第47話
「……? ハンス……? ……ハンス、聞いていますか?」
呼び掛けても返事が無い事を不思議に思うセフィーは、今までと同じように穏やかな調子で呼びかけるが、ハンスからの反応は無い。
彼は相変わらず、傷だらけの歪顔に似合わない穏やかな表情を浮かべている。
「ハンス……? もう、冗談は止めて下さい! 起きているのは分かっていますよ? 今だって、ほら! こうして、握り返してくれているのは分かっているんですから!」
抱き寄せていた手を翳すようにしながら得意気に語るセフィーの声は、彼女自身意識しないまま先程よりも大きくなっていたが、ハンスは未だ目を閉じたままだ。
そんなハンスに焦れたのか、彼の握った状態で不自然に固まってしまった|手を離し、セフィーは眠っている彼の身体を揺さ振った。
「いい加減にしなさい!! ハンス!! 聞こえているのでしょう!? 答えなさい!! ハン――
「王女殿下、それ以上はいけません」
騎士の悪質な御巫山戯に憤慨するセフィーを止めたのは、傍らに控えていた女性医師だった。
彼女は少年を揺さ振っていた手を直接取り押さえ、静かに淡白な口調で告げていた。
その冷淡な言葉と真っ直ぐに射竦めてくる視線で我に返ったセフィーは、慌てたようにハンスから手を離して礼を口にする。
「あ、と、止めて下さって、有難う御座います。そ、そうですよね……幾ら悪巫山戯が過ぎると言っても、彼はこんなに酷い怪我を負っているのですから……安静にして、しっかり養生させてあげないといけませんよね……」
いけない、いけない、と自制の言葉を繰り返すセフィーからは、普段の輝くような、咲き誇るような、神々しさとも形容できるほどの覇気が鳴りを潜めている。
代わりにあったのは、何か、得体のしれない不穏なもの――教団の一部の信徒が内に宿すような狂信にも似た色だった。
だが、女性医師は彼女を逃がすまいとその肩を捕まえながら、その瞳を真っ直ぐに暗く濁った翡翠色の瞳へと向けた。
「いえ、彼にはもう治療の必要はありません。それは殿下も御理解しておいででしょう?」
問いを突き付けられ、視線に追い詰められ、セフィーの瞳に微かな理性の光が戻り掛ける。
しかし、目前の現実を受け入れられない彼女の心が、その輝きを圧し沈めようと足掻く。
「そんな……そのような事はありません!! だって、現に彼は私の手を握り返して――
「それは人体に起こる死後変化の一つに過ぎません。本来、発生に時間が掛かる現象ですが、戦場では稀に立ったまま息絶える者が居ると聞きますので、恐らく彼もそれと同じ状況にあるのだと思われます」
「でも、それは……だって、ついさっきまで話していたのですよ!? それなのに――
「王女殿下、人はいつだって、突然亡くなるので御座います。私の母も突然倒れたと思えば、そのまま二度と目を覚まさずに逝ってしまいました」
あくまで淡々とした口調で告げる医師に、それでも目前に横たわる現実を直視できないセフィーは、駄々を捏ねる子供のように首を振りながら眠り続けるハンスへ向き直った。
「嘘、ですよね……違っ……違いますよね……だって……貴方は、私と約束したじゃないですかッ!! 『必ず無事に帰ってくる』と……そんなっ、傷だらけで……死……死んで…………?」
そうして、温もりが消え去って硬く固まってしまった身体に触れ、どれほど触れていても何も応えない彼を前に、少女の中で想いが、感情が、思い出が、それ以外の何もかもまでをも含めて、混ざり合って、濁流と化した。
「あ……ああ、あああああ……嫌、嫌ッ!! 嫌嫌、嫌ァァァアアアアアあああアアアアアアアアアぁアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァアアアぁアアアアアアアアアアアアアあああアアアアアアアア!!!!!! 嘘ッ!! 嘘ですッ!!!!!! 目を、目を開けて下さいッ!!!!!! ハンス!! ハンスッ!! ハンスッ!!!! ハンス・ヴィントシュトースッ!!!!!!」
泣き叫び、縋り付き、烈しく呼び起こそうとするセフィーを、感情を押し殺したような鉄面皮を保つ女性医師が再び諌めようとするが、今度は彼女の方が圧し止められた。
女性医師が自らの腕を掴む者へと振り返ると、そこには厳めしい顔を更に硬く強張らせ、悟らせるように、言い聞かせるように首を振る王国騎士団長の姿があった。
