絶対零度
氷点下三十度。繰り返し剥がれたかさぶたに雪が凍みる。弾丸のように飛んでくる冷気は、膝を抱えてうつむく彼らを芯から硬化させた。
ウラールの連峰を望む広大な平野には、レールを抱く車輪の音だけがこだましている。
ある男は、ついさっきから床に頭から突っ伏したまま動かない。極寒に晒された状態で眠ることはすなわち死を意味する。誰もが男の死を悟りつつも、手を出さない。
生半可に気をとられると、己の体力の消耗に繋がる。冷血な感情は、時に身を守る正義となりうる。
午前二時の列車は朦朧とした空気で満たされていた。
棹桿の手入れに勤しむ者、銃の解体組立に余念がない者も数知れず。後退しつつある前線へと送られる理由を各々探しているのだった。
「有益な援軍として」
大義名分のもとに召集されたのか、それともあくまで戦火を絶やさぬための付け焼き刃、上官の作為であるのか、知るよしもない。
やがて列車はトンネルへと差し掛かる。ここを抜ければいよいよ真の弾丸の嵐を肌に浴びるだろう。往路のレールだけ輝いていて、復路は錆びている。
脳裏に過った仲間の飛び散った頭蓋、焼け焦げた背中、貫通した両足に、何度別れを告げても離れられない。
他の連中は凍てつく車内で想うことはあるのか。
一様に伏せた顔は、針葉樹に囲まれた森の中では、例え車内灯があったとしても、混沌としているに違いない。
ふいに運転室から叫び声が上がった。
「どうした?」
素早く立ち上がった兵長に、
「舵が、効かんのです」
運転士が慌てふためき頭を抱えていた。
トンネルの手前には、分岐点が設けられている。
予定通りであれば、右へ操舵し、前線へと運ばれる。誤って左にそれれば、途切れた線路は崖へと大きく口を広げてひとたまりもない。このまま停止して万が一にも援軍が遅れることがあれば、反逆者の汚名を記せられ自決せざるを得ない。
「さて、どうしようか」
余りの寒さに神経の痺れた仲間たちには、判断を仰がれても仕方のないことで、高速の車体は沈黙を抱えたまま、分岐点へとまっしぐらに進んでいく。
「おらあ任せる。お国のためだもの。止まることはあってはならねえ。戦地で死ぬか、ここで落ちて死ぬか、みんなどっちか選べ」
列車の暗がりから滲み出る声に、
「そうだ、そうだ」
と声が上がる。
「本当にそうだろうか」
闇に紛れて姿は明らかでないが、非国民が残っていたとは、兵士たちの目に憤怒の炎がおこる。
「おい、今のはお前か」
一人の男が隣に向かって吠えた。
「貴様、なんと無礼なことか。許すまじ」
掴み合いになって揉みくちゃの車内は熱気を帯びる。髪の千切れる音や、体が床に投げ出される衝撃がほとばしる。
「やいやい、てめえも非国民か」
「もう一度言ってみろ」
反対の席で殴る蹴るの応酬が繰り広げられている。人いきれに満ちた列車は間もなく分岐を迎える。
血の臭いが真っ暗闇に漂って、へばりついている。敵を制圧するために蓄えていた微々たる闘争心は燃え上がり、列車を真っ赤に染めている。
窓から次々と棄てられていく死体は、ツンドラ平原に点々と赤黒い染みを落としていく。
これまで愛国心が辛うじて結びつけていた兵士たちはバラバラになり、列車に残された者たちもまた、生きる意味を見失っていた。
「一体何をしたかったのだろうか、仲間をこの手で」
震える声の主は、頭に当てた銃口の冷たさを最後に感じて引き金に指をかけた。
「どうせ前線に行っても足手まといになるだけだ。実際に士気のない兵士たちの援軍を誰が喜んで受け入れよう」
腹にナイフを突き立てた男は、そのまま横一文字に切り裂いた。その後も上へ下へと何度も繰り返し刃を動かして、やがて肉の脂の詰まったナイフは固まった。
「我が人生に一片の悔いなし」
「本当にそうだろうか」
暗闇に潜む誰かの声がする。籠っていた熱が奪われ、一層寒さに見舞われ始めていた兵士たちに戦慄が走る。
「自決した者を侮辱するなど言語道断。姿を見せい」
緊迫した空気は破られることなく、びゅうと吹きつける吹雪に煽られた車体はトンネルへとは進まずに、崖の方向へ吸い込まれていく。
「曲がりきれませんでした」
虚ろな運転士が自らの首に縄を巻く。
空には光が射しこみ、太陽に照らされたクレバスの淵がにわかに明らかになっていく。
列車は陽光目指してまっしぐらに突き進む。まるでその先に地面があることを疑わない、猛烈なスピードで車輪がレールを滑る。
「これで援軍の加勢がない前線はもうおしまいだろうな」
「本当にそうだろうか」
またあの声がする。耳を塞いでも鼓膜に吸着する声の媒質は、痩せ細った骨と皮だけのそれぞれの肉体。
絶対零度に覆われた真っ白な世界。クレバスの上にまた日は昇る。(了)
クレバスの底は覗けないけど、エベレストのアンモナイトみたいに、ずっと先の世界には露になる何かが眠っているかも知れない。
例えばイエティとか、見られちゃまずい国家の秘密文書とか。