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くようばこ ひとつめ  作者: 狩人タヌキ
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第46話

 セフィーがハンスの元に辿り着いた時、そこには少なくない人数の人垣ができていた。


 しかし、今の彼女にとって彼らの存在など然したる問題ではない。


 そもそも、此処に到着するまで自分がどの通路を使って、どの階段を下ったのかすら記憶していなかったほどだったのだから。


 だが、その群衆の存在こそが、まさにセフィーが最も忌避したい出来事による産物である事は彼女にも分かっていた。


 それでも予感を押し殺して、吸い込まれるように、或いは引き寄せられるように、虚ろな歩みのセフィーが歪な円へと近寄ると、ふと我に返った人々が左右に除けた事で人の海が割れて彼女の為の道が開かれた。


 王女はカエルム教の原型となった古き神話に登場する預言者を彷彿とさせるその道を辿り、少しずつ、少しずつ、薔薇の蕾が咲き散るように剥がれていく人壁の間を進んだ。


 すると、セフィーの元に段々と嗅ぎ慣れない激しく不快な臭いが漂ってきた。

 彼女にとっては初めて嗅いだものだったが、生物としての本能がそれを死臭だと認識し、理性がそれを理解した頃、予感に慄いて鈍った歩みが漸く中心へと辿り着いた。


 そこに在った光景は、やはり、ファルカの言葉通りの――彼女もセフィーも絶対に臨まない光景そのものだった。


 だから、本質的に何の慰めにもならない事で、しかも、セフィーには知りようも無い事だったが、柔らかな絨毯の上に横たえられたハンスの姿は東門に現れた時よりも幾分かはマシになっていた。


 それは人垣の中心でハンスの最も近くに控えていた女性医師が、周りの者達にも手伝って貰って治療に邪魔な装備や衣服を剥がし、沸かした湯と清潔な布で顔や肌にこびり付いた血を拭い取っていたからだった。


 ただ、幾ら汚れを落とした所で、紅く染まったチュニックの下から現れた幾つもの生傷が全てを台無しにしているが。


 中でも、目立つのは頭部の火傷と腹の刺し傷だ。


 彼が負った中で一番派手な傷がこの火傷であり、側頭部から目元まで伸びたそれは皮膚を爛れさせ、特徴的な彼の灰髪を半分以上呑み込んで黒く炭化させていた。


 刺し傷の方も身体に刻まれた他の傷と比べて一際深く、何らかの毒物によるものか、傷口を中心に広い範囲で肌が青黒く変色して腫れ上がっていた。


 加えて、王都を目指す道中でハンス自身が『少しでも動き易くする為』と刺さったままになった鏃を無理矢理取り除いたらしい矢傷は、力任せに抜いた反動で傷口が乱雑に傷んでおり、体中の切り傷、太刀傷と同様に乾き切って赤黒く変色した断面を晒している。


 また、仰向けにされている所為で彼女の位置からは分かり難いが、彼の背中も頭部と同等かそれ以上に深刻な火傷を負っており、ほぼ一面が赤く焼け爛れた状態だ。


 そして、まるで眠っているかのように浅くて静かな呼気は彼の命の残量を暗示していた。


「……ハ、ハン…………ハン、ス……?」


 その呟きはただ目の前の事実から目を背けたくて漏れただけで、セフィーはその声が届くなどとは思ってもいなかった。


 だから、


「…………………………セ……………………フィー…………………………………?」


 その声が彼女の耳朶に届いた時、彼女は衝動的にハンスのすぐ傍にまで駆け寄っていた。


 女性医師の方も既に処置を終えていたのか、その突発的な行動を止めたりはしなかった。


「ハンス! ハンス!! 私です! セフィロティアです!! 分かりますか!? ハンスッ!!」


 さっきの弱々しさが嘘のように、強く、強く呼び掛けるセフィーに、周囲までもが静まり返る中、ハンスの唇が震えるように開かれた。


「…………セ…………フィー……? ……ソコ、に……居る…………のか……………………?」


 掠れた言葉と共に、籠手を剥がされて痣だらけの肌が剥き出しになった右手が宙を彷徨う。


 まるで、助けを求めるように弱々しく上げられた掌を跳び付くように捕まえ、セフィーはそれを両手で大切に抱き締めるように握った。


「ええ、此処に居ます……!!!!!! 私は、此処に居ます…………ッ!!!!!!」


 溢れる思いと涙とは裏腹に、湧き上がる嗚咽で息は狂い、喉が張り付き、言葉は詰まる。


 そんな彼女の手を本当に微かな力で握り返すハンスの固い掌は既に冷え切り、彼の灯火がもう消え掛けている事を伝えていた。


 ハンスは軋むような遅々とした動作で首を巡らせ、光が消えたまま焦点も定まらない瞳で声を追い、申し訳なさそうな陰りの混じる微笑みを浮かべた。


「………………ゴ……メン、な……泣、かせ……………ちまっ…………て………………………」


 途切れ途切れの謝罪を口にする彼の顔は、見る者によっては酷く醜悪に見えた事だろう。


 左頬には元からあった古傷と真新しい傷痕が、まるで爪痕のように並んで刻まれており、その反対側は焼けただれた皮膚の下から鮮烈な緋色が剥き出しになっていたのだから。


 現に人垣で眺める者の中には眉を顰めていた者も少なからず存在したが、彼らにはセフィーにとってその笑顔がどういうものに見えていたのかは知る由も無かった。


「謝る必要など、ありません……私は……私は、ただ……貴方に、傍に居てほしかっただけなのですから…………」


 堪え切れずに震える声で告げられたハンスは、微かにその笑みに別の色を上げながら、咳と聞き間違えてしまいそうなほど微かで引き攣ったような笑い声を上げた。


 周囲の人垣には断末魔の類のように聞こえていたかもしれないが、誰よりも近くでその笑顔を見ていたセフィーには、それが照れ隠しによるものだと確信できていた。


「ハ……ハハ、………そぉ、か…………俺も……君、の…………傍で……君の、笑顔……が…………見た……かっ、た…………よ…………………………」


 何処か嬉しそうに、或いは満足そうに目を瞑ったハンスは、まるで眠りに就こうとしているようにも見えたが、セフィーの手にはまだ押し返してくれるような感触があった。


「……ぇ……? ……ぃ、ぃゃ……だって…………そう。そうですよ……そんなの、幾らだって…………見れば良いではないですか…………私は、貴方の傍に居ます……誰よりも……いつまでも…………貴方の、傍に居ますから…………」


 必死に笑顔を作ろうとして、でも、どうしても歪んでしまう顔が悔しくなったセフィーは、ついハンスの手を強く握り過ぎてしまうが、その手の()()()()()()()()()()()()()()に若干安堵してもいた。


「……私の方こそ、泣き顔ばっかりで……御免なさい、ハンス……貴方はこうして……約束通り、()()()帰って来てくれているのに…………」


 喜哀が半々に入り混じっていたがなんとか笑顔を作れたセフィーは、ハンスの顔を覗き込んで返ってくるであろう答えを待った。


 なのに、幾ら待っても彼の口は動かなかった。


 それこそ、一流の職人が生涯最後の作品と銘打って作り上げた彫刻や、高名な画家が内なる情動のままに描き上げた想い人の似顔絵のように、見る者へ今にも動きそうなほどの存在感を放っているのに、だ。


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