第53話
「……想像して強く念じる、想像して強く念じる、想像して強く念じる……ハンス、ハンス、ハンス!!」
まるで呪文でも唱えるかのように、熱に浮かされた調子で静かに呟きながらハンスの胸に覆い被さるセフィー。
壁際で事の成り行きを見守る事しかできないでいた元人垣達からは見えなかったが、彼女はきつく目を閉じて意識を集中させながら必死にただ一人の事を思い続けていた。
すると、ハンスの亡骸が僅かに淡い炎色の光に包まれた。
「――起きて下さい、ハンス。私には、まだ、貴方と話したい事が沢山あります」
騎士の身体が放つ光に気付いて顔を起こしたセフィーは、彼の白く凍え切った穏やかな寝顔を真っ直ぐ見詰めて静かに囁き掛けるような声音で語り掛けた。
「貴方が今まで聞かせてくれたような旅の話、もっと昔の子供の頃の話――いいえ、過去だけでなく未来に望む事も。それから、私自身の事も聞いてほしいのです」
彼女の言葉に呼応するように騎士の全身を覆う光は強さを増し、その色は炎色から赤色へ、赤色から緋色へ、緋色から彼の異名である真紅へと変化していく。
広間の外野達は突然現れた巨大なルビーを連想させる光景に目を奪われて言葉を失っていたが、彼に寄り添って彼の事だけを想うセフィーにとっては些末事だった。
至近距離で少年を見据えるセフィーの顔は、吸い寄せられているように無意識の動きで両者の間隔を狭め、やがて、彼女の唇が真紅の光へと触れる。
「この前の事だってきちんと話し合って、貴方の事をもっとよく知って分かり合いたい。私はこれからもずっと、貴方に、傍に居てほしい……私には貴方が必要なのです。だから、どうか、どうか……帰って来て下さい、ハンス」
少女が愛しい相手の名を口にした直後、彼女の唇が光を通過して二人の間隙を無にした。
瞬間、広間に真紅の太陽が現れた。
それはハンスの身体を覆う光がその輝きを極めたものだったらしく、正面からまともに浴びてしまえば目が潰れそうなほど強烈で、閃光に目をやられた者達は悲鳴と共に悶絶している。
紅く染まった広間は静寂から一転して阿鼻叫喚の様相となったが、セフィーは誰よりも太陽の近くに居ながら、光源である亡骸の頭上に現れた陽炎のような揺らぎを発見していた。
徐々に高度を下げながらゆらゆらと揺れ動く不定形の揺らぎは、常に変形を繰り返して一瞬たりとも同じ形を保とうとしなかったが、セフィーの視線を受けた事で何かの作用でも働いたかのように形を急激に変貌させていく。
グニャグニャと動き回るそれは、最初に無数の疣が生えた蛞蝓のように、次いで前足だけが生えた尾無しのオタマジャクシのように、重ねて角が生えた蛸のようなものへと姿を変え、ハンスの上空三フィートまで迫った辺りで顔の無い肘や膝から先が欠けた泥人形のような形となった。
雲のような千変万化を披露しながら舞い降りる無色の人型を見て、セフィーの直感はそれこそがハンスの喪われた命そのもの、俗に魂と呼ばれるものなのだと理解する。
歪な人型は空気中に散っていたらしい己の破片を吸収しながら降下を続け、床に横たわる傷だらけの肉体まで残り一フィートほどの時点で、ボロボロの亡骸と寸分違わない完全な『ハンス・ヴィントシュトース』を形成した。
「――ハン、ス……」
安らかな顔で眠る肉体と全く同じ表情を浮かべる半透明な人型へ、正確にはその人型の焼け爛れた右の頬へ、誘われるままにセフィーの手が伸ばされる。
「――――ッ!!」
落下する幽霊のような人影と差し出される白魚のような指先が重なり合った瞬間、揺らぎに触れたセフィーの指に剃刀で斬られたような鋭利な痛みが走った。
その痛みで反射的に手を引っ込めたセフィーが指を確認するが、彼女の指先に変化は無い。
何が起きたのか理解できずに指から視線を外して顔を上げたセフィーは、そこで無色透明だった人型に起こる変化を目撃した。
床の肉体が放つ紅い光が人型にも伝播し、幽体までもが同色の謎の光に染められたのだ。
だが、幽体に飛び火した光は肉体を覆っている物と違って無闇に放散されているわけではなく、全身に行き渡ったと同時に何か目的でもあるかのように要所要所へと移動を開始している。
セフィーが水に溶けた絵具のように流動する光を目で追うと、真紅の光は傷を負った肉体と全く同じに損壊している幽体の各部位の傷口へ集中していき、その孔を塞ぎにかかっていた。
幽体の傷が塞がれ終えた時には肉体との距離は一インチを切り、両者の間隔が消えた瞬間、広間は再び真紅の極光で満たされた。
『――――――――――!!!!!!』
周囲の悲鳴はセフィーの意識の中で意味の無い雑音として処理された。
彼女の意識はそんな些末事など比較対象にすらならないほど重要な――いや、大切な事柄で占められていたからだった。
紅い閃光が撒き散らされる直前に起きた幽体の欠損部補填現象が肉体にも現れていたのだ。
「――ぁ…………あぁ……」
亡骸に刻まれた無数の傷が紅い光で満たされると、次の瞬間には痕すら残さず傷が消える。
しかも、傷が一つ消える度に流れ出た血液も補填されているのか、蝋燭のように白濁した肌が見る見る内に生命の息吹を取り戻していく。
その奇跡的な光景を目の当たりにし、セフィーは次から次へと溢れる雫を堪えられなかった。
やがて、最後に残った顔と頭部の火傷が跡形も無く消え去ると、もはや完全な健康体と化した亡骸の胸から太鼓のように盛大な鼓動が轟き、そこから徐々に落ち着きを取り戻すような律動で心臓が再動を開始する。
「……ぁ、ぁああ…………ああ…………――――ンス――ハンス、ハンスッ、ハンスッ!!」
本人さえも意識しないまま無傷の胸板に掌を置いていたセフィーは、その脈動に感極まり、溢れる涙を抑えられずに只々彼を呼び続けた。
すると、それがまさに呼び声となったのか、まるで深い水面から飛び出して来たかのように一際大きく息を吸い込んだハンスは、鼓動だけでなく呼吸までをも再開させた。
……させたのだが、意識までは戻っていないらしく、鼓動と同様に段々と呼吸も落ち着かせながら広間の床で静かに横たわり続けている。
それでも、ハンスが死の淵から戻ってきたのは覆し難い事実だ。
その事を一番近くで感じ、一番喜び安堵している少女は、彼の胸で先程までとは全く異なる色合の雫で頬と彼とを濡らしていた。
『奇跡のような』ではなく、本物の奇跡そのものとしか思えない現象と、少年の帰還に滂沱する少女の姿に、広間に集まった者達は見入るばかりだった――
「聖騎士諸君!! エルレンブルク王国第一王女セフィロティア姫を――いや、悪魔と契約を交わした卑しき魔女とその下僕を拘束せよ!!」
……壁際で事の顛末を食い入るように見ていた大司教の指示により、その隣に控えていた聖騎士長から大陸公用語で放たれた声高な号令が下されるまでは。
広間を満たした無情な命令に従い、白衣と鎧で身を固めた聖騎士達は迅速に行動を開始した。




