カルダモンに恋した少年
ずっと前から僕の家の庭にある、ちょっと大きな木。
多くの人は見たことがないだろう。葉っぱが50センチ以上と長くて、幅も10センチくらいはあり尖っている。木の高さは3メートルくらい?
その名はカルダモン。
カルダモンって知ってるかい? そう、噛むと苦くてスーッとするスパイスなんだ。
巷では、スパイスの女王なんて呼ばれている。
周りの男子たちはみんな、美人で人気者の女の子に恋をした。でも僕は決して心動かされることはない。
だってカルダモンこそが、僕の彼女なんだから。
他の人はきっと変だと思うだろう。それでも僕は構わない。
だって僕はカルダモンに恋してる。その匂いを嗅ぐだけで、その大きな葉に触れるだけで、夢心地になれるんだ。
勘違いしないでほしいところは、僕はただの植物愛好家なんかじゃないということ。本気で、彼女を人間のように、いいやそれ以上に心の通う存在と思っているのだから。
狭苦しい学校から帰ってくると庭に出て、いつも彼女と話をする。
今日何があったとか、色々なことを。
そして彼女は疲れ切った僕をそっと葉っぱで包み込んで、抱き止めてくれるんだ。
「頑張って。見守っているから」
きっと彼女はそう言ってるに違いない。僕にはわかるんだ。
秋になると彼女は実をつける。僕は彼女からそっと実をとって、パクリと食べるのが大好き。
苦味と柑橘みたいな爽やかな香りが口の中に広がっていく。僕は彼女の一部を食べて、カルダモンと一緒になるのさ。
混ざり合って溶け合って。ちょうど人間の男女が交わるように、僕とカルダモンは交わっていた。
ずっとずっと、彼女とは恋人同士。
そう思っていた。
* * * * * * * * * * * * * * *
ある日のこと。
家に帰ると、なんだかカルダモンに元気がなかった。
「どうしたんだい?」
スパイスの女王の体を見て、思わず「あっ」と声を上げた。
どうして気づかなかったんだろう。全体が白っぽくなっている葉がたくさん見つかったのだ。
カルダモン自体もぐったりしていた。
このままでは彼女が死んでしまうかも知れない。
そう思うと気が気でなくて、怖くって。学校の図書室へ行って調べまくった。けど、カルダモンの木の本なんて見つからない。
そんな時、突然声をかけられた。
「……何か困ってるの?」
振り返ると、そこに立っていたのは可愛らしい少女だった。
クラスで人気者のあの子だ。
いつも男たちからチヤホヤされている彼女が一人で図書室にいたなんて意外すぎて、僕は腰を抜かしそうになった。
「べ、別になんでもないよ」
「いいえ困ってる顔をしてるわ。何か手伝えることがあったらやらせて」
妙なくらいに強引だったから、僕は仕方なしに話すことにした。
話を聞き終えた少女は「そうなのね」と頷くと、驚いたことにこう言ってくれたんだ。
「大丈夫、その病気は治るから。ちょっとあなたのお家に連れて行ってくれない?」
少女は園芸が好きなんだそう。だから、カルダモンのことも知っていたんだ。
家に少女を連れてきて、カルダモンの方を指差す。「とても大きいのね。実際に見るのは初めてよ」なんてことを言いながら、キッチンへ向かった。
「牛乳を水で薄めて……、これで完成!」
少女が手にしたのは、薄い乳白色の液体の入ったコップだった。
こんなものでカルダモンの病気が治るのだろうか?
