京都の話
私は7月の某日京都の相国寺、吉田神社、金戒光明寺、真如堂を参りその後に平安神宮、青蓮院、知恩院、八坂神社に参った。こう参拝した神社仏閣を書き並べても文章は書けない。ただここまで書いてしまうとどう書きつなごうか迷う。この無謀さはこの旅の計画と同じかもしれない。この旅をした日は実は京都市内ではなく京都は京都でも宮津の天橋立に行こうと思っていた。ただ近畿の北部のほうには大嵐が吹いていたため帰ってこれなくなる可能性が出てきた。(私は学生でありその翌日は授業があったために宿泊はできない。そして生徒のみでの宿泊は校則が禁じているのである)こんな薄い理由で昔は神社の中でも有数の権力を持っていた吉田神社に行こうと思っているのは変な話だ。(吉田神社は室町時代から明治のころまで吉田神道という神道に仏教、儒教、道教をミックスした宗教がありここが総本山だったのだ。ただ明治の維新ののちに神仏分離などにより衰退の一途をたどった。)そんな薄い理由でも行ったのである。
さて旅の始まりは朝の梅田は静かである。この静かな梅田がいつもの喧騒とした梅田とは真反対であった。この梅田から旅は始まるのである。(いつもより)静かな梅田の繁華街を離れて阪急の大阪梅田駅に行ってみた。大阪梅田に行ってみたら阪急のマルーンの車両が列をなして並んでいる。左から神戸に行く列車、宝塚に行く列車、そして京都に行く列車になっている。そこに一風変わった列車が到着した。それが「京トレイン 雅楽」である。その列車に乗ると大阪のはずだがそこは京都なのである。中にはのれんに坪庭とそこらの列車とは格が違うのだ。そして、座席は畳が使われている。ザ・京都っていう感じで乗るだけでも楽しいのだ。そうやって大阪にいるのに京都にいると勘違いしているままに電車は発車した。そして勘違いから覚めると座席に座り流れる景色を楽しんだ。いつのまに十三、淡路を通過した。そして車窓の景色はビルから住宅街へ、住宅街から田んぼへ、田んぼから山へ、山から地下へと流れていた。そして河原町の前の駅たる烏丸についた。そこから地下鉄へと行くのだ。ただ地下鉄の風景はつまらない。さっさとそんなつまらないところを出ると同志社の今出川キャンパスがある。欧風の大学が日本一の古都たる京都にあるのは不思議である。さらに面白いのは裏に相国寺があることである。その寺は松の木が並んでおり和を感じられる。そして松の列から少し顔をのぞかせる相国寺の金堂は盆地特有の暑さをすぐに忘れさせ相国寺に没頭させた。また余り人のいないことだから静かでコツコツと鳴る靴の音も響き渡る。山門を出てバス停へと行かんとするとき不思議と後ろを向いた。遥かに見える金堂は松に完全に隠れてしまった。
そして山門をくぐりバス停に行く。忘れていた京都の暑さを思い出しながらバスを待っていた。いつ来るのかも知らずに。暑さに悶えながらバスを待っているとやっと来た。そしてバスに揺られて吉田山のふもとのバス停に来た。バス停の前には吉田神道の聖地にぴったりの鳥居が堂々と立っていた。そして鳥居をくぐればに聖なる山の風貌に圧巻した。ただ平地にぽつんと立てる山でもれっきとした山。天保山みたいな丘ではなく稲荷山のような山である。しっかりとした山なのだから一歩一歩歩くだけでもつらい。だが周りを見れば緑が広がっており聖地たる風格を感じることができた。そうして聖地たる風格を感じながら同時に盆地特有の暑さにうなだれていると一人の子供がいた。「へぇ・・・子供も聖地たる吉田山の雰囲気を感じに来るのか・・・」と一人見当違いなことを考えながら周りを見渡すとそこは公園だったのだ。この変わり具合はここは本当にさっきまでいた場所なのかと疑問に思うほどであった。そうして右往左往しながら公園から離れると吉田神社の摂社と思われる建物を見かけ近寄ったら案の定当たっていた。そこを拝んだのちに下ると吉田神社が見えた。鳥居の奥にたたずむ四つの本殿は私の語彙では言葉にできないほどに美しい。ポツンと立つ鳥居は吉田神社を聖地たらしめているように思える。ここを拝み少し歩くと斎場所大元宮という六角形の不思議な形をした大きな末社がある。この社は拝むだけで我が国にある神社を参拝したのと同じ御神徳があるという。そこまで聖なる社なのだから近寄れば不思議と心地よい感覚に襲われたのである。またこの社の醍醐味は何と言っても前述の社の形にあるだろう。特殊な形をしたあの社は吉田神道の盛んだったころの面影を残している様であった。もちろんこの社も拝んだのだが拝んだ当時は神聖さくらいしか感じなかったが、今思い返すと拝んでからあまり月日の経っていない今でも様々な御神徳を与えてくださったと思えることが多々ある。
さてそののちに近くにある宗忠神社である。宗忠神社は教派神道(幕末から明治にかけてできた神道系の新興宗教と伊勢神宮・出雲大社・浅間神社の講組織が発展した宗教で段階的に公認された14の宗教のこと)の一つの黒住教の教祖たる黒住宗忠を祭神とする神社である。新興宗教の教祖様を祀る神社と聞いて黒住教の勧誘を受けないかと身を構えていたがいざ行ってみるとちゃんとした神社だった。(よく考えたら同じ教派神道の天理教のおじばがえりに行った人が勧誘をうけたなんて話もほとんどないのだからここも同じのはずである)また鳥居は靖国鳥居で質素だったのは驚いた。