「貴方はッ!! 私に言ったではないですかッ!!!!!! 『必ず』ッ……、『必ず無事に』ッ、『帰ってくる』とッ!!!!!! なのにッ!! なのに……何故、こんなッ!! ……選りにも選って……私の目の前でなんてッ!! あんまりじゃないですかッ!!!!!! なにが『ゴメン』ですかッ!!!!!! 巫山戯るなッ!! 巫山戯るなッ!!!! 巫山戯るなッ!!!!!! そんなッ……そんな言葉だけで許すものですかッ!!!!!! 許して欲しいならッ……本当に、許して欲しいのなら、もう一度……起きて……目を覚まして……ぅ、うぁ……あああああぁァぁアアアアアァァァアアアアアアアアアアァアアアアアアアアァアああぁぁああアアアアアアアアアアアアアアァぁアアアアアァァァアアアアアああアアァアアアアアアアアアアアァアア!!!!!!」
本当は、セフィーも気付いていた。
ハンスが最後に言葉を口にした時、ふわりと何かが頬を撫でた気がして……
それが、それこそが、もしかしたら、傷付いた彼の身に残された命の息吹そのものだったのではないかと。
だから、否定して、拒絶して、『何も見なかった』『何も感じなかった』と目を背けて、少年騎士は再び目を覚ましてくれると自身に言い聞かせていたのだ。
だから、セフィーも分かっていた。
女性医師から死した人の身に起きる事象や人の命の儚さなど諭されずとも、手を握られるほどすぐ傍で横になっていた筈の少年騎士が、もう、誰の手も声も届かない場所へ逝ってしまった事は。
セフィーにとってハンスは、初めて心の底から夢中になった男性だった。
切っ掛けは二年前の決闘祭典を観戦していた時。
参加者の多くが連合各国で名を馳せた屈強な戦士達であり、そんな中に紛れ込んだ小柄で特徴的な目髪を持つ少年の姿は一際異彩を放って――と言うより、参加者や客席から嘲笑や罵倒が投げられるほどには悪目立ちしていた。
まあ、参加者達にしても長年鍛え上げてきた腕前に誇りがあるのだろうし、観客達にしても折角の祭典に頭抜けて弱そうな選手が紛れていては興醒めなのだろう。
戦争も政治の一部とは言え戦闘そのものとは縁遠いセフィーも、彼が場内に現れた時は怪我をさせる前に棄権させた方が良いのではないかと思ったものだ。
しかし、いざ試合が始まると彼女を含めた場内の反応は容易く一変した。
彼は舞うように軽やかでありながら鍛え抜かれた業物の如く洗練された戦いぶりで、自身より二回りは大きい相手を瞬く間に倒してしまったのだ。
余りにも非現実的な光景を目の当たりにし、場内は一瞬の静寂の後に掌を返すような大歓声に包まれたが、彼女にとっては試合内容よりも傷顔に浮かぶ表情の方が印象的だった。
その試合が始まる直前や試合の最中に彼女が見いだせたのは、暗く凝り固まった諦念や嫌悪の陰りだけだったが、試合終了時に倒れた対戦相手と少しばかり言葉を交わした直後、客席から降り注ぐ歓声を見渡すように上げられた彼の表情に僅かな光が灯ったのだ。
その暗闇の中でか細くも確かに照らすような灯火が忘れられず、セフィーは闘技場のど真ん中で舞い踊るように、或いは見せ付けるように戦う彼の姿を目で追い続けていた。
いや、試合の観戦だけでなく入国時や祭典参加時の記帳などを洗って知り得る限りの素性や過去に辿った旅の道筋とそこで彼がどんな振る舞いを見せていたかを調べ尽くし、ハンスがどんな人間でどのように生きてきたかを探ってもいた。
そして、日を跨いで一戦、また一戦と乗り越えていく度に強まる光に魅せられたセフィーは、決勝の直前に彼の控室へと赴き『何故祭典に参加したのか』と直接問うたのだ。
突然の来訪にもハンスは『何故って、そんなの決まってんだろ。旅費の足しにする為だ』と生意気そうに嘯いて見せたが、一瞬間を置いてから楽しそうに、そして、寂しそうに『……だったんだがな……まぁ、こんなに平和で温かい国だと出国るのが惜しくなるよ』と答えた。
それを聞いて、今まで集めた情報と照らし合わせて、彼が長く孤独に苛まれ続けていたのだと悟った彼女は、彼の寂寥を癒せる居場所を作ろうと心に決めた……
だが、どんなに温かな想いも、冷め切った身体や凍り付いてヒビ割れた心を温めはしない。
そこに在ったのは、幼い頃からの英才教育や城下の御忍び城下視察で培われた辣腕を振るう王国第一王女ではなく、到底受け入れられない現実に打ちのめされて最愛の想い人の胸に縋り付くだけの無力な少女の姿だった。
彼女を取り囲む人垣の各々が王国騎士団長のように瞼を塞いで王女殿下から顔を背け、ある者達は聖書に記された祈りを奉げ、極少数ながら王女殿下と同様に頬を濡らす者も見られる中、広大な広間は噎び震える小さな背から溢れる悲嘆と嗚咽に満たし尽され――
――それが、アナタの望みか……?
唐突に、広間の中心、亡骸と王女殿下の頭上から声が響き渡った。