「あれは正確に言うと病気じゃなくて害虫の仕業。見たところハダニってところかしら。薄めた牛乳を撒いてそれが乾くと、害虫は息ができなくなって死んでしまうのよ」
そして少女は庭へ出て、カルダモンの大きな木に牛乳をふりかける。
カルダモンの葉っぱがびちゃびちゃと濡れた。僕の大好きな彼女が水浸しじゃないかと怒りたくなったが、これも彼女を救うためなんだから仕方ない。
全部終わってしまうと、少女は満足げに言った。
「これでもう大丈夫なはずよ。それにしても、カルダモンって管理が難しいのに今までこの状態で生きてきたのが不思議だわ……。冬越しだって10℃以下だったら死んじゃうし、乾燥にも弱いらしいのよ?」
「ご、ごめん……。僕は彼女のことをもっと気遣ってあげないといけないんだな」
実はカルダモンを植えたのは僕の母さんだ。去年亡くなったけれど。
それからというもの手入れをしていなかったと今思い出す。
カルダモンを愛するなら、彼女を守るのも必要なんだ。僕はよーく思い知らされた。
「ありがとう。今日は助かったよ」
「いいのいいの。じゃあまたね」
彼女と別れてから、僕は牛乳まみれのカルダモンを見つめていた。
胸のドキドキに、理解が及ばないままで。
* * * * * * * * * * * * * * *
カルダモンは元気を取り戻して花を咲かせ始めた。
前と変わらず、僕と彼女は戯れている。一つ変わったことといえば、そこに少女が混ざったこと。
肥料を一緒に作って撒いたり、花をただただ眺めたり。
僕はいつしかそんな時間が楽しくなっていた。どうしてだろう、少女は僕とカルダモンの憩いの場を邪魔しているはずなのに、ちっとも嫌な気がしないんだ。
少女が色々手入れをしてくれたおかげで、カルダモンは前よりいい香りを放ち始めた。花はふっくら膨らんで、小さな実へと姿を変えていく。
その日も学校が終わるとすぐに少女がやってきた。
僕はカルダモンの実をたっぷりカゴに詰めて待っていた。一人で食べようかとも考えたけれど、きっと彼女も食べたがると思ったから。
「ちょっと男たちに絡まれちゃって遅くなったわ。待った?」
「ううん。カルダモンの実、食べるかい?」
薄緑色の実はカゴの中でカラカラと音を立てていた。
しかし少女は眉を顰めて首を振る。
「もしかしてそのままで食べるつもり?」
「そうだけど」
「カルダモンはスパイスなのよ? 料理に入れた方が断然美味しいわ」
僕は今までカルダモンと愛し合うために生で食べていたけれど、少女はそれがお気に召さないらしい。
一度くらい調理してみてもいいか。そう思って僕は実をキッチンへ運んだ。
鍋にカレールーを流し込み、そこへカルダモンをパラパラと放り込む。
僕の愛するカルダモンは火にかけられて黒くなり、カレーに溺れて沈んでいく。
なんだか少しもったいないような気もしたけれど、これできっと正しいんだろう。
カレーが出来上がるまでの間はしばらく時間がある。
何をしようかと考えていたら、少女が話しかけてきた。
「ねえ。君は好きな人とか、いる?」
僕は少しギョッとした。「突然だなあ。どうかしたのかい?」
「訊いてみただけ」
ぐつぐつぐつぐつ、カレーの煮える音。
ちょっと真剣な顔になる少女を見ながら、僕は思い切って言ってみた。
「僕はね、カルダモンに恋してるんだ」
「カルダモンって……この、スパイスのカルダモンのこと?」
「そう。変に思われるかも知れないけど、僕にとってカルダモンは彼女なんだよ」
この話を、他の人にするのは初めてだった。きっと頭がおかしいと言われるだろうから。でも、少女だけは僕と一緒にカルダモンを育てた仲だったから、話していい気がしたんだろう。
少女は困ったようにため息を吐いた。
「植物を愛するのは悪いことじゃない。でもカルダモンは話をしないわ」
「僕と彼女は心が通じてるんだ。だから、大丈夫」
僕はそんなことを言って、少女の方を見る。
すると彼女の瞳がゆらりと揺れた。
「……それって、逃げてるだけじゃないの?」
「え……」
しばらく、時が止まったように思えた。
何を言われているのかよくわからない。僕は本当にカルダモンに恋してるし、だからこそずっと……。
「人間が怖いから、植物の彼女を作ったんじゃない? 本気で君はカルダモンと結婚するつもりなの?」
言われて僕は、まるで殴りつけられたような感覚に襲われた。
図星、だったのかも知れない。
僕はカレーの中で浮き沈みを繰り返すカルダモンを見た。
爽やかで芳しいカルダモン。でも僕は本当の本当に、彼女を愛しているのだろうか?
