第50話
「どうぞ」
教団内に於いて教皇、枢機卿に次ぐ地位である大司教――言うまでもなく、このクヴェレンハイム教会内では最高位――の人間が使用している部屋へ来たにしては随分な不作法にも関わらず、ルチアーノはやはり笑顔のまま柔らかな声音で返した。
「――失礼します! ルチアーノ大司教、ジルベルト聖騎士長、御報告が御座います!」
一礼と共に入室してすぐさま直立不動となった聖騎士は、余程急いで来たのか微かに土埃が残る白銀の板金鎧に身を包んでいた。
聖騎士長は兜を小脇に抱えて露わとなった素顔に見覚えがあったらしく、その無礼な来訪者を見据えて眉を顰めた。
だが、彼の眉間が強張った理由は何も聖騎士の非礼ではない。
寧ろ、そんなものが気にならなくなるほどの嫌な予感に襲われたからだ。
「君は捜索隊の……成程、話したまえ」
そう、執務室に現れた聖騎士は聖騎士長自身が編成した『人狼』捜索隊の一員だったのだ。
現在クヴェレンハイムを離れ、その名の通りの任務に従属している筈の聖騎士が命令を下した聖騎士団の長と教団大司教に報告があると言う。
しかも、息を切らせて頬を上気させながらまるで叱責を恐れる幼子のように硬く表情を強張らせて。
此処まで並べれば誰だって予想できるだろう。
報告内容が緊急のもので、尚且つ、上位者に指示を仰ぐ必要があるほどの大事――十中八九、厄事――であると。
「ハ! 只今捜索中の『人狼』がクヴェレンハイム東門に現れました! 現在王宮に向かっているとの事です!」
淀み無く告げられた報告は簡潔だった。
簡潔過ぎて、告げられた一人は瞠目し、もう一人は今まで浮かべていた笑顔を維持できずに仮面のように固まった無表情を晒してしまっていた。
殆ど反射だったのだろうが、零れんばかりに両眼を見開く聖騎士長の驚愕に震える口が動く。
「ば……馬鹿な!! 奴は幾つもの矢傷と太刀傷を負い、背中と顔半分を丸ごと覆うほどの火傷に見舞われていたのだぞ!? しかも、足も射貫かれていた筈だ!! その状態で馬も使わず此処までの道程を走破したと言うのか!? いや、それにしたって早過ぎる!! 馬を駆る我々が到着したのがつい昼頃だったのだぞ!? こんな、こんな馬鹿な話があるか!!!!!!」
悲鳴にも似た響きを持つ絶叫に、緊張で固まっていた聖騎士の顔はそのまま倒れそうなほど青褪めたが、無表情の大司教は己の口元を隠すように手を添えて何事かを思案し始めていた。
そして、尚も聖騎士長の叱責が続く中、何かしらの答えが出たらしい老人は静かに席を立つ。
「――大体、っ……失礼致しました、ルチアーノ大司教。して、如何されましたか?」
視界の隅で上司が纏う空気の微妙な変化を敏感に察知して微かな媚びが香る言葉を贈るジルベルトを無視したルチアーノは、扉の前で置物になっている聖騎士へと視線を向けていた。
「聖騎士エドアルド・エトーレ、『人狼』が王宮へ向かっているのは間違いないのですね?」
普段通りの微笑みを浮かべて包み込むような声音を発した大司教に、思わず聖騎士の緊張が解け掛けるが、遥かに目上の相手に問われているのだから緩んだ顔で呆けるわけにもいかない。
緩急を付けられて――ジルベルトの方は意図していなかっただろうが――振り回されている事に無自覚ながら、聖騎士エドアルドは大司教へと向き直って口を開く。
「ハイ、間違いありません! 我々第一捜索隊は彼の者を追ってこの街に帰還しましたが、東門周辺の監視員からの証言で、全身血塗れとなった彼の者が我々よりも一足早く入国していた事と、王宮への取次を求めていた事が確認できました! 現在、私を除く第一捜索隊員は彼の者を追って王宮へと向かっております!」
年若い容姿に見合ったハキハキとした応答へ満足そうな頷きを返し、大司教は扉に向かって足を運ぶ。
「成程成程。では、我々も早急に王宮へ向かうとしましょう」
単なる平騎士に過ぎない自分とは比べるべくもない殿上人の道行きを妨げまいと、聖騎士エドアルドが扉の脇へ除ける中、自分には目もくれずにいる先達に聖騎士長は慌てて口を開く。
「お、御待ち下さい、ルチアーノ大司教! 本当に『人狼』が舞い戻ったのだとしたら、今回の暗殺が王宮に露見してしまう筈です!! そうなれば我々は――
「だからこそ、ですよ、ジルベルト聖騎士長」
扉の前で立ち止まってゆっくりと振り返ったルチアーノが、未だ理解が追い付いていない愚者へ微笑みと細く絞った眼光を向ける。
「ただ『人狼』が戻ったと言うだけで王宮側に事の顛末が知られていないのならば、まだ幾らでも誤魔化しが効きます。まあ、交渉するにしても口を封じるにしても、彼が王家の手に渡る前に先んじて動く必要がありますが、幸い彼は我々の依頼を受けている身です。それを口実にすれば、彼の身柄を押さえる事も容易でしょう」
一瞬だけ微かに不穏な影が走った微笑みを隠すように、大司教は扉に向き直ってドアノブへ手を掛けた。
「さあ、行きますよ、ジルベルト聖騎士長。今の我々に求められているのは迅速且つ的確な行動なのですから」
言葉と共に押し開いた扉の外へと踏み出したルチアーノは、もはや拘泥する時間も惜しいとばかりに窓から傾き始めの日差しが差し込む廊下を進み始め、取り残された二名も老人が態々振り返らなければならなくなる前に執務室を後にした。




