええ、ええ、その通り。四つの徳目を冠するその四名です。伝承によると死と絶望が満ちる地上を救済した彼らは、その後、天上の国へ戻られたと伝えられています……ですが、実際は違う! 彼らはこの四百年間ただの一度もこの地を離れてなどいない! 彼らは聖地ヴァスコールに存在し続けている! 彼らこそが我々を守護し、道を違えぬよう導いているのです!」
「――――ッッッ!?!!!?」
エルレンブルクの市民に限らず、連合各国の民達でさえ酒気や痴呆を疑うような発言だった。
だったのが、それを口にしたルチアーノの目には確かな理性の光が宿っており、その細く衰えた痩躯から迸る確固たる意志の力が、彼の言葉が偽りでも妄言でない事を証明している。
大司教の言葉と姿から真実を悟り思わず立ち上がってしまったジルベルトは、その巨大な図体が災いして馬車の天井に後頭部を強打した。
なのに、彼は痛みに顔を顰める事もなく、呆然とルチアーノの顔を見詰めるだけだった。
その様が可笑しくて――ではなく、純粋に気分が高揚している大司教の口は油でも差したように回り続ける。
「フフ、フフフ、貴方が抱いているであろう驚愕と感激には憶えがありますよ、ジルベルト聖騎士長。なにせ、私も未だこの地に留まっておられる天使様方への御目通りが叶った時は、滂沱の如く流れ落ちる感涙を堪えられませんでしたからねえ」
狭い馬車の中で立ち尽くしたままの聖騎士長を嗜めるどころか、態々立ち上がって彼の硬直を解くように優し気な手付きで肩を叩く大司教。
そんな彼らを見ながら、今まで沈黙していたセフィーの思考がゆっくりと働き始める。
(精霊に天使ですか……ハンスだったら『つまんねぇ冗談なんぞ聞かせんな』くらいにしか思わないでしょうね……ですが、あの妖魔を見てしまってはそうも――いや、そのような事よりも考えるべきは『何故、その存在を悪魔憑きと断じた相手に聞かせたのか?』という――
「『何故、悪魔憑きにこのような話を聞かせたのか?』、そう考えていますね? セフィロティア王女殿下」
まるで心を読んだようなタイミングでの言葉に、王女の身体がギクリと竦んだ。
表情筋の動きは普段と同じ筈なのに嘲ているように見える老人の隣では、落下するように脱力してしまいながら座席に戻った聖騎士長が、現実逃避気味に聖書の一節を口遊んでいる。
「そうでしょう、そうでしょう。そして、聡明な貴女ならば、『この場で何を知った所で、それを伝える事など叶わないからこそ喋っているのだ』という所まで辿り着けるでしょう。ええ、ええ、まさしく何もかもが貴女の読み通りですよ、セフィロティア王女殿下! ……もしや、貴女は天使様方の御姿にも目星が付いているのではありませんか?」
「…………」
彼女の沈黙を勝手に肯定と判断したルチアーノは、皺だらけの頬を歪めてクスクスと笑みを溢し、傍らで俯いていたジルベルトは御伽噺の続きをせがむ子供のように、ブツブツと呟いていた気持ち悪い口を閉じて老人の言葉を待っていた。
「良いですね、良いですね、ならば答え合わせといきましょうか……天使様方は全員併せて四名と話しましたが、ヴァスコールで四人と言えば他にも思い当たるものがありませんか?」
意気揚々と喋りだした老人の問いは、対面で睨む王女へではなく聖騎士長に向けられていた。
しかし、唐突だった所為か、或いは興奮で頭が回っていないのか、ジルベルトの口調は重い。
「四人……ですか? ……今代の聖人認定者は御二方のみですし、黒羽部隊の部門長は四人ですが、ヴァスコールに常勤してはいない筈。聖騎士団の長も任務でヴァスコールを離れている上に、そもそもが七人……」
首を捻りながら考え込む聖騎士長だが、やがて何かに思い当たったのか不意に頭を上げる。
「もしや……枢機卿方、ではありませんか? 聖地で教皇様を補佐しておられる彼らならば、その人数も活動地も符合します!」
「ええ、ええ、その通り。そして、貴方も目撃したでしょう、眼前の姫君に精霊が宿る場面を! もう、御分りですね? そう! 我らが神に仕える天の御使い方は今! 枢機卿の身の内に宿り、彼らを依代として教団を知ろしめしておられるのです!」
翁と中年の小芝居じみた遣り取りに白けた視線を向けていた王女だが、確信に触れた老人の発言にその瞳が見る見る険しくなった。
「また、天使様方はこの地に留まり続ける為に、定命の依代を一定の周期で交換されている! 分かりますか? 我々には! まさに言葉通りの意味で! 天に身を奉げる機会が与えられているのですよ! そして、そして! 天使様方が欲しておられる精霊を連れ帰れば、私は他の候補者達を抑えて確実に次の器となれる事でしょう!」
狂喜に酔いしれながら恍惚と声を上げて笑う大司教の姿からは、普段の微笑みが仮面に過ぎなかった事を証明するかのように、肉から滴り落ちる脂のような生々しさが転び出ていた。
また、その隣で話に聞き入っていた聖騎士長の表情にも粘着くような我欲が表出している。
そう、『欲』。
セフィーには彼らが実在するらしい天使へ向けている感情が、信心や善性の延長ではなく、爛熟して爆ぜ落ちそうになっているドス黒い欲望にしか見えなかった。
そんな熱狂者達の悍ましい表情を前にした王女の背筋に怖気が走るが、そんな怯えなど毛ほども見せないよう封じ込め、更に普段以上の品格と覇気で武装して挑み掛かった。
「つまり、貴方達カエルム教団には人に巣食った悪魔を取り出す術があり、それを用いて大陸中の悪魔達を収集しているという事ですか。全く、悪魔を所望する天使とは何とも度し難い」
まるで彼女の愛しい少年騎士が口にしたように皮肉気なセリフに聖騎士長が怒りも露わに荒々しく立ち上がるが、大司教は微笑みを絶やさずに軽く上げた掌でそれを諌めた。
「フフ、フフフ、いやはや、なかなかに気丈であられる。結構結構。では、もう一つ御教えしましょう。天使様方が授けて下さった方法で精霊を回収すると、憑依されていた人間は必ず死に至ります。とは言え、ヴァスコール到着まで相応の猶予がありますから、それまでに今までの不敬を悔い改め、我らが神へ祈りを奉げると良いでしょう。そうすれば、少なくとも死後に地獄へ送られる事だけは免れられますよ」
あくまで優し気な口調を維持するルチアーノに、今にも舌打ちしそうなほど憎々し気な表情を浮かべるセフィー。
片や睨み、片や微笑む両者の間で火花が散っていた――その時だった。
車体が粉々に砕けたのかと思うような派手な破砕音と共にキャリッジが大きく傾いた。