こんな実や木と結ばれるはずがない。
カルダモンと心が通じているのか? それは僕の思い込みではないのか?
確かに僕は、学校で少し孤立していた。
他人と付き合うのが苦手だった。うまく話すことができなくて落ち込んでいる時、スパイスの香りを嗅いでいると、元気が出たんだ。
それが僕とカルダモンの恋が始まった理由だ。
カルダモンなら僕を愛してくれる。カルダモンだけが僕を優しく包み込んでくれる。
けれど、そんなのは妄想だ。ただの逃避だった。
僕は初めてそのことに気がついて、愕然とした。
「……私ね、正直カルダモンなんてどうでも良かったのよ」
ぽつりと、そんなことを言い出す少女。
「ずっと前から君のことが気になってた。色々とぶきっちょで、引っ込み思案。勉強もできるくせに内にこもって。なんか助けてあげたいなあって、そう思ったの」
彼女は、僕が家の庭のカルダモンと話しているところを以前に目撃したそうだ。
それで僕との接点を作りたかった彼女は、元々草木が好きなわけでもないのにカルダモンのことを勉強したんだとか。
僕はそんなこと、全然気づいていなかった。ただの偶然だとそう思っていたのに。
「あの時、君が困っていたでしょう? チャンスだって思ったのよ。だから、図書室にいた君に声をかけた」
何も言えずにいる僕をよそに、彼女は続ける。
「カルダモンの病気を治して、それから頻繁に君と会うようになったわね。君はきっと、私はカルダモンを見にきていたと思ったんでしょう? でも違った。いつの頃からかしらね、私の胸の中の気持ちを自覚しちゃったのよね。わかる? ……恋心ってやつかしら」
カレーのぷくぷくという音すら、もはや僕の耳には入らなかった。
頭の中にあるのは目の前の少女のことだけで、少女も同じなんだろう。
「君が好き。他の男の子たちなんかどうでもいいくらい、私は君が好きです。ねえ君は? 君は、どう思ってるの? 私よりカルダモンを選ぶなら、私は諦めるわ」
――そう、託された。
僕はカルダモンが好きだ。大好きだ。でも、それはそれ以上でも以下でもない。
はっきり言おう。きっと僕は、逃げていたんだ。カルダモンに身を預けて、何もかもを忘れていたかった。
でもその気持ちは、少女と触れ合うことで変わっていった。僕の意固地だった心はちょっとずつ解きほぐされていったんだ。
前は少女のことなんか興味がなかった。いや、そんなふりをしていただけだ。最初から、僕の心は燃えるように熱かったんだから。
今なら全てがわかる。
なら、僕が選ぶべき道は一つだ。僕は言った。
「気づいたよ。僕も、あなたに惚れてたんだってね。……初めはカルダモンを愛してたよ。でもその心は変わっていって、だから今はあなたを。――あなたを愛したいんだって」
* * * * * * * * * * * * * * *
あの後食べたカレーは、今までの中で一番美味しかった。カルダモンを噛むとほろ苦くて、これが青春の味なんだなあって思う。
僕のカルダモンへの気持ちは薄れていない。ただ、その形が変わったんだ。
カルダモンもきっと、僕が一歩進んだことを喜んでくれるだろう。
僕と少女は付き合い始めた。
まだまだ慣れないけれど、芽生えた恋情を大事にしたいと思っている。
いつか、少女と結ばれるとしたら。
その時はきっとカルダモンの木の下で、愛を誓い合いたいな。