ここもしっかりと拝み真如堂に行かんと思い神社を離れて真如堂に行った。真如堂は吉田神社の近くにある大きなお寺である。御本尊様は阿弥陀如来で門から眺める三重塔はとても美しく見えた。ここから少し歩けば本堂につく。そして拝み御本堂の中に入った。ロウソクと線香をお供えして御本堂を出た。そして三重塔に近寄って少し上を見上げた。そしたら天高く聳え立つ三重塔が見えてとても壮大であった。また木の出す雰囲気は壮大さを強調していた。そして心を三重塔で満たし次は黒谷金戒光明寺へ参らんと思い歩いた。ついてまず黒谷明星水という昔から公家のお茶に使われていたという凄い水らしい。ここで手水をして身も心も洗い流してお堂へと向かった。お堂は大きく私の心を貫いた。この壮大さをかみしめながらお参りをして昼食をとろうと思った。そんな中私の目にうどんの文字が吹っ飛んできた。これはお寺な近くに店を構えることで参拝客に食事をとってもらおうとする高度な計略である。(一つ勘弁してほしいことがあるが計略という言葉に卑怯であるという意味を込めてはいない。すなわちここでこの店のネガティブキャンペーンを展開しようとは思っていない。詳しくは後述するがとても美味しかった。金戒光明寺に来たら是非ここで食事をとってほしい。)このあくどい計略に乗らまいと思うこともなく普通に入店した。確かきつねうどんと参拝記念スイーツ(みたらし団子とアイス最中)を頂いた。アイス最中は食べようとしたときにはすでに溶けていて盆地特有の暑さがどれ程のものかを物語っていた。また肝心のおうどんはというと私のようなボキャ貧に表現などできないがとても美味しかった。ここは他にも簡単な軽食をとれるのでぜひ来てほしい。
こののち少し歩いて行ったら平安神宮が見える。ここで皆様に平安神宮にまつわる京都の禁句を一つ教えたい。実は平安神宮は明治時代にできたあまり歴史がないということである。まあ京都人を怒らせたくなければ言うのは得策とは言えないだろう。こんな前置きはさておき平安神宮の近くに行けばまるで平安時代の京に来たような感覚を覚えた。さらに見上げれば水色の屋根が並びとても華やかである。境内のなかに入るととても広い空間が私出迎え真正面には外拝殿(大極殿)、左には白虎楼、右には蒼龍楼があり真正面の外拝殿は大極殿の別名のあるとおり平安京の大極殿を再現しておりこのおかげで令和の世の中にもここに来れば平安時代に来たという感覚はより一層強くなってくる。また左右の楼閣もまたいい味を出している。平安神宮の御祭神は桓武の帝と孝明の帝であり平安京の創始者と平安京が首都であった最後の時代の帝であるので京都の更なる発展と平安を祈った。そして後ろを見ると大極殿が大きく見える平安時代から令和の世の中に戻っていくのである。
その後知恩院へと進むと青蓮院にたどり着いた。少し中に入り拝観料を支払い奥に進むと庭が見えてくる。とてもきれいで見るだけで都会の喧騒を忘れてしまう。心が満たされながら進むと青不動の絵が祀られている場所にたどり着いた。そして私は何度も何度も拝んだ。やはりというべきか不動明王は仏像もそうだがとても勇ましい。あの男らしさというべきか言葉が出ないが壮大さを身にしみて感じることができる。そうして庭がさらに見えるところに行き腰かけたら見えるお庭の美しさに時間も忘れてしまった。もはやこの感覚を癒しなどの言葉だけではもはや足りないだろう。というより人間の言葉の限界まで説明しても全く表現できないような感覚なのである。ただ言い表すならばその言葉は癒しとかそちらの方の言葉がたくさん使われていることであろう。いつしか一時間以上は過ぎたのか分からないがかなりの時を過ごしただろう。
その後知恩院へ今度こそ行く。少し急な坂道を上ると見えてきた。とても目に収まりきらない大きな本堂が。中に入るととんでもなく豪華で華やかな仏具の一式が見えて知恩院の大きさにとても驚いた。中の法然上人を拝み立派な仏具を見ていると「南無阿弥陀仏」とお坊さんの声が堂内に響き渡った。知恩院の豪華さには心をひかれたものだ。流石浄土宗大本山である。この大きさ、豪華さ、美しさには感服である。
そして知恩院を離れると次は祇園信仰の聖地たる八坂神社に着いた。西楼門から入っていく。西楼門をすぐに右に行き少し歩いたら立派な社が見える。ここの御祭神は須佐之男命・櫛稲田姫命・八柱御子神(八柱のスサノオの子供)である。ただこれは明治の廃仏毀釈前でそれ以前は牛頭天王(お釈迦様の生まれた場所である祇園精舎を守る仏様)、八王子、頗梨采女(牛頭天王の奥さん)の三柱である。このような清仏集合の聖地だったわけである。ただ京都に来たら基本的に参拝するので今更どうとかはあまり思わない。ただただ平安を願ったぐらいである。そして西楼門に帰ってきたのだがここからもう帰ろうと思った。この際この西楼門から京都河原町駅まで少しなのである。だから私はここからは全速力で走るのである。一度走り出したら馬のように走り出すのである。そして息を切らして。地下に入っていき帰ったのである。
この日もまた京都を満喫したと思い帰っていく。いずれ差し込む日も少なくなり暗闇になっていくのである。この日の翌日はテストが返ってきたのである。どのような結果になるか分からない当時はとても不安だった。その不安を車窓から見える暗闇に捨て去ったのである。